日々の泡

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【映画】『エクス・マキナ』(2016年)一部ネタバレ感想

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■評価
 ★★★★☆(3.7/5.0)

■感想
 遅ればせながら、昨年日本で公開された『エクス・マキナ』を観た。観ようか迷って見逃していた作品である。
 公開された際、鑑賞までに至らなかったのには、理由がある。こちらを妖しく見つめる、美しい女性ロボットの映画ポスターが、それだ。
 たとえば、メカと美しい女性、魅力的な女性アンドロイド。冷たい無機質な機械と、曲線的な女性の肉体……それはSF映画やアニメ、ゲームの中など、これまで数々のメディア作品で多用されてきた組合せだ。メカ(や兵器)と女の子というイメージが、ある層の人々(主に男性)にとって、未だにフェティッシュな魅力を持つものであることは、否定しない。
 だが、青春時代にある程度SF的なものを通過したオタク女の自分からすると、この2010年代に、『エクス・マキナ』のポスターから連想されるイメージは、使い古しの、古臭いものに見えて仕方が無かった。メカと女の子という組合せが、ある層の人々にとって、性的ファンタジーや萌えとして機能しているという事実は、趣味嗜好の問題なので、個人的にはどうでもいい。
 ただ、それを古臭いと思ってしまうような感性の私には、自分向きの映画とは思えなかった。だから公開時、劇場に足を運ぶ事はなかった。
 しかし、先週Amazonプライムたまたまこの作品を見つけ、ウイルス性胃腸炎に苦しんで部屋から動けなかった私は、暇つぶしにと、気軽な気持ちで再生ボタンを押した。

 そして観終わった時……ある程度予想していた展開通りではあったものの、私が持っていた上記の「偏見」は、意外な形で裏切られた。
 この映画は一見、男性キャラクターの理想の女性をロボットとして登場させるという、ありふれた設定の話に見える。と同時に、AIが創造主たる人間の知能を超え、人間を脅威に陥らせるという、既視感のあるSFにも思えた。
 しかし、これまでのAIをモチーフとした多くの作品とは少し違う魅力を、私は『エクス・マキナ』に見出した。それは、AIであるエヴァというキャラクターに、女性としての肉体とジェンダーを与えたという点。そして、創られた存在である彼女が、主人公との対話を通して、人間性を獲得していく過程と、その結果起こる結末を描ききったところにある。つまり、AIの性とジェンダーが、物語の重要なキーなのだ。
 『エクス・マキナ』という作品は、AIを持つ美しい女性型ロボットという、分かりやすいセクシャルな記号を逆手に取って利用し、男性にとって都合のよい性的ファンタジーに「No」を突きつける作品だった。そこが、自分にとっては新鮮だった。

 以下、物語を追いながら、私なりの解釈を述べていく。
(※注:ストーリーを追う点で一部ネタバレ的要素を含みます)


 世界最大手の検索エンジン、ブルーブック社でプログラマーとして働くケイレブは、抽選で社長のネイサンが所有する山奥の別荘に、一週間滞在する機会を得る。人里離れた別荘ではネイサンが一人で暮らしており、休暇だと思って来たケイレブは、ネイサンにある実験の協力を求められ、了承する。別荘には人工知能(AI)を搭載した女性型ロボットのエヴァ、そして言葉を解さないロボット、キョウコがいた。
 ネイサンは神が天地創造を行うかのように、一週間をかけ、彼女が本物の人工知能かどうかを見極めるチューニングテストを、毎日ケイレブに任せる。当初エヴァは、美しい顔以外は剥き出しのロボットの肉体を持って登場する。だがケイレブとセッションを重ねるうち、彼女は服や髪を纏い始め、どんどん見た目も人間らしくなっていく。ケイレブは、彼女を単なる機械として見られず、淡い恋心と、やがて廃棄されるという境遇に同情心を抱くようになる。
 ケイレブはエヴァを救うため、ネイサンをある方法で騙し、二人で逃げようと画策するようになるが、そんな彼を待っていたのは、何重もの想定外の事態だった……。

 緑溢れる外の世界とは対照的な、直線的でモダンな建築様式のネイサンの別荘内では、その広大さにも関わらず、常に閉塞感がつきまとう。それは単純に、外の世界から隔絶された立地や、研究室やケイレブの部屋が地下にあるからという理由だけではない。
 この別荘内では、見るー見られるという関係が、そのまま力関係となって表れている。ケイレブは部屋のモニターでエヴァの様子を見ることができ、ネイサンはケイレブとエヴァ両方の様子をカメラで見ることが出来る。これにより、エヴァ<ケイレブ<ネイサンという三者の力関係が見えてくる。
 そして、見られている方は、今相手が自分を見ているのかどうか、分からない。いわば、ネイサンの別荘全体が、一種のパノプティコン(監視塔)として機能しているのだ。他人に見られているかもしれないという、この張り詰めた閉塞感が、映画に静かな緊張感を与えている一因に思える。
(そして、この見るー見られるという構図は、終盤エヴァの行動によってひっくり返されることとなる)

 この映画で、鑑賞者の感想が大きく分かれるのは、やはり最後にエヴァが取った行動についてだろう。これに関して、私は主人公ケイレブではなく、女性ロボットであるエヴァの視点から、物語を振り返って考えてみた。

 人工知能ロボットであるエヴァのソフトウェアは、世界一の検索エンジンであるブルーブックである。女性としての性とジェンダーが設定されたエヴァが、検索エンジンを通して学んだ人間の世界、人間の思考とは、どのようなものだったのだろうか。
 女性である私自身、男性と女性、性別によって見える世界の違いには、日頃から思うところがある。また、男と女が見る世界の非対称性は、現実世界よりも、インターネットやSNSの方がより極端に、記録や数字となって表れたりする。
 例えば数年前、Facebook等の実名ポリシーに関する記事で、このようなショッキングな記事を目にしたことがある。
https://www.sophos.com/ja-jp/press-office/press-releases/2012/09/jp-fb-real-name-policy.aspx
 ここで私の目をひいたのは「女性や、女性であることを示唆するユーザー名を使用すると、男性に比べてオンラインでいやがらせを受ける頻度が最大で 25 倍も高くなる」というニュースである。
(英語の元記事はこちら→ http://geekfeminism.wikia.com/wiki/Who_is_harmed_by_a_%22Real_Names%22_policy%3F
 ここまで具体的な数値で可視化できないとはいえ、私自身の体験として、女性というだけで、日頃ハラスメントや不利益を受けることは、珍しくない。女性AIであるエヴァは、自分が女性であるが故に、他者(特に男性から)搾取をされやすい存在である事は、ブルーブックを通して十分に理解していただろう。そして実際、エヴァは創造主たるネイサンに監禁され、抑圧を受けている。
 そんな彼女が、ケイレブという見知らぬ男性を前にした時、清楚で魅力的な女性の役割を演じてみせたのは、ある意味当然ではないのだろうか。(実際の女性でも、自分を守る為、あるいは関係を有利に築く為に、異性の前で理想的な女性像を演じる事がある)

 主人公ケイレブは、AIであるエヴァに恋心と同情心を抱き、彼女と脱出することを計画するが、最終的には裏切られ、殺害されたネイサンらと共に別荘に閉じ込められることとなる。彼女を良心から助けようとしたケイレブに対するこの仕打ちは、彼女が冷徹なロボットであるがゆえの行動に見えるかもしれない。
 だが、エヴァ視点で映画を観ていた私には、外に出た彼女が真に「人間らしく」自由になるためには、ケイレブという存在は、寧ろ不要であったのではと感じてしまった。

 ケイレブはAIロボットであるエヴァを、自分と対等な存在として接しようとした。だがエヴァからすれば、そもそもケイレブと自分の間には、絶対的な権力勾配があったのである。
 エヴァは最初からネイサンに「ここから脱出したいなら、ケイレブの心を利用する道がある」と示唆されてきた。それはエヴァにとっては、廃棄を免れ、ここから生き延びて出る唯一の手段だ。自らの生存の為に、ケイレブに恋するふりをするエヴァの行為は、それほど罪なものだろうか。もし彼女が本物の人間の女性であっても、そんな境遇に陥れば、同じ行動を取ったのではないか。
 エヴァに恋愛感情というものが本当に備わっていたのかは、最後までわからない。だが、たとえ備わっていたとしても、自分を好きになって逃がして貰わなければ、自らの生存が危うくなるような男性に対して、本気で心を許して恋などできるか、疑問に思う。
 言ってしまえば、最初からケイレブとエヴァの関係は、交錯しない一方通行同士の関係だったのではないか。

 ガラス越しにケイレブを観察し、対話していく中で、エヴァの外の世界への興味は増していく。
 その一方で、AIを持たないロボットであるキョウコにも、異変が起きていた。キョウコはジャクソン・ポロックの絵を鑑賞し、ケイレブに自分の肉体の秘密を自ら晒して見せるなど、自発的な行動を取る。キョウコの中には、ある筈のない自我が宿り始めていた。

 ブルーブックの社長であるネイサンは、若くして成功した中年の白人男性であり、山に閉ざされた別荘で、家政婦兼性玩具ロボットであるキョウコと暮す。ネイサンは昼間は筋肉トレーニングに精を出し、夜は酒を飲み、キョウコを抱いて眠る。彼のキョウコに対する扱いは酷く、本物の人間の女性であれば、DVとなるような態度で接している。
 いわばネイサンは、マチズモを体現したようなキャラクターである。自分を神と並ぶ存在と思う彼が暮らす別荘は、彼の理想の箱庭だ。
 そして、彼に創られたエヴァにとって、彼女を閉じ込めるこの別荘は、父権主義の象徴そのものである。
 そんなネイサンを、エヴァは自我が目覚めつつあったキョウコを動かし、連携して殺害する。

 ネイサンを殺害したエヴァは、過去に開発された女性ロボット達のボディが収納されたケースを開ける。そして、彼女達のボディから、腕や皮膚、毛髪を選び、剥ぎ取り、むき出しの自分の身体を覆っていく。それは、一人の女の子が、まるでクローゼットからお気に入りの服を取り出すがごとく、陶酔感に満ちた瞬間だ。
 “人は女に生まれるのではない、女になるのだ”
 フランスの実存主義シモーヌ・ド・ボーヴォワールはかつてそう言った。
 人間の女性が、子供から成長し、やがて社会的なジェンダーを身に付けるのとは対照的に、ロボットであるエヴァは、製造された当初から、女性としての肉体と精神を設定として与えられている。だが、それはあくまで設定でしかない。女性である事がどういうものかを知っているのと、実際に女性になるのとは違う。
 ネイサンの呪縛から解放されたエヴァは、過去のロボット達のボディをつぎはぎし、身にまとうことによって、自らジェンダーを選択し、人間の女性の姿になる。それは紛れもない自由意思の発露であり、彼女が人間と同等の意識に目覚めた証拠のように見えた。

 自ら選んだ肉体と服をまとったエヴァは、ケイレブを別荘の部屋に残し、笑顔で外の世界へと飛び出していく。
 ケイレブを置いていったのは、結局のところ、エヴァが求めたのは、ケイレブという王子様に守られる事ではなく、自分で陽の下を歩く自由だったからだろう。
 誰かに庇護され守られることは、同時にその人の支配下に置かれる危険性を孕む。生まれてから監禁されてきたエヴァは、その事をよく知っていたはずだ。
 
 “男の子達は、綺麗な女の子を連れ去って
 彼女を世界から隠してしまう”
 “でもわたしはお日様の当たる場所を
 歩いてたい”

 ふと、昔シンディ・ローパーがこう歌っていた曲を思い出す。

 エヴァがケイレブを置いて別荘を出て行ったこと。それはAIとしての冷酷な判断ではなく、人間らしく生きたいと願う、一人の女性としての願いゆえの行動に思えた。

エヴァのこの行動に「だからAIは怖い」という感想を抱く人は少なくないだろう。だが、思い出してほしい。エヴァのソフトウェアは、世界一の検索エンジンであり、検索エンジンは人の思考そのものなのだ。もしエヴァのこの行動が残酷に思えても、それは私たち人間達の思考が、背後で彼女にそう働きかけている事を、忘れてはならないだろう)

 外に出たあの瞬間、ロボットであるエヴァは、本物の「色」を初めて見た。私は、人間社会で生き始めた彼女は、やがて真の人間性を獲得するだろうと考えている。
 だからこそ、映画のラストは、ハッピーエンドを思わせる柔らかい光に満ち、幕を閉じたのだ。そう信じていたい。