日々の泡

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【映画】『メッセージ』感想ネタバレ(テッド・チャン原作『あなたの人生の物語』)


■評価
 ★★★★☆(4.2/5.0)

■感想(原作・映画ネタバレあり)
 素晴らしいSF作品に出会った時、私はいつも二種類の愉悦を体験する。
 一つは、ストーリーの要となる科学的命題の謎が徐々に明らかになっていき、点と点だったヒントが、最後に一本の線で繋がった時の快感である。(それは例えば、学生時代の数学のテストで、頭を悩ませながら、長い証明問題を解き終えた時の爽快感と似ている)
 そしてもう一つは、未知の事象に出会ったキャラクター達が、どのようにして問題に立ち向かい、行動するかという、人間ドラマとしての面白さだ。
 科学的命題解決がもたらす知的快感と、人間ドラマが生み出す感動。この二つが交錯し、融合することで、それまで出会ったことのない高みへと、鑑賞者を連れて行ってくれる。
 それが、子供時代に私がSFというジャンル小説を読んでいた理由であり、テッド・チャンの原作『あなたの人生の物語(Story of Your Life)』が好きな理由でもある。

 しかし、好きな小説が映画化されるというとなると、期待が大きい分、不安も大きくなる。
 まだ学生だったゼロ年代の頃、『あなたの人生の物語』と同様に、愛読していた伊藤計劃氏の『虐殺器官』のアニメ映画が、今年偶然にも時を同じくして公開された(この二作品は、言語SFとしての要素がある点でも共通している)。『虐殺器官』の映画としての完成度は高かった。だた、映画化されるあたり、自分がもっとも魅力に感じていたドラマ性が大幅にカット、あるいは改変され、小説とは別物になってしまったという印象になったのが、個人的には非常に残念だった。(これについては、以前のレビューやブログ記事に長々と感想を書いている)
 そのため今回は事前に原作を読み返したりせず、できるだけ期待値を低くして、鑑賞に臨んだ。そして観賞を終えたいま……この心配は杞憂だったことが分かり、喜んでいる。
 当初、原作『あなたの人生の物語』は、映画化向きの作品とは思えなかった。主人公ルイーズの記憶の断片を辿るエピソードの映像化は予想できた。しかし、小説の大部分は、異星人ヘプタポッドの言語を、ルイーズ達人間側がいかにして分析・理解し、どうやって彼らとコミュニケーションを取り、彼らの宇宙の見方を知っていくかという、過程について描かれていた。
 これが原作の持つSF的面白さではあるものの、それは非常に地道な探求の過程であり、そのまま映像にすれば、説明的すぎて、観客を退屈させるのは目に見えていた。何より、ヘプタポッド達との交流シーンをどのように映像化するのか、全く予想がつかなかった。要するに、この100ページ程度の小説を映像化するのは、あまりにも困難だと感じていた。

 しかし、ヴィルヌーヴ監督はそれをやってのけた。
 原作ではいまいち想像しきれなかった部分……例えば、ヘプタポッド達の宇宙船に印象的な造形を与え、彼らの生々しい発話音声を再現し、ヘプタポッド達が使う文字をリアルに作り上げた。これにより、小説には無かった、視覚的リアリティが生まれた。
 のみならず、原作では、ひたすら主人公達とヘプタポッド達との閉ざされた空間でストーリーが進んで行くのに対し、映画では宇宙人到来による世界の混乱や、それを巡る各国の対立といった、外の世界の動きについてのエピソードを追加している。それにより物語に奥行きとスケール感が増した。
 そのやり方はまるで、小説という完成された骨格に、筋肉や臓器や皮膚を当てはめたよう。そして劇場のシートに座った私の前に、血肉を持った生々しい肉体としての「映画」が出現した。これには素直に驚嘆した。

 成功のポイントは、原作には無い視覚的イメージを映像化し、加えて原作が持つ運命的な物語性の本質自体は変えずに、さらにそれを膨らませたところにあるように思う。だが、これにより丁寧な説明が必要な物理学・言語学的アイデアが省かれ、重厚なSF的要素が薄くなってしまったという面もある(これについてはあらすじを追って後述する)。

(※注:以下、ネタバレを含みます)



 ストーリーに沿って、原作との違いを交えながら、物語を振り返る。
 ある日、地球の各地に、突如として12機の巨大な球体型宇宙船が降り立ち、世界は混乱に陥る。そんな中、言語学者であるルイーズ・バンクス(エイミー・アダムス)の前に米軍のウェバー大佐(フォレスト・ウィテカー)が現れ、異星人達がなぜ地球に来たのかという目的を探る為に、協力を求められる。ルイーズは物理学者イアン・ドネリー(ジェレミー・レナー)とチームを組み、宇宙船に乗りこむ。そこで二体の異星人ヘプタポッド<七本脚>と出会い、彼らとの意思疎通を試みることとなる。
 ヘプタポッド達と接触を重ねるうち、ルイーズの脳内で、様々な光景が時折浮かぶようになる。そこには、ある少女が現れる。フラッシュバックを繰り返し、少女はどうやらルイーズの娘であること、そして若くして亡くなってしまうことが分かってくる。それはただの夢なのか彼女の記憶なのか。あまりにもはっきりと輪郭を持った脳内映像に、ルイーズは混乱する。

 調査を進めるうち、ヘプタポッド達の発話言語と書法体系は、まったく別個の言語からなっていることが判明する。要するに、彼らは、発話言語と書法体系という、二種類の別の言語を使用している。そしてその書法体系は、発話されたものとは関係なく意味を伝えることから、意味図示文字であることがわかる。たとえば、丸い円を描いて、そこに一本の斜線を引くと、進入禁止という意味になるのがその例だ。
(※映画ではこの点についての説明が薄かったので、補足する。ヘプタポッド達の文字は、それ自体が意味を有するが、発話された語には全く当てはまらないという点で、漢字などの表意文字(イデオグラム)とは違う。原作では、ヘプタポッド達の文字と表意文字との違いを示すために、彼らの使用する文字に表義文字(セマグラム)という用語を用いている。ヘプタポッド達は文章を書く際に、一つ一つ表義文字を綴っていったりしない。それは、円のような単一の線からできている一つの造形物だ。単一の線に、強弱やハネ等を追加していき、マンダラのような一つの統合物を書きあげ、文章を作る。文章の中では、どの文節や単語も互いに交錯し合い、再構成したり取り除くことができないまでに、強く結合している。それはつまり、ヘプタポッド達は文章を書く際、最初の一本目の線を引くより前に、全体の文章がどうなるかを把握していなければならない、ということを意味する)

 研究を重ね、ヘプタポッド達の書法に習熟するうちに、ルイーズの思考に変化が起きる。自分の思考が母国語ではなく、ヘプタポッド達の表義文字でイメージが浮かぶようになっていく。ヘプタポッド達の文章は、書く前にその文章の終わりまでの構成を把握していなければ書けないが、ルイーズは試行錯誤せずとも、最初から完成した文を書けるようになる。彼女は、ヘプタポッド達と同じような能力に目覚めつつあった。
 彼女が表義文字に深く精通するにつれ、ルイーズの脳は、自分の娘らしき少女の光景を、さらに鮮明に映し出すようになっていった。ある時、「ノンゼロサムゲーム」という単語をきっかけに、ルイーズの頭の中で、少女とのやりとりが脳内映像となって流れ出す。その鮮明さに、彼女はある確信を強めていく。
(※ところで、この映画および原作は「その人が使用する言語によって、世界観や思考の仕方が決定づけられる」という言語決定論、いわゆる"サピア=ウォーフの仮説"から着想を得ている。現在この仮説は否定されているが、テッド・チャンはそれを知りながら、あくまでも単なるアイデアとしてこの仮説を小説に使っている)

 段々とヘプタポッド達とコミュニケーションを取れるようになって来たある時、ルイーズは彼らから「人類に武器を与える」というメッセージを受け取る。これにより、世界各国の政府は「異星人が人類に戦争をさせようとしているのではないか」と騒然となる。これまで連携してきた各国政府の研究者たちは連絡を遮断し、中国を始めとした一部の国は宇宙船に攻撃を行う事を宣言する。
 そんな流れを止めようと、ルイーズとイアンは宇宙船に勝手に乗り込み、ヘプタポッド達と更なる交信を試みるが、過激派が仕掛けた爆弾によって会話は中断されてしまう。しかし、その直前に示されたヘプタポッドが書いた表義文字群の配置から、イアンは彼らの与えた言葉の本当の意味を発見し、ルイーズに伝える。
 軍が撤退を進める中、ルイーズはなんとか事態を打破しようと、今度は一人で宇宙船に乗りこみ、一体のヘプタポッドと表義文字で直接会話を行う。そこでルイーズは、ヘプタポッド達が人類とは違う認識様式で宇宙を見ている事を確信する。
(※注:以下は原作を基に私なりに理解した結果の私なりの説明である)
 人類は「ある目的Aのため、ある行動Bを起こし、その結果、ある事象Cを生じさせる」という風に、順序立った因果律的な『逐次的認識様式』で世界を見ている。しかし、ヘプタポッド達は「行動Bと結果Cを同時に認識し、その通りに行動し結果に到達することで、その根源に潜む目的Aを知覚する」という目的論的解釈、つまり『同時的認識様式』で世界を体験している。彼らヘプタポッド達が、行動を起こす前に未来のその結果を知っているのは、この認識様式のためだったのである。

 へプタポッド達に研究者は「なぜ地球にあなたたちは来たのか?」と問い掛けたが、当初、彼らから満足な答えが得られず、彼らの目的がやはり侵略ではと、人類は疑心暗鬼に陥ってしまう。だが、目的論的解釈で世界を体験しているヘプタポッド達は、その時そもそも、この問いに答えられる筈がなかったのではないか。
 彼らは初めから未来を認識し、それに向かって行動する。そしてそれが果たされた時、初めて彼らは自分達が行った行動の目的を知る。結果に到達しない途中の過程では、ヘプタポッド自身、自分たちの行動の目的を知らなかったのではないか。
 だがその後、ルイーズが果敢に宇宙船に一人で乗り込み、ヘプタポッドとの一対一の会話を交わした時、彼らは「人類が3000年後に我々を救うため」と、地球に来た目的を明かす。それは、おそらくこの時になって、彼らの行動が、彼らの予測していたある結果に到達し、ヘプタポット達は自ら地球に来た理由を説明できるようになったからなのではないか。私はそのように推測する。
 
 ヘプタポッドとの最後の対話によって、未来を見る認識様式を獲得したルイーズは、宇宙船への各国の攻撃を中断させるべく、ある大胆な行動に出る。その結果、世界の分裂を阻止することに成功する。
 ヘプタポッド達は自ら予見した結果を達成し、世界に散らばっていた12機の宇宙船は去っていく。そして地球には、以前と同じ日常が戻ってくる……。
 
 だが、ヘプタポット達が消えても、ルイーズが体験した未来の記憶は、彼女の中にしっかりと残っていた。
 ルイーズはやがてイアンと結ばれること、彼との間に娘を授かること、その後イアンと離婚すること、そして娘が成長したとき、残酷な運命……娘が若くして亡くなるという試練が待ち受けていることを、はっきりと予見する。
 だが、そんな事実を知りながら、ルイーズは自らの娘にハンナ(HANNNAH)という名を与え、愛し、育てることを決意する。

 人間は自由意思を持ち、より良い未来を造るために行動するという、因果律の認識様式で生きている。しかしルイーズはヘプタポット達の目的論的認識を体験し、いくら悲しい結末その先にあろうとも、娘を産み育てようと決意する。
 原作ではルイーズは、ついそうせざるを得ないという消極的な形で、やがて来る悲劇を受容する。
 しかし映画では、彼女は産まれる前から娘の死を予見しながらも、娘を愛することを自ら選択し、運命を受け入れる決意をする。つまり映画では、彼女の意志の積極性をより強調している。
 これにより、ヴィルヌーヴ監督は、原作には無かった、人が一つの生命体として、生と死、自らの運命を受け入れることの美しさを表現した。
 科学の英知によって、若さや不死に執着するのではなく、運命を受け入れ、限られた時間の中で他者を愛する人間の姿……。たしかに、ルイーズの決断は美しい。この映画のラストに、私は感情を揺さぶられた。

 けれど、そんな生き方は、あまりにも残酷すぎる。
 変えられない未来を見つめながら、そこに向かって動くことを肯定する……それはまるで、ニーチェ永劫回帰のごとき世界観ではないか。
 目的論的世界観ではなく、私は因果律的な世界観を生きているし、生きていきたい。もしルイーズのように、時間を超えた同時認識的様式で未来の記憶を見てしまったら、彼女のように決断することはできないだろう。自分のような弱い人間は、きっとニヒリズムに陥ってしまう……。

 未来が残酷であるからこそ、それを運命として受け入れ、自分の生を全うしようとするルイーズの生き方は、美しく輝く。
 けれど、私はやはり、自分の行動によって、未来がより良くなる事を信じて生きていたい。

 映画のエンドロールが流れ出した時、重い余韻に身を任せながら、私はそんなことをずっと考えていた。



■補足
 原作では、ヘプタポッド達が人類にとっては初歩的な数学的・物理学的な概念(例えば速度)について応答しないのに対し、微分法が必要な「フェルマーの原理」や、複雑な計算が必要な概念について応答したことから、イアン(原作ではゲイリー)ら物理学者達は突破口を見つける。人類にとって初歩的な概念が、ヘプタポッド達にとっては複雑で、逆に彼らにとって初歩的な概念が人類には複雑な計算を要するものである、という事実が判明したことで、ヘプタポッド達の世界観が人類のそれとは違うことが分かる。ここから、ヘプタポッド達が、行動を起こす前に結果を知っているのでは……という疑いをルイーズは持つことになる。
 映画化にあたり、科学的な監修のためか、あるいは映像化するには説明的すぎるためか、これらの原作の物理学的方面の成果はごっそり削られている。
 そのため映画では、ルイーズがヘプタポッド達の世界観を知る過程についての説明が薄くなり、また物理学者のイアンがいまいち何の役割を果たしたのかが分からなくなっている。
(原作の物理学的エピソードを削った事自体は、成功か失敗かは私には分からない)

■余談
 私はつい、この『メッセージ』と伊藤計劃の『虐殺器官』を今年映画化公開されたこと、また同じく言語SFである点で比較してしまう。
 上述のとおり『メッセージ』の原作『あなたの人生の物語』は、その人の使う言語によってその人の思考や世界観が決定されるという、言語決定論(サピア=ウォーフの仮説)からアイデアを得ている。
 一方、伊藤計劃の『虐殺器官』は、サピア=ウォーフの仮説を否定する言語論からアイデアを得ている。「全ての人間が生まれながらに普遍的な言語機能を備えており、全ての言語が普遍的な文法で説明できる」「言語を獲得しようとしている子供の脳の中に、それを可能にさせているなんらかの生得的なシステム(言語機能)が心的器官として存在している」と唱えるノーム・チョムスキーの普遍文法。そして、チョムスキーの概念を批判し、更に発展させたスディーブン・ピンカーの言語本能説などから、『虐殺器官』は影響を受けていると思われる。
 私は言語学は専門外で、多少本を読んだだけで、上記の概念を理解しきれていない。だが『あなたの人生の物語』と『虐殺器官』を読んでから、言語学の本を読むと、SF作家達が言語学からアイデアを引き出す過程が見えて、大変興味深かった。そして、これからも言語学から着想を得た、新しいSF作品が世に生まれるかもしれないと思うと、一人のSFファンとして、わくわくしてくるのだった。