日々の泡

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【映画】『彼女がその名を知らない鳥たち』(ネタバレ有)

  愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛することができない。

エーリッヒ・フロム『愛について』

 

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   十代の頃、小説や漫画や映画……その媒体を問わず、男女間のラブストーリーが嫌いで、鑑賞を避けていた時期がある。当時ラブストーリーが嫌いだった理由の一つが「男と女の間にある社会的な格差を、ロマンティックなものとして消費すること」を読者に強いてくる作品が、あまにりも多かったせいだ。

 分かりやすい例を挙げると「シンデレラ」がそれである。意地悪な義母と姉妹に酷い仕打ちを受けていた、灰被りことシンデレラは、魔法使いの助けにより変身し、舞踏会で王子様にその美しさを見初められる。そして後日、王子はガラスの靴を手がかりにシンデレラを探し出し、彼女はみすぼらしい少女から、プリンセスになり、幸せに暮らす――。

 でも、もしシンデレラのもとに魔法使いが現れなかったら?舞踏会で王子様に会うことなく、その後も灰被りとして過ごし続けたとしたら?王子様という権力を持った男性なしでは、彼女は何者にもなれないのではないのか……?

  この映画の主人公・十和子(蒼井優)は、そんな風に「お姫様になれなかった女の子」の一人だ。

 

 十和子はいつも苛々しながら生きている。彼女は、デパートやレンタルビデオ店等に理不尽なクレームを入れ、無関係の他人に悪意をぶつけて、毎日を過ごす。そして彼女の苛立ちの一番の矛先は、一緒に暮らす男・陣治(阿部サダヲ)へと向けられている。陣治は十和子と一回り以上年の離れた中年男であり、薄汚い容貌で、振る舞いは野卑で洗練とは程遠く、定職についてはいるものの、その能力は低く、年下の同僚に叱咤されている。そんな陣治だが、彼は十和子を溺愛している。寝る前の十和子にマッサージを施す等、彼女を喜ばせる事にいつも熱心であり、あまりにも冷たい仕打ちを受けても、毎日出勤前に十和子に小遣いをやり、出掛けていく。

 陣治の献身的な態度にも関わらず、十和子は彼を愛してはいないし、性的欲望の対象ですらない。彼女がそれでも陣治と一緒に暮らすのは、彼女が何も持っていないからだ。無職でただ毎日を自堕落に過ごす十和子は、見下している陣治の経済力に結局依存するしかなく、その事実が更に彼女を苛立たせる。

 映画序盤に表れるこの二人の関係を見れば、十和子の陣治に対する行いは、彼の愛を利用した搾取でしかない。しかし、ストーリーが進むにつれ、十和子の過去が明らかになる。

 十和子には数年前まで、黒崎(竹野内豊)という恋人がおり、心から彼を愛していた。黒崎は見目麗しく、洗練された大人の男で、彼といる時の十和子は「お姫様」そのものだった。しかし、黒崎は十和子ではなく、経済的な後ろ楯のある別の女性と結婚した*1。更に、十和子は黒崎と別れる際、彼の申し入れを素直に聞き入れなかった為、暴力を振るわれていた。

 この辺りから、別の人間関係が見えてくる。陣治の優しさを利用して生活する十和子だが、実は過去の恋人・黒崎からは逆に利用される側であった。過去に黒崎から利用され捨てられた十和子が、現在は陣治の愛を利用して生活している。つまり、黒崎>十和子>陣治という、愛の名の下に繰り返される搾取の構図が、浮かび上がるのだ。

 しかし、酷い別れ方をしたにも関わらず、十和子は未だに黒崎への想いを断ち切れない。彼女をお姫様にしてくれた黒崎との思い出に耽溺し、つい彼の携帯番号に電話してしまい、慌てて切る。そしてそれがきっかけで警察が家に訪れ、黒崎が五年前から失踪していた事を知り、ショックを受ける。

 一方で、十和子の電話クレームの対応の件で、自宅を訪れたデパートの時計売り場の責任者である水島(松坂桃李)と、あるきっかけで十和子は体の関係を結ぶ。水島は既婚者であるが、妻との関係に不満を持っており、ロマンティックな言葉で十和子の心を蕩けさせる。十和子は若く見目の良い水島に恋愛感情を持つようになるが、そんな十和子の変化に陣治は気づく。常に陣治に監視されているような居心地の悪さを感じながらも、十和子は水島に溺れていくが、そんな十和子に陣治は「またとんでもないことになる」と警告する。それがきっかけで、過去の黒崎の失踪に陣治が関わっていると十和子は確信を強めていく。五年前、陣治と黒崎に何があったのか。もしかしたら、黒崎を陣治が殺したのではないか……。疑いが深まるにつれ、十和子の過去の記憶が蘇り始める。だが、彼女を待っていたのは、自分自身で封じ込めていた過去であり、それが分かった時、十和子は陣治の本当の想いを知る。

 この映画の冒頭のシーンが、十和子がデパートに理不尽なクレームの電話を入れるシーンで始まるように、十和子は自分で働かず、自分で生活を変える努力をしようともしない。そのくせ王子様が現れるのを諦めきれず、水島と不倫に溺れる。他責的で身勝手でどうしようもない女であり、映画序盤では特にそれが強調される。

 現代において、結婚とは自由恋愛の結実した結果であり、分かりやすい幸せの形とされている。特別な誰かによって選ばれる事で、初めて自分も特別な何者になれるという、所謂「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」、あるいは「対幻想」。現代でも多くの人々がこの観念を信じており、十和子もその一人である。しかし逆にいえば、特別な誰かに選ばれない人間にとっては、この考えは呪いである。王子様に選ばれなければ、何者にもなれず、惨めな女として生きていけなければならない……。そんな呪いは、十和子にとっては残酷すぎる。だからこそ、彼女の人生において恋愛の比重は大きいのであり、彼女は自分をお姫様にしてくれそうな男である黒崎や水島に対して、自分を簡単に差し出してしまう。それは、十和子が自分の身体と若さ以外、何も持っていないせいだ。文化資本や経済資本、学歴資本など、他の資本を持っていない彼女は、好きな男に自分自身の身体と心の全てを与える事しかできない。一方で、黒崎や水島のような逃げ道のある恵まれた男にとっては、十和子のように恋愛に全てを捧げる女は、都合がよく、容易に利用しやすい対象になる。

 王子様に選ばれることによって、灰被りから「お姫様」になったシンデレラ。しかし彼女は結局、王子様という権力者によってしか「お姫様」になれないのだ。なんて可哀相で、無力な存在なのだろう……。

 普段私達*2が目を逸らして生きていることの一つに、日本は全国民中流社会ではなく、実は階層社会であるという事実がある。だがそれは「平等」という名目の為に、暗黙的に無いものとして扱われてきた。しかしこの映画は、十和子という女性の生き方を追うことで、下層女性の陥りやすい闇の部分を描いている。女性がどの社会階層に属するかによって、結婚が持つ意味合いは変わってくる。特に階層が下になるほど、女性にとっての結婚は「生存手段」、つまりセーフティネットとしての意味が強くなる。

 この社会は、女性にとって残酷なそんな現実を、甘くロマンティックな恋愛物語のベールで包んで、隠してしまう。王子様に相応しい権力と魅力を持った男性に愛される事こそ、幸せになれる道である。そう唆され、騙された女の子達は、黒崎や水島のような男から、あるいは社会から、搾取される。そして若く魅力的な年頃を浪費してしまい、十和子のような女が生まれる。一見どうしようもない女に見える十和子だが、この点において、彼女はロマンティック・ラブ・イデオロギーの呪いにかかった犠牲者とも言えるのだ。

  そんな十和子だが、彼女には陣治という愛してくれる人がいる。しかし、十和子は陣治を愛さない。彼は、どうやっても王子様になれる男ではないからだ。

 陣治は見た目が小汚なく、振舞いが下品で、十和子よりもずっと年上であるにも関わらず、稼ぎは少なく、出世も昇給も望めない男である。家父長制と一人稼ぎ手家族モデルが依然として強く残る現代の日本においては、社会的地位や身分が不安定であったり、収入が少ない男性は、結婚するのが難しい。実際日本において、男性の既婚率と年収には相関関係があり、また2015年度の調査では日本男性の生涯未婚率は23%に上る。そして、陣治もこの中に入る一人だろう。つまり、陣治は本来なら女性から選ばれない男、妻を娶ることができない類いの男である。そして保守的な価値観を有する男性社会においては、妻を持てない男は、未だ負け犬と見なされがちだ。

 お姫様になれない十和子と、負け犬男である陣治は、皮肉にも、お似合いの組み合わせと捉えることもできる。だが十和子は陣治を選ばない。やがては無くなる若さという資本を彼女はまだ持っており、十和子は希望を捨てきれないのだ。しかし彼女と違って、人生の先が見えている陣治は、負け犬たる自分の立場に自覚的である。

 ラスト近くの、陣治と十和子が初めて出会った時の回想にも、それがよく表れている。数年前、陣治が客先で事務員として働く十和子に一目惚れをしたのが、二人の出会いだった。しかし、陣治のこの一目惚れについて、私には違和感が残った。その時の十和子は、黒崎と別れたばかりで、別れ際に彼からふるわれた激しい暴力のせいで傷つき、顔や身体の多くが包帯で覆われ、彼女は決して美しい姿とは言い難い状態であった。しかし、陣治はそんな十和子に一目惚れをする。それはなぜか。

 穿った見方をすれば、陣治は傷ついた女であるからこそ、十和子に恋をしたのではないか。陣治は、自分が普通の若い女には選ばれない男だということを知っている。しかし、他に行き場の無さそうな傷ついた女であれば、話は違う……。陣治は、無意識のうちに、そんな希望を抱いていた可能性はないだろうか。

 いずれにしろ、実際、陣治は傷ついてボロボロの十和子を見て、恋に落ちた。そこに陣治という男の「歪さ」を感じてしまうのは、単なる私の猜疑心のせいだろうか……。

 十和子に恋をした陣治は、彼女に想いを伝え続ける。自暴自棄だった十和子は、自分に対して親身に接する陣治の想いを受け入れ、同居を始める。だが、あくまで十和子の陣治に対する感情は、いつまで経っても恋愛感情に発展することはない。それでも、陣治は十和子を愛し、庇護する。彼のように社会から「負け犬」のスティグマを押された男にとって、十和子という女は、本来なら手に入れられない存在だ。それを自覚している陣治は、自分を愛さない十和子を責めることができない。彼にとっては、彼女が自分の元に留まっていることが奇跡であり、それゆえ十和子の全てを許容しようとするのだ。

 「愛」がエーリッヒ・フロムのいうように信念の行為であり、なんの保証もなしにそれを起こす行為だとしよう。しかし、フロムが説くのはあくまでも「愛すること」の技術であり、「愛される」ための技術ではないのだ。それゆえ時として信念の愛は、必ずしも愛の見返りを受ける事がないというのも、また一つの真実ではないのか。

 

 映画のラストで、十和子はやっと自分の犯してきた罪と、陣治の想いの深さを知る。十和子にとって、罪を忘却し、陣治と生活してきた年月は、陣治にとっては時限装置付きの幸福な時間だった。そして「その時」が来た事を知った陣治は、自ら彼女の元を去る。

 十和子に無償の愛を与え続けた陣治は、己の最期に、初めて自分の望みを告白する。自分を決して愛さない十和子に対し、陣治は「次に生まれてくる時は、十和子の子供としてその腹に宿りたい」という望みを告げ、その身を空へ投げ出す。今生で男として愛されない陣治は、来世は彼女の子として愛されることを夢見る。それは彼にとっては、ささやかな最後の希望だっただろう。

 遺された十和子にとって、陣治のこの言葉は「生きろ」という強いメッセージを持つ。だが同時に、己の子として生まれ変わるという予言じみた陣治の遺志は、彼女への「呪い」でもある。結局十和子のような女は、夫となる男を見つけ、結婚し、子を生むという道こそが幸せであると、陣治は言っているのだ。陣治が望むのは、十和子という人間の自立ではなく、自分以外の男に彼女を預けることなのだ。

 だからこそ、これから十和子は、陣治という庇護者を亡くしたまま、再びまた「運命の誰か」を探さねばならない。この世に王子様はおらず、お姫様になれないと分かった灰被りは、それでも、ロマンティック・ラブ・イデオロギーの世界で、生きていかねばならないのだ。それは、なんて残酷で昏い道なのだろう。

 

「あなたはこれを愛と呼べるか――……」この映画のポスターの一文が、そう観客に問いかけてくる。そして、私は答える。

 たしかに、これは愛の一つの形かもしれない。だが、与える者と与えられる者は、決して対等とは限らない。愛という名の下に、搾取され、奪われる者たちの存在に、私たちはそろそろ気づくべきだ。愛という美しさの下に埋もれた不平等さと、搾取の危うさに、少なくとも自分は自覚的でありたい。そう思っている。

 

 

 

愛するということ 新訳版

愛するということ 新訳版

 

 

*1:現実世界でも、野心的でモテる男が最終的に結婚相手として選ぶのは、家柄が良かったり、経済的に恵まれた実家を持つ女性という事を、これまでの人生で何度も目にしてきたので、黒崎のこのあたりの行動は、個人的に既視感を覚えた。ちなみに私が今まで出会ってきた人達の中で、モテる男性はモテる女性より圧倒的に希少性が高いゆえ、付き合う女性は云わずもがな大体美人であり(最低条件)、更に結婚相手となると更に上記のような付加価値を持った女性を選びがちだと感じている。あくまで筆者の周りのそこまで多くない人達を見ての感想です。

*2:あるいはメディアや政府