日々の泡

ついったでは書ききれない感想など

【映画】『光』(河瀬直美監督)感想

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■評価
 ★★★★☆(3.9/5.0)

■感想

 この映画を観終えたとき、私は「耳で映像を観る」という感覚を初めて味わった。その時見た景色は、時間を経た今となっても、私の脳内で鮮やかな残像となって生きている。
 しかし『光』を観た人全員が、これを体験できるわけではない。ラストシーンで、耳で映像を観る境地に至るためには、上映中に映画の作り手が鑑賞者に課してくる「試練」に耐え続け、観客自身が能動的に「耳で見る能力」、すなわち聴覚情報から見えないものを見る想像力を身につけねばならないのだ。
 ではその試練とは一体何なのか。それを説明するため、ストーリーを追いながら、この映画のミザンセヌ(映像の構成要素)を、分析していくこととする。

 認知症の母と別居して暮らす、主人公・美佐子(水崎綾女)は、視覚障がい者のための「映画の音声ガイド」の制作に携わっている。最愛の妻を亡くした老男性の姿を描いた映画、『その砂の行方』のガイドを作るため、美佐子らは、視覚障がい者の人達に参加してもらい、彼らから意見を貰うモニター会を定期的に開いている。そこで、美佐子は誰よりも厳しい指摘をしてくる、元カメラマンで弱視の中森雅哉(永瀬正敏)に出会う。
 美佐子は『その砂の行方』のガイドを何度も書き直し、監督に質問する機会を得るも、どうしてもラストシーンにつけるガイドが思い浮かばず、悩み続ける。
 美佐子の作ったガイド文に、容赦ない批判を向けてくる中森に対し、美佐子は最初反発を覚える。しかし、同じガイドスタッフから、目の見えない人達は私たちよりずっと豊かな想像力の世界に生きている、という言葉をかけられたのをきっかけに、美佐子は視覚が無い世界とはどのようなものかということを、自ら考えるようになっていく。
 あるきっかけで、美佐子は中森と個人的に過ごす機会を持つ。当初苦手に思っていた中森という男と会ううち、彼が未だ写真を撮ることに執着していること、視力を失いゆく絶望の中で一人孤独に生きていることを知り、心を通わせていく……。

 『光』では、カメラが映す範囲で役者を動かすのではなく、役者の動きを制限せず、自由に演技をさせ、手持ちカメラが役者を追う。この役者の演技を第一に重視したカメラの動きは、ドキュメンタリー映画にあるような、リアリズム志向の映像作家の撮り方だ。
 しかし、そんなカメラの動かし方とは正反対に、その他の映像の構成要素は実に意図的なやり方で撮られている。
 各シーンの初めに挿入される、エスタブリッシングショット(その場所がどこかや、状況を示すためのロングショット)を除けば、この映画の殆どのシーンは、クローズアップ、またはミディアムクローズアップ等の、被写体に寄せたショットで構成されている。そして被写界深度は浅く、ピントが当たっている部分以外はぼやけて映される。
 また、上記のように寄せて撮影された被写体ですら、必要な情報は全て画面に収まっていない。例えば、役者を映したクローズアップショットでは、役者の頭が画面内に収まりきらず、上部にはみ出たり、焦点を当てた身体の一部以外は画面外へと弾き出されている。つまり画面内に必要な被写体の情報が全て収められたクローズフレームではなく、画面外に「何か」があることを観客に示すオープンフレームで、映画の世界をトリミングしている。
 これらの意図的なショットの構成によって出来上がる映像は、日頃私たちが見ている肉眼の世界よりも、ずっと範囲が狭く、窮屈感を覚える。映画のフレームが切り取る世界は、あまりにも狭いため、観客は、まるで視力を失いゆく中森と同様、視界が狭くなっていく弱視を疑似体験させられている感覚を味わい、時に見えにくさに対する苛立ちを感じる。これが、作り手の狙いの一つだろう。
 そして同時に、これは映画の鑑賞者の「想像力」を鍛える試みでもある。画面内に映すべきものが全て映されていないというオープンフレームによって、観客は画面外に何があるのか、常にフレーム外の世界を自分で想像し、脳内映像化することを求められる。音声ガイドを作る主人公・美佐子は、視覚障がい者の人々の「見えないものを想像する力」がどんなものかを考えることを求められるが、彼女と同様、この映画の観客も画面に映っていないもの(=画面外の見えない世界)を想像することを上映中求められ続ける。(観ていて疲れる、というこの映画の感想が多いのはこのためだろう)
 約一時間半弱の上映時間を通して、この映画は観客に「見えない世界を想像する力」を身につけさせようと、試練を与える。そして真摯にその試練に耐え続けた鑑賞者だけが、その能力を自分のものにすることが出来る。

 『光』は、美佐子が苦心して作り上げた「音声ガイド」による劇中映画『その砂の行方』の上映会のシーンで終わる。劇場に集まった目の不自由な観客達は、音声ガイドの再生機からイヤホンを耳に当て、見えない光景を想像する。
 想像力を鍛えられた『光』の観客達も、彼らと同様、目で劇中映画を観るのではなく、美佐子の作った音声ガイドから「耳で観る」という体験をする。
 『その砂の行方』のラストは、主人公の老人が浜辺を走って行く光景で終わる。そしてその時、『光』の映画内と現実世界、どちらの世界の鑑賞者たちも、耳から脳内にその世界の鮮やかさを映し、感動を自分のものにできるのだ。

 ふと、哲学者ジャック・デリダの『涙こそが目の本質ではあり、視覚ではない』という言葉を思い出す。彼は、19世紀の哲学界で「目で見ること=知ること」とされていた視覚中心主義を批判し、視覚に障害を持つ人々に対する差別性を否定する。そして、涙……つまり、無数の他者との共感性を肯定した。
 『光』はラブストーリーという宣伝文句を与えられている。しかし、美佐子と中森という見える者と見えない者が、二人の間にある断絶を乗り越え、互いに共感し合う物語……私には、孤独な魂同士が結びついていく過程を描いた作品に思えた。

 想像力と共感性……それこそが、この映画の本質ではないだろうか。