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日々の泡

ついったでは書ききれない感想など

【映画】『メッセージ』感想ネタバレ(テッド・チャン原作『あなたの人生の物語』)

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■評価
 ★★★★☆(4.2/5.0)

■感想(原作・映画ネタバレあり)
 素晴らしいSF作品に出会った時、私はいつも二種類の愉悦を体験する。
 一つは、ストーリーの要となる科学的命題の謎が徐々に明らかになっていき、点と点だったヒントが、最後に一本の線で繋がった時の快感である。(それは例えば、学生時代の数学のテストで、頭を悩ませながら、長い証明問題を解き終えた時の爽快感と似ている)
 そしてもう一つは、未知の事象に出会ったキャラクター達が、どのようにして問題に立ち向かい、行動するかという、人間ドラマとしての面白さだ。
 科学的命題解決がもたらす知的快感と、人間ドラマが生み出す感動。この二つが交錯し、融合することで、それまで出会ったことのない高みへと、鑑賞者を連れて行ってくれる。
 それが、少女時代に私がSFというジャンル小説を読んでいた理由であり、テッド・チャンの原作『あなたの人生の物語(Story of Your Life)』が好きな理由でもある。

 しかし、好きな小説が映画化されるというとなると、期待が大きい分、不安も大きくなる。
 まだ学生だったゼロ年代の頃、『あなたの人生の物語』と同様に、愛読していた伊藤計劃氏の『虐殺器官』のアニメ映画が、今年偶然にも時を同じくして公開された(この二作品は、言語SFとしての要素がある点でも共通している)。『虐殺器官』の映画としての完成度は高かった。だた、映画化されるあたり、自分がもっとも魅力に感じていたドラマ性が大幅にカット、あるいは改変され、小説とは別物になってしまったという印象になったのが、個人的には非常に残念だった。(これについては、以前のレビューやブログ記事に長々と感想を書いている)
 そのため今回は事前に原作を読み返したりせず、できるだけ期待値を低くして、鑑賞に臨んだ。そして観賞を終えたいま……この心配は杞憂だったことが分かり、喜んでいる。
 当初、原作『あなたの人生の物語』は、映画化向きの作品とは思えなかった。主人公ルイーズの記憶の断片を辿るエピソードの映像化は予想できた。しかし、小説の大部分は、異星人ヘプタポッドの言語を、ルイーズ達人間側がいかにして分析・理解し、どうやって彼らとコミュニケーションを取り、彼らの宇宙の見方を知っていくかという、過程について描かれていた。
 これが原作の持つSF的面白さではあるものの、それは非常に地道な探求の過程であり、そのまま映像にすれば、説明的すぎて、観客を退屈させるのは目に見えていた。何より、ヘプタポッド達との交流シーンをどのように映像化するのか、全く予想がつかなかった。要するに、この100ページ程度の小説を映像化するのは、あまりにも困難だと感じていた。

 しかし、ヴィルヌーヴ監督はそれをやってのけた。
 原作ではいまいち想像しきれなかった部分……例えば、ヘプタポッド達の宇宙船に印象的な造形を与え、彼らの生々しい発話音声を再現し、ヘプタポッド達が使う文字をリアルに作り上げた。これにより、小説には無かった、視覚的リアリティが生まれた。
 のみならず、原作では、ひたすら主人公達とヘプタポッド達との閉ざされた空間でストーリーが進んで行くのに対し、映画では宇宙人到来による世界の混乱や、それを巡る各国の対立といった、外の世界の動きについてのエピソードを追加している。それにより物語に奥行きとスケール感が増した。
 そのやり方はまるで、小説という完成された骨格に、筋肉や臓器や皮膚を当てはめたよう。そして劇場のシートに座った私の前に、血肉を持った生々しい肉体としての「映画」が出現した。これには素直に驚嘆した。

 成功のポイントは、原作には無い視覚的イメージを映像化し、加えて原作が持つ運命的な物語性の本質自体は変えずに、さらにそれを膨らませたところにあるように思う。だが、これにより丁寧な説明が必要な物理学・言語学的アイデアが省かれ、重厚なSF的要素が薄くなってしまったという面もある(これについてはあらすじを追って後述する)。

(※注:以下、ネタバレを含みます)



 ストーリーに沿って、原作との違いを交えながら、物語を振り返る。
 ある日、地球の各地に、突如として12機の巨大な球体型宇宙船が降り立ち、世界は混乱に陥る。そんな中、言語学者であるルイーズ・バンクス(エイミー・アダムス)の前に米軍のウェバー大佐(フォレスト・ウィテカー)が現れ、異星人達がなぜ地球に来たのかという目的を探る為に、協力を求められる。ルイーズは物理学者イアン・ドネリー(ジェレミー・レナー)とチームを組み、宇宙船に乗りこむ。そこで二体の異星人ヘプタポッド<七本脚>と出会い、彼らとの意思疎通を試みることとなる。
 ヘプタポッド達と接触を重ねるうち、ルイーズの脳内で、様々な光景が時折浮かぶようになる。そこには、ある少女が現れる。フラッシュバックを繰り返し、少女はどうやらルイーズの娘であること、そして若くして亡くなってしまうことが分かってくる。それはただの夢なのか彼女の記憶なのか。あまりにもはっきりと輪郭を持った脳内映像に、ルイーズは混乱する。

 調査を進めるうち、ヘプタポッド達の発話言語と書法体系は、まったく別個の言語からなっていることが判明する。要するに、彼らは、発話言語と書法体系という、二種類の別の言語を使用している。そしてその書法体系は、発話されたものとは関係なく意味を伝えることから、意味図示文字であることがわかる。たとえば、丸い円を描いて、そこに一本の斜線を引くと、進入禁止という意味になるのがその例だ。
(※映画ではこの点についての説明が薄かったので、補足する。ヘプタポッド達の文字は、それ自体が意味を有するが、発話された語には全く当てはまらないという点で、漢字などの表意文字(イデオグラム)とは違う。原作では、ヘプタポッド達の文字と表意文字との違いを示すために、彼らの使用する文字に表義文字(セマグラム)という用語を用いている。ヘプタポッド達は文章を書く際に、一つ一つ表義文字を綴っていったりしない。それは、円のような単一の線からできている一つの造形物だ。単一の線に、強弱やハネ等を追加していき、マンダラのような一つの統合物を書きあげ、文章を作る。文章の中では、どの文節や単語も互いに交錯し合い、再構成したり取り除くことができないまでに、強く結合している。それはつまり、ヘプタポッド達は文章を書く際、最初の一本目の線を引くより前に、全体の文章がどうなるかを把握していなければならない、ということを意味する)

 研究を重ね、ヘプタポッド達の書法に習熟するうちに、ルイーズの思考に変化が起きる。自分の思考が母国語ではなく、ヘプタポッド達の表義文字でイメージが浮かぶようになっていく。ヘプタポッド達の文章は、書く前にその文章の終わりまでの構成を把握していなければ書けないが、ルイーズは試行錯誤せずとも、最初から完成した文を書けるようになる。彼女は、ヘプタポッド達と同じような能力に目覚めつつあった。
 彼女が表義文字に深く精通するにつれ、ルイーズの脳は、自分の娘らしき少女の光景を、さらに鮮明に映し出すようになっていった。ある時、「ノンゼロサムゲーム」という単語をきっかけに、ルイーズの頭の中で、少女とのやりとりが脳内映像となって流れ出す。その鮮明さに、彼女はある確信を強めていく。
(※ところで、この映画および原作は「その人が使用する言語によって、世界観や思考の仕方が決定づけられる」という言語決定論、いわゆる"サピア=ウォーフの仮説"から着想を得ている。現在この仮説は否定されているが、テッド・チャンはそれを知りながら、あくまでも単なるアイデアとしてこの仮説を小説に使っている)

 段々とヘプタポッド達とコミュニケーションを取れるようになって来たある時、ルイーズは彼らから「人類に武器を与える」というメッセージを受け取る。これにより、世界各国の政府は「異星人が人類に戦争をさせようとしているのではないか」と騒然となる。これまで連携してきた各国政府の研究者たちは連絡を遮断し、中国を始めとした一部の国は宇宙船に攻撃を行う事を宣言する。
 そんな流れを止めようと、ルイーズとイアンは宇宙船に勝手に乗り込み、ヘプタポッド達と更なる交信を試みるが、過激派が仕掛けた爆弾によって会話は中断されてしまう。しかし、その直前に示されたヘプタポッドが書いた表義文字群の配置から、イアンは彼らの与えた言葉の本当の意味を発見し、ルイーズに伝える。
 軍が撤退を進める中、ルイーズはなんとか事態を打破しようと、今度は一人で宇宙船に乗りこみ、一体のヘプタポッドと表義文字で直接会話を行う。そこでルイーズは、ヘプタポッド達が人類とは違う認識様式で宇宙を見ている事を確信する。
(※注:以下は原作を基に私なりに理解した結果の私なりの説明である)
 人類は「ある目的Aのため、ある行動Bを起こし、その結果、ある事象Cを生じさせる」という風に、順序立った因果律的な『逐次的認識様式』で世界を見ている。しかし、ヘプタポッド達は「行動Bと結果Cを同時に認識し、その通りに行動し結果に到達することで、その根源に潜む目的Aを知覚する」という目的論的解釈、つまり『同時的認識様式』で世界を体験している。彼らヘプタポッド達が、行動を起こす前に未来のその結果を知っているのは、この認識様式のためだったのである。

 へプタポッド達に研究者は「なぜ地球にあなたたちは来たのか?」と問い掛けたが、当初、彼らから満足な答えが得られず、彼らの目的がやはり侵略ではと、人類は疑心暗鬼に陥ってしまう。だが、目的論的解釈で世界を体験しているヘプタポッド達は、その時そもそも、この問いに答えられる筈がなかったのではないか。
 彼らは初めから未来を認識し、それに向かって行動する。そしてそれが果たされた時、初めて彼らは自分達が行った行動の目的を知る。結果に到達しない途中の過程では、ヘプタポッド自身、自分たちの行動の目的を知らなかったのではないか。
 だがその後、ルイーズが果敢に宇宙船に一人で乗り込み、ヘプタポッドとの一対一の会話を交わした時、彼らは「人類が3000年後に我々を救うため」と、地球に来た目的を明かす。それは、おそらくこの時になって、彼らの行動が、彼らの予測していたある結果に到達し、ヘプタポット達は自ら地球に来た理由を説明できるようになったからなのではないか。私はそのように推測する。
 
 ヘプタポッドとの最後の対話によって、未来を見る認識様式を獲得したルイーズは、宇宙船への各国の攻撃を中断させるべく、ある大胆な行動に出る。その結果、世界の分裂を阻止することに成功する。
 ヘプタポッド達は自ら予見した結果を達成し、世界に散らばっていた12機の宇宙船は去っていく。そして地球には、以前と同じ日常が戻ってくる……。
 
 だが、ヘプタポット達が消えても、ルイーズが体験した未来の記憶は、彼女の中にしっかりと残っていた。
 ルイーズはやがてイアンと結ばれること、彼との間に娘を授かること、その後イアンと離婚すること、そして娘が成長したとき、残酷な運命……娘が若くして亡くなるという試練が待ち受けていることを、はっきりと予見する。
 だが、そんな事実を知りながら、ルイーズは自らの娘にハンナ(HANNNAH)という名を与え、愛し、育てることを決意する。

 人間は自由意思を持ち、より良い未来を造るために行動するという、因果律の認識様式で生きている。しかしルイーズはヘプタポット達の目的論的認識を体験し、いくら悲しい結末その先にあろうとも、娘を産み育てようと決意する。
 原作ではルイーズは、ついそうせざるを得ないという消極的な形で、やがて来る悲劇を受容する。
 しかし映画では、彼女は産まれる前から娘の死を予見しながらも、娘を愛することを自ら選択し、運命を受け入れる決意をする。つまり映画では、彼女の意志の積極性をより強調している。
 これにより、ヴィルヌーヴ監督は、原作には無かった、人が一つの生命体として、生と死、自らの運命を受け入れることの美しさを表現した。
 科学の英知によって、若さや不死に執着するのではなく、運命を受け入れ、限られた時間の中で他者を愛する人間の姿……。たしかに、ルイーズの決断は美しい。この映画のラストに、私は感情を揺さぶられた。

 けれど、そんな生き方は、あまりにも残酷すぎる。
 変えられない未来を見つめながら、そこに向かって動くことを肯定する……それはまるで、ニーチェ永劫回帰のごとき世界観ではないか。
 目的論的世界観ではなく、私は因果律的な世界観を生きているし、生きていきたい。もしルイーズのように、時間を超えた同時認識的様式で未来の記憶を見てしまったら、彼女のように決断することはできないだろう。自分のような弱い人間は、きっとニヒリズムに陥ってしまう……。

 未来が残酷であるからこそ、それを運命として受け入れ、自分の生を全うしようとするルイーズの生き方は、美しく輝く。
 けれど、私はやはり、自分の行動によって、未来がより良くなる事を信じて生きていたい。

 映画のエンドロールが流れ出した時、重い余韻に身を任せながら、私はそんなことをずっと考えていた。



■補足
 原作では、ヘプタポッド達が人類にとっては初歩的な数学的・物理学的な概念(例えば速度)について応答しないのに対し、微分法が必要な「フェルマーの原理」や、複雑な計算が必要な概念について応答したことから、イアン(原作ではゲイリー)ら物理学者達は突破口を見つける。人類にとって初歩的な概念が、ヘプタポッド達にとっては複雑で、逆に彼らにとって初歩的な概念が人類には複雑な計算を要するものである、という事実が判明したことで、ヘプタポッド達の世界観が人類のそれとは違うことが分かる。ここから、ヘプタポッド達が、行動を起こす前に結果を知っているのでは……という疑いをルイーズは持つことになる。
 映画化にあたり、科学的な監修のためか、あるいは映像化するには説明的すぎるためか、これらの原作の物理学的方面の成果はごっそり削られている。
 そのため映画では、ルイーズがヘプタポッド達の世界観を知る過程についての説明が薄くなり、また物理学者のイアンがいまいち何の役割を果たしたのかが分からなくなっている。
(原作の物理学的エピソードを削った事自体は、成功か失敗かは私には分からない)

■余談
 私はつい、この『メッセージ』と伊藤計劃の『虐殺器官』を今年映画化公開されたこと、また同じく言語SFである点で比較してしまう。
 上述のとおり『メッセージ』の原作『あなたの人生の物語』は、その人の使う言語によってその人の思考や世界観が決定されるという、言語決定論(サピア=ウォーフの仮説)からアイデアを得ている。
 一方、伊藤計劃の『虐殺器官』は、サピア=ウォーフの仮説を否定する言語論からアイデアを得ている。「全ての人間が生まれながらに普遍的な言語機能を備えており、全ての言語が普遍的な文法で説明できる」「言語を獲得しようとしている子供の脳の中に、それを可能にさせているなんらかの生得的なシステム(言語機能)が心的器官として存在している」と唱えるノーム・チョムスキーの普遍文法。そして、チョムスキーの概念を批判し、更に発展させたスディーブン・ピンカーの言語本能説などから、『虐殺器官』は影響を受けていると思われる。
 私は言語学は専門外で、多少本を読んだだけで、上記の概念を理解しきれていない。だが『あなたの人生の物語』と『虐殺器官』を読んでから、言語学の本を読むと、SF作家達が言語学からアイデアを引き出す過程が見えて、大変興味深かった。そして、これからも言語学から着想を得た、新しいSF作品が世に生まれるかもしれないと思うと、一人のSFファンとして、わくわくしてくるのだった。

あなたの人生の物語

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虐殺器官〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

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言葉とは何か (ちくま学芸文庫)

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言語を生みだす本能(上) (NHKブックス)

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統辞理論の諸相――方法論序説 (岩波文庫)

統辞理論の諸相――方法論序説 (岩波文庫)

【映画】『マンチェスター・バイ・ザ・シー』感想

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◼評価
 ★★★★⭐(4.2/5.0)

◼感想
 家族や大事な存在を、突然不本意な形で亡くした時、人は、今日と同じように明日が来ること、未来が当り前に続くことが、信じられなくなる。生の呆気ない幕切れを目撃した人は、より良い未来を信じることなんてできずに、刹那的にしか生きていけない状態になるのだ(たとえば、数年前の私がそうだったように)。
 それでも大抵は、時間が解決してくれる。
 だが、この映画の主人公リー(ケイシー・アフレック)は違う。何年もそんな状態から抜け出せずに、空虚に毎日を生きている。

 ボストンで便利屋をしているリーは、腕が良いのに、無愛想な態度のせいで客からの苦情が多く、上司を悩ませている。
 ある雪の日、リーの元に病気を患っていた兄ジョーが亡くなったと知らせが入り、彼は車を走らせ、故郷のマンチェスター・バイ・ザ・シーへと戻る。
 ある悲しい事件をきっかけに故郷を離れたリーにとって、そこは居心地のよい場所ではなかった。亡くなった兄の後始末をさっさと行おうとするリーだったが、ジョーが遺言で一人息子のパトリックの後見人に自分を指名していたと初めて知り、愕然となる。
 甥の後見人になるということは、自ら離れた故郷に戻り、そこで甥が成人するまで彼と暮らすことを意味する。だが、この場所には、リーにとってはあまりにも辛すぎる記憶が残っている。
 葬儀の準備や、パトリックの面倒をみながら、今後どうすべきかリーは混乱しながら模索する。
 久しぶりの故郷で過ごすうち、リーの前にかつての故郷での記憶が時折フラッシュバックし始める。かつてのリーは、妻と子供に恵まれ、故郷で幸せに暮らしていた。常に暗く陰鬱な今の彼とは真逆の明るい性格で、友人達にも恵まれていた。
 では、一体なにが彼を変えたのか。
 そんな観客の疑問に答えるかのように、画面はリーの現在と、過去の記憶を織り交ぜて映しだす。故郷に戻って兄の後始末をする現在の彼と、幸せだった過去とかつて悲劇……現在と過去を対比するかのように、映画はリーという男の半生を語る。

 多くの映画では、回想シーンと現在のシーンとの違いが観客に明確に伝わるように、過去の回想シーンの色調や照明のキーを変えたり、回想シーン部分にフィルターをかけたり、現在のシーンと過去のシーンの繋ぎに明確な区切りをつけたりする。
 だがこの映画では回想シーンと現在のシーンの間にそのような分かりやすい区別をつけず、リーの脳内に突如浮かんだ記憶をそのまま映し出すが如く、過去が蘇る。
 過去の記憶は、現在の出来事と同じ撮り方で描写される。それはまるで、リーにとっての過去が現在と同じ時間軸にあり、まだ彼にとってそれは「過去」になっていない事を示すかのような、記憶の生々しさを伝えてくる。
 そして実際、彼は未だ過去の世界に生きている。

 社会との繋りを放棄して生きている中年のリーとは対照的に、遺された甥のパトリックは、友人や(二人の)恋人に恵まれ、クラブやバンド活動に精を出し、16歳という年齢を謳歌して生きている。彼は父ジョーの死に対しても混乱せず、死後直後でも友人や恋人を家に呼ぶなど、落ち着いている様子だ。
 パトリックのガールフレンドの親と30分の世間話も続かない中年のリーと、社交的な少年パトリックとでは、一見パトリックの方が冷静で、大人びているようにさえ見える。
 そんなパトリック相手に、後見人になったリーは遠慮なく自分勝手に行動し、故郷を離れたくないというパトリックの思いを無視してボストンで暮らすことを決め、勝手にジョーの遺した物達の後始末をしようとする。
 だが、ある些細な事をきっかけに、突然パトリックはパニック発作に襲われる。そしてその時はじめて、リーはまだパトリックが大人に守られるべき子供であることを実感する。
 そこから、リーはパトリックに対して、彼の為に自分ができる最善の事を考え、行動し始める。

 一方で、頑なにボストンで暮らすことを譲らないリーに対して、パトリックは反抗する。リーの方が故郷に戻ってくるべきだと主張し、何年も行方知らずだった母と連絡を取り、会うことを決める。
 だが、母とリーという、本来は頼るべき大人も、一人の弱い人間でしか無いことを、パトリックは知ることになる。
 ある時、パトリックはリーの過去の写真を見つけたことをきっかけに、リーの心の傷がまだ癒えていないこと、故郷のこの場所で暮らすことが、リーにとって苦痛でしかないことを察する。
 そして、反発しあっていたリーとパトリックは、だんだん互いを理解し、相手のどうしても譲れないものを尊重する決意をする。

 映画の終盤、リーの元妻ランディ(ミシェル・ウィリアムズ)は、同じ悲劇を経験した者として、リーに対する過去の行いを謝る。赦しのはずのその言葉は、しかしリーにとっては救いにはならなかった。
 彼女の言葉によって、リーは頑なに蓋をしていた悲劇の記憶を、再び甦らせてしまう。

 「乗り越えられない」というリーの呟きは、あまりにも重く、私に響いた。
 辛い過去からの再生を描いた物語は、世の中に多くある。けれど、実際はリーのように、逃れられない過去を背負い、失った誰かの不在を心に抱えながら、生きている人達もいる。
 「乗り越えられない」という彼の言葉は、絶望の告白のはずなのに、何故か私には希望に聞こえた。
 逃れられない過去を引き摺って、それでも生きていかねばならない人がいる。皆がみな、強く生きられる人間ばかりじゃない。それは、残酷な事実のようで、私のような弱い人間にとっては、救いでもある。

 「マンチェスター・バイ・ザ・シー」は、まさしく『わたしの映画』と呼びたくなる一本になった。

【映画】『パーソナル・ショッパー』感想(ネタバレあり)

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◼評価
 ★★★⭐⭐(3.3/5.0)

◼感想
 突然だが、私は幼少期を日本有数の信仰深い土地で過ごしたせいか、自身の信仰以前に、昔から魂の存在を信じている。
 そして現在は『新耳袋』を始めとした多くの実話怪談集本の蒐集家であり、『幽』等の怪談雑誌の読者であり、平山夢明氏や加門七海氏、最近では郷内心瞳氏といった実話系怪談作家の熱心なファンであり、時に怪談イベントに足を運び、知人から実体験の超常現象の話を聞き集めたり、(家人に嫌がられながらも)就寝前には必ず何らかの怪談本や怪談系民俗学的資料を読みながら寝たりする。つまりは、どこにでもいる(多分)オカルト好きの一人である。
(ちなみに、多くのオカルトファンがそうであるように、私はスピリチュアルという単語を忌避して使わない。それは霊的なものから禍禍しい面や宗教的背景を取り除いて、一般向けに舌触りよくするために漂白された、カジュアルでクリーンすぎる単語だからだ)

 そのため、以下に述べるこの『パーソナル・ショッパー』の感想は、いち映画ファンであると同時に、オカルトファンとしての個人的な推測によるところがある。そのようなものに懐疑的な方には、荒唐無稽な部分が多いと思われるため、この感想を読まれるのはお薦めしないということを、予め断らせて頂く。
 以下、この映画のストーリーを追いつつ、拙い私なりの解釈を記述する。

 主人公モウリーン(クリスティン・スチュワート)は3ヶ月ほど前に双子の兄ルイスを亡くし、自分の半身を失った悲しみから立ち直れないまま、兄が亡くなったパリで、彼が死後の世界から「サイン」を送ってくるのを待っている。彼女と亡くなった兄には霊媒師の才能があり、生前「どちらかが先に亡くなったら、サインを互いに送る」と約束していた為だ。

 夜になると、モウリーンは生前ルイスが過ごしていた郊外の屋敷に滞在し、ルイスが現れるのを待つ。
 屋敷の中をまわり、次々に窓を開けていくモウリーンの姿を、カメラは丁寧に追っていく。この窓を開放するという行為は、外(異界)から内へ他者(つまりルイスの魂)を呼び込む為の、儀式的な行為のように見える。
 屋敷の中に他者の存在を感じながら、だが、決定的なサインを見いだせず、モウリーンは一人で朝まで過ごす。

 モウリーンの仕事は、多忙なセレブであるキーラの代わりに服を選んで届ける、パーソナルショッパーだ。モウリーンは、常にどのアイテムがキーラが気に入るかを第一に考え、ブランド店からブランド店へとバイクで街を疾走する。
 その仕事は、単なる買い物代行のみならず、「他人の欲望の代理人」とも言える。
 買い物という消費欲は、人間の持つ生々しい煩悩(=生の象徴)そのものだ。そしてその欲望は、もっとも「死」という精神世界から遠い。
 つまり、モウリーンは人の煩悩と死後の霊界、エロスとタナトスという、二つの両極端な世界を行き来して暮らしている。そして、そんな彼女の生活は最近上手く行っていない。

 最先端の流行を発信するアパレルショップやショールーム、きらびやかなファッションの世界を飛び回っているというのに、モウリーンは常にノーメイク。服装は、革ジャンにジーンズや、シンプルなポロシャツ。飾り気がなく、いつも全体的に暗めの色合いのコーデである。
 (クリスティン・スチュワートの類い稀な美貌のお陰でサマにはなっているものの)彼女の地味すぎるファッションは、明らかにファッション業界という、人間の欲望が渦巻く世界では浮いている。逆に言えば、キラキラ輝く世界に身を置いているからこそ、彼女の服装は異端に見える。
 常に暗く地味な彼女の装いはまるで、亡くなった兄の喪に服すため、服を選んでいるかのようだ。
(因みに、彼女が信仰を持っているかは分からないが、キリスト教等の宗教には、日本の四十九日のように具体的な忌服期間はない。日本の忌服の習慣は、宗教というより日本独特のケガレ思想からきている)

 モウリーンは、ルイスが遺した屋敷で再び夜を越し、超常現象を体験するが、それは兄ではなく見知らぬ女の霊だった。
 もう兄は屋敷にはいないのではないかと、モウリーンが肩を落としかけたある日、差出人不明のテキストメールがスマホに届く。
 誰かと問いかけるモウリーンに、相手は「私はお前を知っている。お前も私を知っている」と答える。ただのイタズラかと無視しようとするが、兄からのサインという、一方的な連絡を待つことに疲弊していたせいだろうか。彼女はテキストメールという、双方向のコミュニケーションに興味をひかれ、会話を続けてしまう。そのうち、相手があまりにも自分の事を知っていることから、もしやメールの相手はルイスなのでは……と疑いを抱きつつ、彼女はメールのやり取りを続ける。
 一体、メールの相手は誰なのか。何の目的で、彼女に接触してくるのか……ここから、物語はサスペンス味を帯びてくる。

 やり取りを続けていくうち、メール相手からの質問は、例えば「君が嫌いなものは何?」「別人になりたいと思うか?」など、どんどん個人的(パーソナル)なものになっていく。
 その質問に答えるうちに、やがてモウリーンは、彼女自身も気づいていなかった、自分の欲望を意識するようになっていく。
 いつものように洋服を買い回って雇い主の元へ届けたある日、彼女はメールで「最も怖れていることは何か?」と問われる。この質問に「禁止されていることをやってしまうこと」と答える。
 そしてこの回答を通して、モウリーンは雇い主から禁止されていた行為……つまり「雇い主のドレスや靴やアクセサリーを自ら身に付けることをしてみたい」という、抑圧してきた自分の欲望に目覚める。
 留守中の雇い主の家で、モウリーンは禁忌を犯す。雇い主の為に買い付けたドレスと靴を身に付けた時、彼女は自分に課していた抑圧から解放される。同時に、もう一つの新たな欲望……エロティックな衝動が沸き上がり、雇い主のベッドで、衝動的にマスターベーションに耽ってしまう。しかし、なぜそんな行為をしてしまったのか。
 この時私は、思想家ジョルジュ・バタイユの著書「エロティシズム」を思い出した。そこでは「『禁止』を破って『侵犯』することで、エロティシズムの領域に至る」という主張が説かれていた。
 この思考に沿うと、「雇い主の服や靴を身に付けてはいけない」というモウリーンにとって身近な『禁止』を破ってドレスを纏い、『侵犯』したことで、彼女はエロティシズムな領域と交流(コミュニカシオン)したのではないか……そんな風に私は結論づけた。

 雇い主のベッドで眠ってしまったモウリーンが、朝ふと目覚めると、傍に霊的存在がいることに驚き、慌ててその家を出る。
 この霊的存在は一体何なのか。これは憶測でしかないが、モウリーンのテキストメールの相手の魂(つまり生霊)ではないか。何故ならば、モウリーンが雇い主の家にいることを知っていたのは、メールの相手だけであり、また後に彼(彼女)は「モウリーンの着飾った姿を見たい」という欲求をメールで送ってくるからだ。その生きた人間の強い欲求が具現化した形が、生霊となってモウリーンの元を訪れたのではないだろうか。

 その後、テキストメールの相手は、モウリーンをあるホテルの部屋に来るように呼び出す。行ってみると部屋は無人で、部屋の代金は彼女の名前で事前精算されていた。
 モウリーンはメール相手に「着飾ったあなたを見せて」と言われ、雇い主のドレスと靴を纏った姿を自撮りして、メールに送る。
 この時のモウリーンはいつものスッピンではなく、きちんとメイクをし、髪を整えており、ゴージャスなドレスに引けをとらない程美しい。この時、自分の欲望を自覚した彼女の生活は、死の世界から生の世界へと比重を移しつつあるように見える。

 だが、雇い主の突然の死を目撃することよって、彼女の心は再び死者の世界へと突然引き戻されてしまう。
 いつものように買った服とカルティエのジュエリーを届けに雇い主の部屋を訪れると、殺された雇い主の死体を見つける。部屋にいる邪悪な何者かの気配に気付き、一旦慌ててその場を去るも、冷静になり、戻って警察に通報する。
 警察の取り調べを終えて疲れて家に帰ると、彼女の部屋には、確かに雇い主の部屋に置いてきた筈のカルティエのジュエリーが置かれていた。それを見て、モウリーンは死体を発見した時に部屋に感じた「何者かの気配(=雇い主を殺した犯人)」が、彼女の部屋に入り込み、勝手に置いていったのだと慄然とする。

 そんな時、いつものテキストメールが届き、モウリーンは激しく動揺する。彼女を精神的に追い詰めるメールが立て続けに携帯に届く。
『警察にこのメールのことを話した?今から君に会いに行く』『今、駅にいる』『今エレベーター』『今、君の部屋の前』と、相手はどんどん近付いてくる様子で、モウリーンはパニックに陥る。
(ちなみに、このやり取りの様子は、かつて日本で流行した都市伝説的怪談『メリーさんの電話』を彷彿とする怖さがある)
 怖々とモウリーンはドアミラーから外を覗いてみるが、誰もいない。しかし、ドアの隙間から『ホテルの部屋に来て』というメッセージが届く。
 当初はメールのやり取りで、自分の欲望を自覚し、いつのまにか相手に自己を投影していたモウリーン。だが、メール相手が完全な他者であり、殺人犯かもれないと分かったいま、メール相手は彼女にとって完全に恐怖の対象でしかなかった。

 勇気を出し、カルティエのジュエリーを持ってホテルの部屋をモウリーンは訪れる。待っていると、静かに部屋のドアが開く。だが、その訪問者の姿を映さずに、場面は切り替わる。
 画面が次に映し出すのは、ホテルのロビーのエレベーターだ。到着のチャイムが鳴り、エレベーターの扉が開くが、そこに人の姿は無い。だが、まるでそこに透明人間が歩いているかのように、カメラは見えない何者かの姿を追う。そして見えないのに、ホテルの二重の自動ドアが開き、「透明人間」は去っていく。
 そしてその後、画面は再び同じエレベーターを映すが、今度は別の男が乗ってロビーへと降りてくる。見覚えのあるその顔は、モウリーンが映画の序盤に雇い主の部屋で出会った、雇い主の愛人の男だった。男は、ロビーからホテルの自動ドアを出た瞬間、張っていた警察に取り抑えられそうになり、逃亡する。そこで、モウリーンの雇い主を殺した犯人であり、彼女にテキストメールを送り続けていたストーカーは、この愛人の男だった事が判明する。

 しかし、ここで謎が残る。いったいモウリーンはホテルで誰に会ったのか。私は、この犯人の男と彼女は接触していないと考える。
 犯人の男は、最初に会ったとき、モウリーンが「死んだ兄からのサインを待ち続けている」という彼女の話を聞いている。犯人は、そんな不安定な彼女の精神状態につけこみ、テキストメールの相手が死んだ兄からのものと思い込むだろうと予想し、メールを彼女に送り続けていた。そしてキーラ殺害後は、モウリーンを雇い主殺害の犯人に仕立て上げるため、彼女の部屋にカルティエのジュエリーを置いてきたのではないか。
 以上の仮説に沿って考えれば、犯人がモウリーンに罪を擦り付ける為には、彼女の口を封じることが必要になる。つまり、モウリーンを自殺に見せかけて殺害するなり、行方不明にするなり、何らかの形で彼女を消すことが必要になる筈なのだ。
 しかし、犯人がホテルを出て逮捕された後も、モウリーンは無事だった。とすれば、彼女がホテルの部屋で出会ったのは犯人ではなく、犯人より先にホテルを去った「透明人間」の方ではないのだろうか。そうであれば、犯人はホテルの部屋を訪れようとして、部屋の中にモウリーン以外の存在がいることに気付き、彼女に接触せず出ていった……と考えることが出来る。

 事件が無事解決し、モウリーンは恋人のいるオマーンへ旅立つ決心をする。パリを離れる前に、モウリーンは兄ルイスの元妻ララの家に宿泊させてもらう。翌朝、庭でララの新しい恋人アーウィンと偶然鉢合わせたモウリーンは、彼とぎこちなく会話する。彼は「この家にルイスの気配がする」と言うが、一連の事件で兄ルイスからのサインを待つことを既に諦めかけていたモウリーンは、アーウィンの言葉を否定する。
 アーウィンが去った後、庭に残っていたモウリーンの背後の家のキッチンの窓に、ぼやけた男の顔が映って消える。そしてその直後、キッチンに置いてあったガラスのコップが落ちて割れ、音に驚いてモウリーンはキッチンを振り返る。
 直前に窓に映った男の顔から、霊的な存在がコップを落としたのだと観客は感づくが、モウリーンは偶然コップが落ちたのだと思い、霊的な存在に気づかない。
 そしてモウリーンは、パリを去り、恋人がいるオマーンの山の中の宿泊先に旅立つ。

 穏やかに光指す山の部屋のなかで、モウリーンは心を休めようとするが、何かの気配を感じて隣の部屋へ行く。すると、コップが宙に浮いており、そのまま床へと落ちて壊れる。それは、先日パリのララの家でコップが落下させたのに、モウリーンに存在を気づかれなかった同じ人物が、今度は彼女が存在に分かるように、より大胆なやり方でやったように見える。
 直後、壁を叩くような大きな音が鳴り、その場に霊的存在がいることを確信したモウリーンは「音一回ならイエス、二回ならノーで答えて」と言い、霊的存在に問いかける。
 「あなたはルイスか?」という質問に音一回(イエス)で霊的存在は回答する。だが続けて「あなたはいま平静なのか?」「あなたはいま辛いのか?」という問いかけをしても、返答はない。
 そして「私のせい?」と尋ねた時、大きな音が一回鳴り響き、モウリーンは動揺する。ここで、映画はラストを迎える。

 私は、パリのホテルに現れた透明人間、ララの家でコップを落とした男の人影、オマーンで交信した霊的存在、この三つの存在はすべてルイスではないかと考えている。それは、ルイスの魂は、森の屋敷やパリの街にいたのではなく、(モウリーン本人が気づいていなかっただけで)彼女自身にずっと憑いていたのではないかと仮定すると、色々と合点がいくからだ。
 では、なぜモウリーンに憑いていたのか。それは、彼女が生前ルイスと交わした「どちらかが亡くなったら、相手にサインを送る」という約束のせいではないか。
 この約束は、遺されたモウリーンにとっては、兄の魂の存在を感じたいという希望だ。しかし同時にこの約束は、既に亡くなり、霊的存在となったルイスにとっては、彼の魂を現世に縛り付けている呪縛である。ルイスは、モウリーンに自分の存在を気づいてもらえず、この約束を果たせない限りは、死後の世界へと旅立つことが出来ない。そして彼をそうさせているのが、約束に対する自分の執念であることを、モウリーンは今まで気づかず過ごしてきた。

 ラストの霊的存在との交信で、ルイスと名乗るそれに、モウリーンは「私のせい?」と尋ね、イエスと回答を得る。
 この時、モウリーンは常にルイスが傍にいたこと、彼女との約束がルイスを縛り付けていることに、気がついただろうか。
 もし彼女が気づいたならば、ルイスの魂は現世から解放される。そしてモウリーン自身も、自分の人生を前へ進めなければと、行動し始めるはずた。
 
 願わくば、ラストの瞬間、モウリーンにルイスの存在と、あの回答の意味を理解してほしいと思う。
 私はそこに、救いを見出だしている。





◼余談
 この『パーソナル・ショッパー』のように、余白を敢えて残し、観客の解釈に委ねる映画というのは、作り手からの観客に対する「ある種の挑戦」のだと思っている。
(まるで「具材は用意したから、後は自分で好きに料理したまえ」と言われているかのように)
 だが、そんな正解の無い映画に、真っ正面から自分の解釈をぶつけることは、非常にエネルギーが要る。時に否定もされるし、正直疲れるので、進んでやりたいものではない。だが、私の中のちっぽけなレビュアー魂が、逃げることを許してくれなかった。だから今回、仕方なく私は自分なりに悩んで、一つの解釈を認めるに至った。
 単純に「面白かった」とか「理解できなかった」とありきたりな言葉で言うのは簡単だ。しかし自分の言葉で感想を語れないということは、それは私にとっては思考停止で、レビュアーとしての敗北を認めることになる。
 それに、なぜそこまでして「パーソナル・ショッパー」の解釈を自分なりに書いたのかと言えば、まず第一に、私と同じように苦心し、自分なりの解釈を生み出した人のレビューを読みたいという気持ちが強いからだ。
 世の中には分かりやすく、もっと楽に楽しめる作品がある。だが、私はもっとこの作品に対する、他の方の解釈をもっと読みたいと願っている。
 私と違ういくつもの解釈が、このネットの海に現れることを、心待にしている。どうか、あなたなりの解釈を、あなたの言葉で私に届けてほしい。

【映画】『ゆれる』感想(2006年・西川美和監督)

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◼評価
 ★★★⭐⭐(4.3/5.0)

◼感想

 フィクションの多くは、キャラクターの台詞や言動によって、その人の心情や内面や過去を明快に表現することで、ラストへと導き、観客に問題が解決したという満足感を与える。だが、実際の生活において、必ずしも私達は自分の心情を赤裸々に吐露したり、思っている事をそのまま相手に伝えたりしないものだ。

 人間の表層と深層心理には、断絶がある。そしてこの『ゆれる』という作品は、ある兄弟のそんな人間の心の断絶を、深く掘り下げた映画だった。


 物語は、東京でカメラマンとして活躍する猛(オダギリジョー)が、母の一周忌の法事の為、地方の故郷へと帰ってくる所から始まる。実家では、兄の稔(香川照之)が家事と実家の稼業をこなしながら、父の勇と男二人で暮らしている。

 悠々自適に都会で生活する猛とは違い、長男の稔は稼業を継ぎ、小さなガソリンスタンドで働いている。猛はそんな兄に、稼業から逃げたという負い目を感じていた。

 猛は車でトンネルを通り、故郷へと向かう。それはまるで明るい都会から、どこか異界へと通じる道を進むかのよう。故郷のシーンは、主にローキーな照明で撮影され、全体的に暗い閉塞感を印象づける。これにより、故郷が猛にとって心安らぐ場所ではなく、陰鬱な所であることを、画面は示す。


 稼業のガソリンスタンドには、猛の昔馴染みの女性・智恵子(真木よう子)も働いている。智恵子は最初、車のガラス越しに猛に気付くが、猛は智恵子に気付かないふりをする。二人の視線は直接交わらず、猛は車のミラーごしに智恵子を確認して去っていく。このシーンで、智恵子が一方的に猛に好意を抱いている事を、カメラは暗示する。

 一周忌の後、働いている稔と智恵子の仲の良い様子を見て、猛は兄が智恵子に好意を抱いている事を見抜く。だが女たらしの猛は、智恵子を家に送る際、彼女を誘惑し、性的関係を持ってしまう。


 その翌日、稔は猛と智恵子を誘い、風光明媚な渓谷へ出掛ける。暗いトンネルを抜け、渓谷という異界へ、3人の乗った車はたどり着く。

 澄んだ川で子供のようにはしゃぐ稔とは対照的に、昨日の情事のせいでぎくしゃくする猛と智恵子。智恵子は故郷の生活に行き詰まりを感じており、猛を追って東京に出ていきたい気持ちを、暗に漏らす。そんな深刻な雰囲気に気まずさを覚えた猛は、稔と智恵子を置いて、つり橋を渡り、一人で渓谷の奥へと写真を撮影しに行く。


 すると智恵子は稔を無視して、猛を追い、つり橋を渡ろうとする。そんな智恵子を稔はつり橋の上で引き留めようと追ってくる。稔と智恵子の感情のぶつかりを、手持カメラは激しくぶれながら追う。

 このシーンにおける「つり橋」は、非常に象徴的だ。

 智恵子にとって、つり橋のあちら側へ行くという行為は、猛という好きな人の元へ行くということのみならず、猛が住む東京へ出ていく決意を意味する。そしてそんな智恵子を追ってくる稔は、自由のない、故郷の行き詰まった生活の象徴そのものだ。

 智恵子は稔と故郷の暗い日々から逃れようと、稔の腕を振りほどこうとする。そして一方で、智恵子のこの拒絶は、稔にとっては、稼業を継ぎ、地味に生活する自分の人生を否定されること、そのものであった。


 つり橋の二人の様子を一瞥しながら、写真を撮る猛は、不穏なものを感じとるが、戻らない。だが気になり、もう一度つり橋を見る。するとつり橋には智恵子の姿は無く、橋の板の上で呆然としゃがみこむ稔の姿だけがあった。智恵子はつり橋から転落したのだと悟り、慌てて猛はつり橋へと戻る。

 茫然自失の稔を見て、事件の予感を感じながらも、猛は智恵子が勝手につり橋から落ちたと思い込み、警察に連絡する。

 警察から事情聴取を受け、事故扱いで処理されるようになり、猛は胸を撫で下ろす。しかし、罪悪感に堪えきれなくなったのか、稔は勝手に警察に自首をし、逮捕される。

 そして、智恵子の殺人容疑をめぐり、稔は法廷で追及される。あの時、一体つり橋では何があったのか……法廷を通して、猛は自らも知らなかった兄の心の闇を覗くことになる。


 物語の後半は、裁判のシーンを中心に描かれる。裁判の序盤は、被告人であるにも関わらず、カメラのピントは稔に合わずにぼやけ、背景の弁護士や検察官、傍聴席をはっきり映す。それにより、何を考えているのか分からない稔の心を、画面は暗示する。

 しかし、裁判が進み、稔が猛に黙っていた事実が判明し、稔の心の歪みが明らかになっていくにつれ、カメラのピントははっきりと稔の表情を捉えだす。 


 都会に出た猛は、稼業を継ぎ、親の面倒を見、長男としての役割を果たしている兄の稔に、常に負い目を感じていた。稔の立場は、現代に残った家父長制の犠牲の典型のようにも見える。

 しかし猛は同時に、自分は稔のようにならなくて済んだという事に、どこか安堵を覚えている。


 裁判にかけられた兄を守ろうとして猛は奔走するが、ある時、そんな彼に稔は「俺を守るふりをして自分を守ってきただけだ」と、猛の欺瞞を暴く。

 そして、兄弟の間に脆くも掛かっていたつり橋は崩落し、決定的な断絶が、二人の間に生まれるのだ……。


 物語の終盤、あることをきっかけに猛は子供時代の稔との記憶を甦らせる。

 そして自分が、兄の言葉の通り、本当に兄を信じていなかったこと、なぜ兄を信じて別の可能性を考えられなかったのかと、激しい後悔を抱く。


 弟と兄、二人の間に、再び橋は掛かるのだろうか……。ラストで、渡れない大きな断絶を挟んで、猛と稔は視線を通わせる。

 そこに希望を見いだすか否かは、私たち観客に委ねられている。

【映画】『スウィート17モンスター』感想

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◼評価
 ★★★⭐⭐(3.9/5.0)

◼感想
 主人公の女子高生ネイディーンは、幼少期を振り返って「この世の中には『勝ち組』と『負け組』の二種類の人間がいて、私はいつも『負け組』だ」と語る。
 そんな彼女を見て、観客である私は、こんな風に自分の十代を振り返る。
 「世の中の大人には、高校時代を振り返った時に『楽しかったあの頃に戻りたい!』という大人と、『あんな悲惨な時代には戻りたくない!』という大人の二種類がいて、私は後者のタイプだ」……と。
 そしてこの映画は、悩める十代のみならず、私のような、かつて不遇の十代を過ごした大人達に向けた映画でもある。
 だから、この映画を観て、全く主人公に共感できなくて面白くないと思った人は、皮肉ではなく、ある意味でとても幸せな人なのだと思う。

 映画は、昼休みの喧騒の中、17歳の高校生ネイディーン(ヘイリー・スタインフェルド)が、担任教師ブルーナーが一人でランチしているクラスルームに飛び込んで来るところから始まる。ネイディーンは、ブルーナーに突然「今から自殺する!大きな車を狙って飛び出してやる!」と早口でまくしたてだす。そして、ブルーナーと観客は呆然と思う。『いったい、この女の子は何にそんな追い詰められているのだ……?』と。
 すると、そんな疑問に応えるかのように、映画は彼女の幼少期から現在に至るまでの人生を回想し始める。
 自称「負け組」のネイディーンは、小学生の頃からイジメに遭っていた。そんな孤独な幼少期に出会い、現在まで唯一の親友であるクリスタが、彼女の心の拠り所だった。母親の居ない週末に泥酔し「こんなミジメな私なんて大嫌い!」と愚痴とゲロを吐くネイディーンを、優しく懐抱してくれるクリスタ。
 だがそんなクリスタが、ネイディーンの嫌悪する「生まれついての勝ち組」である兄のダリアンと恋に落ちてしまう。これにより、ネイディーンとクリスタの友情にヒビが入り、彼女は唯一の親友を失うという、絶望的な疎外感に襲われる。
 そして、そこから自暴自棄になった彼女の奇行が始まる……。

 ネイディーンは、他人からすれば、どう見ても嫌な女の子である。自分の事を(実際そんなことないのに)ブスだと思いこんでるし、そのくせ他人をいつも小馬鹿にして蔑んでいる。好きな男の子がいても、遠目に妄想のネタにはするけど、実際目の前にすれば会話すら続かない。
 そんなアイタタな女の子だが、私はネイディーンに激しい共感を抱くとともに、かつての自分の恥部をさらけ出されてるような、強烈ないたたまれなさを感じた。

 映画の中で彼女のやることなすことは、かつての十代の少年少女たちの、ヤっちまった感満載の、面倒くさいエピソードの集大成のようである。
 友達の彼氏がどうしても好きになれず友情を壊してしまう。しゃべり方が早口で一方的すぎて、他人となかなか仲良くなれない。まだ大して親しくもなってない好きな人に、勢いで独りよがりなメールを送ってしまう。人を褒めるのが下手くそすぎて、相手を逆に怒らせてしまう……等々。

 ネイディーンは常に自分に苛立っている。それは、どんどん肥大していく自意識と、実際の自分との間にギャップがありすぎて、どうして良いか分からず、苦しいからだ。
 観る人によっては「まだ十代なのに、なんでそんなに将来に悲観的なの?」と思うかもしれない。
 だけど、彼女の苦しみは十代だからこそ。理想とは遠くかけ離れた、どうしても好きになれない面倒な自分を抱えて、この先何十年も生きていかなければならないなんて。このまま誰にも受け入れて貰えず、一生独りで生きていかなければいけないなんて。
 人生の先が長いからこそ、ネイディーンの絶望は深いのだ。

 映画の後半、ある人がネイディーンに「すべては時間が解決してくれる」と慰めてくれる。
 その言葉の意味を、その場で彼女は理解できなかっただろうと思う。けれど、もし私がその場にいても、きっと似たような言葉をかけたはずだ。
 たとえ自分が好きになれなくても、どんなに自分が面倒くさくても、失敗しながら、人はそんな自分と折り合いをつける術を学んでいく。今ネイディーンが苦しいのは、その過程でもがいているから。そして実際、もがき苦しんでいるのはあなただけじゃないのだ……。
 そして映画のラストで、ネイディーンは自分の視野の狭さに気づき、行動し始める。だから、彼女はきっと生き抜いていけるだろう。

 2017年のいま、もし悩める十代の人がいて、この映画に出会う事ができたのなら、その人はラッキーだと思う。
 振り返ってみると、そういえば私が十代の頃には『ゴーストワールド』という素晴らしい映画との出会いがあった。
 自分と上手く付き合えない、未来の十代の為に、これからも『スウィート17モンスター』や『ゴーストワールド』のような青春映画が、数年おきに世の中に生まれてほしい。かつて17歳の女の子だった私は、そう願っている。

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【映画】『帝一の國』感想

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■評価
 ★★★★☆(3.9/5.0)

■感想
 「男らしさを究極的に突き詰めるとシュールな笑いが生まれる」という現象をギャグとして描く作品が、この世にはたびたび生まれる。たとえば、昭和の傑作少年漫画『魁!!男塾』がその典型であったのに対し、2010年代の今は、この『帝一の國』がおそらくその先端を行っているのではないだろうか。

 ストーリーは、全国屈指のエリートたちが集まる、旧日本帝国海軍が母体の超名門男子校・海帝高校に主人公・赤場帝一(菅田将暉)が入学する所から始まる。卒業生に政財界の重鎮達を多く輩出するこの海帝高校において、生徒会長に選ばれるという事は、この国の総理大臣になる資格を得ることを意味する。「自分の国をつくる為に日本の総理大臣になる」という夢を抱く帝一は、二年後の生徒会長選挙で優位に立つべく、入学直後からクラスのルーム長になる。そして、次期生徒会長選の有力候補の派閥に入ることを目論み、自ら選んだ次期生徒会長候補を勝たせる為に、学園権力闘争の渦中へ身を投じることになる……。

 この高校における生徒会長選というのは、単なる学生の代表者選びではなく、卒業後の先の政財界へ入るための有利な切符を手にする為の、権力争いを意味する。つまり海帝高校という男子校のトップに立つことが、日本の政界という男社会のトップに立つ者に選ばれるという事に繋がっているのだ。
 エリート男子校という男だけのホモソーシャルな空間においてリーダーに立つためには、「男らしくあること」が重要になる。そのため帝一はピアノという「男らしくない」才能を封印し、また、硬派であることを装うために、美美子という交際相手がいる事を秘密にしている(昭和が舞台のこの作品中においては、男女交際は禁止されており、女性の恋人がいることは軟派とみなされ、スキャンダルに繋がるのだ)。
 この「男らしさ」の過剰な演出が、作品の随所で笑いを生む。たとえば、生徒会長に恥をかかせたものは武士道に従い「仮切腹」(仮想切腹?)の刑に処されるという掟。また、次期生徒会長選の有力候補は、選挙人との一体感を生むために、ふんどし姿で和太鼓パフォーマンスを披露する……といった具合に、突き抜けた男らしさの表現が、「男らしさっていったいナニ?」とシュールな疑問と笑いを次々に巻き起こすのだ。

 ……とここまでであれば、昭和の『魁!!男塾』と共通する点が多いのだが、2017年の今作が昭和の作品と違うのは、『帝一の國』で男子生徒達のトップに立つためには、「男らしさ」に加え、「美しさ」が求められているように見える点である。これには、この映画のキャスティングが大きく影響している。
 この作品の映画化以前に、『帝一の國』はいわる2.5次元舞台化で成功しており、2.5次元舞台で活躍する俳優や、特撮作品出身のイケメン俳優を多く起用している。三年の現生徒会長の堂山役には、(舞台版では主人公・帝一役を務めた)木村了、二年の次期生徒会長有力候補の氷室ローランド役には間宮祥太朗、同じく二年の有力候補・森園億人役に千葉雄大と、錚々たるイケメン若手俳優を起用している。
(※余談だが、そういえば昨年話題になり、一部の熱狂的ファンを生んだヤンキーとチンピラだらけの喧嘩映画『HiGH&LOW THE MOVIE』においても、SWORDと呼ばれる5つのチームの頭(ヘッド)には、皆美形を起用していたのを思い出す)
 とにかく、『帝一の國』の世界においては、男社会の上に立つ者の資質として容姿がある程度重要なのは、間違いないようである。

 主人公・帝一は物語中で、美美子らから「どうして総理大臣になりたいのか」「どうして自分の国をつくりたいのか」ということを問われるのだが、後半、その理由が明らかになる。それには「男らしくあるため」に、自分の男らしくないある一面を封じられたという、彼の辛い過去が影響していた。そして帝一は、自由に自分らしくあれる国をつくるという為に、総理大臣になるという強い野望を抱くようになるのだ。

 現代社会において、「男らしくあれ」という従来の社会規範に対し、強いストレスや生きづらさを抱く男性は増えている。帝一もそのような男性ジェンダーを負わされ、自分の一部を犠牲にされた一人だった。
 だがいくら社会的規範に疑問を持とうと、結局のところ、社会の仕組みを外側から変えるのは、非常に困難だ。それには、社会を作る側……つまり、政治という男社会で、内側から上り詰めるのが、最も手っ取り早い改革の手段なのだ。

 自らに負わされた男性性から自由になる手段として、帝一は権力を渇望する。権力者である上級生達に媚びへつらう彼の姿は、時に滑稽だ。だが、「女性らしくあれ」という抑圧に、日頃生きづらさを感じている私のような女にとっては、そんな彼の姿を無様だと、後ろ指を指して笑うことができないのも、また事実なのである。


【映画】『3月のライオン 後編』感想

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◼評価
 ★★★★☆(4.3/5.0)

◼感想
 「暗いトンネルを抜けた光の先に」

(前編の感想についてはこちらをご覧下さい→http://mayringooo.hatenablog.com/entry/2017/04/04/200214

 後編を観終えた時、この『三月のライオン』という映画が何を描いたのかを、ずっと頭の中で考えていた。そして、自分なりの解釈ができた。
 この作品は、幼き日に家族を失うという絶望的な孤独に墜ちた主人公・桐山零が、将棋の才能という一本の手綱を頼りに、人生の暗く長いトンネルを歩いていく物語であり、そしてそこから光さす出口へと辿り着く過程を描いた物語なのだ。

 前編は主人公である少年棋士、桐山零(神木隆之介)の幼き日の将棋との出会いから、現在の彼の天才であるが故の深い孤独感。川本姉妹との出会いから零が救われていく過程、そして、島田(佐々木蔵之介)や後藤(伊藤英明)ら先輩棋士達の、緊迫した勝負の緊張感を丁寧に描いていた。
 対してこの後編では、将棋の勝負の世界から、零と川本姉妹を中心とした人間ドラマへと、テーマの比重が移っていく。 

 初めての出会いから一年後、義理の両親の家を飛び出し孤独に追い込まれていた零に、暖かな家族の温もりを与えた川本姉妹は、もはや零にとっては家族同然の、かけがえのない存在になっていた。
 そんな川本姉妹に、次女ひなた(清原果耶)のいじめ問題と、かつて家族を捨てたにも関わらず、突然舞い戻ってきた川本姉妹の父・甘麻井戸誠二郎(伊勢谷友介)という、二つの試練が襲う。
 この二つの問題を通して、零は彼女たちを守りたいが為に、彼なりに奔走する。それは、彼がかつて失った二つの家族――死んだ実の家族と、飛び出して来た義理の家族――への後悔から、今度こそ自分の大切な存在、やっと見つけた彼の居場所を必死に失いたくないからなのだろうか……。そんな風に思え、画面を見ていて、胸が苦しくなった。
 高校生でありながらも、将棋の世界でプロとして生きている零には、今度こそ川本姉妹の力になれるという自負があった。それが彼の将棋生活をも後押しし、彼は獅子王戦トーナメント準決勝まで勝ち進む。だが、映画の中盤、彼の自信は脆くも崩れることとなる。そして、自分があくまでも川本姉妹と赤の他人であること、将棋の世界ではプロであっても、所詮はまだ大人ではなく、一人の高校生の身分でしかないことを思い知ることになる。この失望が、物語のなかで零にとって大きな障壁となり、彼を苦しめることになる――……。

 一方で、零の周辺の人々にも、それぞれ葛藤がある。雲の上の存在のように思えた宗谷名人(加瀬亮)は、何年もタイトル戦に出ずっぱりで、心労のために難聴に陥っている。獅子王戦トーナメント決勝で零と戦う後藤(伊藤英明)は、意識の戻らない病床の妻を抱えながら、勝負の世界に生きている。そんな後藤と不倫関係を続ける香子(有村架純)は、プロ棋士の夢を絶たれた後、自分の生き方を見つけられずに、悪意を零にぶつける。
 誰もが何かを背負い、弱さを持って、もがき苦しみながら生きている……。この映画は、そんな人々の姿を真摯に映しとる。

 前編では、若くして将棋しかない人生に孤独と行き詰まりを感じていた零が、川本姉妹ら他者との交流を通じて、棋士として成長していく姿を描いた。だがこの後編では、前編とは逆の構図が描かれる。
 大事な存在を守ることのできない無力さに打ちひしがれた零にとって、残されたものは結局将棋しかなく。絶望を内に抱えながらも、零は獅子王戦決勝トーナメントで、持っている全ての力を盤面にぶつけ、葛藤する。ヒリヒリ灼けるような緊張の一戦のなか、正面から将棋に向き合った時、零は壁を打ち破る。そして、自分にとって最も失いたくものを、もう二度と離さないという決意を持つようになるのだ……。

 暗く長いトンネルから抜け出た光の先には、更に長い道が続いている。そして、それはまだ始まったばかりだ。天才棋士・桐山零は、その道をどう進んで行くのだろうか……。映画のラストは、そんな人生の始まりを感じさせる、希望に満ちた終わり方であったように思う。