日々の泡

ついったでは書ききれない感想など

【映画】『ハクソー・リッジ』感想

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■評価
 ★★★★☆(3.7/5.0)

■感想
 この作品は、戦争映画であると同時に、異端者の英雄譚だった。

 物語は、主人公デズモンド・T・ドス(アンドリュー・ガーフィールド)の幼少期の記憶から始まり、成人して恋人に出会い、軍に志願するようになった経緯。そして、宗教上の理由から銃を取らない事を主張したせいで、軍事裁判にかけられながらも、最終的には衛生兵として戦地に赴き、衛生兵として活躍する姿を映す。
 上記のとおり、ストーリーとしては至ってシンプルであるが、物語の本質は筋ではなく、デズモンドという男が、戦場という異常な場所で見せた、信念と勇気を描いた所にある。

 映画はデズモンドの幼少期から始まる。
 父親のトムは、第一次世界大戦の復員兵であるが、戦時中に負ったトラウマのせいでPTSD(心的外傷後ストレス障害)を患っており、酒浸りになり、妻に暴力を奮っていた。
 ある日、兄弟と喧嘩をした際に、勢い余ってレンガで兄弟を殴り、重い怪我を負わせてしまったデズモンドは、激しい後悔と罪悪感を感じる。そして「汝、殺すことなかれ」という教えを胸に深く刻むことになる。
 成長したデズモンドは、病院で出会った看護師のドロシー・シュッテと恋に落ちる。周りの人々や兄弟が次々と志願する状況の中、何か自分にも役に立てることがあるのではないかと考えた結果、デズモンドは銃を取らない衛生兵として、軍に志願する。
 厳しい訓練にも耐えるだけの体力を持っていたデズモンドだが、狙撃訓練で銃を持つ事を拒否したところから、上官や兵士仲間から「除隊しろ」と嫌がらせを受けることになる。
 上官から責め立てられ、仲間から暴力を受けても、決して決意を曲げないデズモンドに、次第に周りの人々は一目置くようになるが、最終的に命令拒否として軍法会議にかけられてしまう。
 面会に来たドロシーは、銃を取らないデズモンドに「プライドが邪魔しているだけ」と言うが、彼は「信念を曲げたら生きていけない」と心の内を告白する。
 軍法会議で「皆は殺すが、僕は助けたい」と彼は主張し、予想外の人物の尽力もあり、彼は軍に加わることを認められる。

※デズモンドの信仰について、映画だけでは分かりにくい点があるかと思うので、補足する。彼が信仰するセブンスデー・アドベンチスト教会(Seventh-day Adventist Church、以下SDA)は、プロテスタントを主張する新興の一宗派である。その名の通り、安息日を日曜日ではなく土曜に定めており、厳格な聖書主義や採食主義といった点など、伝統的なキリスト教の宗派とは色々と違う点が多い。そのため他の宗派からは、同じキリスト教でありながら、しばしば「異端」として位置づけられてきた歴史がある。
(メル・ギブソンご本人はカトリックのようです)

 後半では、衛生兵として沖縄戦に従軍するデスモンドの活躍が描かれる。ハクソー・リッジの戦闘(前田高地での戦い)場面は、戦争の残虐さに満ちている。手足が飛び、はらわたが飛び散り、死体があちこちに転がる中を、米軍達は進む。烈しく銃弾が降り注ぎ、すぐ隣の兵士がヘッドショットを受けて一瞬で倒れる……。そこには人間としての尊厳など微塵もなく、辛酸を極めたような、血生臭さだけがある。
 この場面での暴力描写は、まさしく目を背けたくなるような地獄絵図だった。だが、生半可に抑えた描写ではなく、暴力を暴力としてあくまでも容赦なく残酷に描きった点に、私は作り手の「暴力に対する真摯さ」を感じた。観客に痛みを与えない、あっさりとした暴力描写では、その残酷さは伝わらないからだ。

 相手を殺さねば、一瞬で殺されてしまうという状況の中、デズモンドは銃弾の雨の合間をかけずり周り、負傷した兵士たちを次々と助けていく。
 窮地に陥った米軍が丘陵から一時撤退した後も、デズモンドはその場に留まり、傷ついて動けなくなった仲間を見つけては、崖の下へと下ろし続ける。映画では、それは彼の良心と信仰に基づく行動として尊く描かれているが、自らの命さえ危うい中、武器を持たずに一人で負傷者を助け続ける彼の行動は、普通に考えれば、ある意味では狂っているといっていい。人が命のやり取りをする場で、ただひたすらに命を救おうとするデズモンドは、明らかに異端者なのだ。
 だが、映画の中では、そんな異常なまでの彼の行動に、仲間の兵士たちは心を動かされ、デズモンドは兵士達の精神的支柱となる。最終的にハクソー・リッジは陥落するも、デズモンドは負傷し、担架に乗せられ、ロープによって中空で運ばれる。
 その時、傷ついた彼の背後には後光が差し、まるでイエス・キリストの殉教を描いた宗教画のごとく、崇高な存在として、デズモンドは映される。これにより、デズモンドがその善行により、神に近い存在になったかのようにして、映画は幕を閉じる。

 人と人が殺し合う戦争の場で、あくまで自分の信念を曲げず、命を助け続けたデズモンドの行動には、確かに心を動かされるものがある。
 だが、そもそもこの物語には矛盾がある。これがデズモンド一人の戦いであれば、加害しないという彼の行為は正当に思えるが、デズモンドが銃を取らずとも、仲間の兵士はデズモンドが狙われれば敵兵を殺すのである。映画の中では、銃を取らないという彼の選択に至る過程を、序盤の生い立ちから説明する事で丁寧に理由付けしているが、彼を助ける為に援護射撃をする仲間達を見ていて、私にはやはりこの矛盾感を払拭することが出来なかった。

 最初に述べた通り、この映画は戦争映画であると共に、デズモンド・ドスという男の英雄譚なのであるが、彼を英雄として仕立てあげることに、私は違和感を感じた。彼のとった行動自体は、素晴らしいと思う。しかし、果たして戦争に「英雄」は必要なのだろうか。そう私の個人的な倫理観が、疑問を投げかけてくるのだ。
 映画では描かれなかったが、琉球新報の記事によれば、ハクソー・リッジの戦いの後、デズモンドはグアムの陸軍病院に移送され、その後結核になって、片方の肺も摘出したという。そして戦後5年半も陸軍病院で入院生活を送り、PTSDの症状に苦しんだ。
 彼は信念を貫き、たしかに戦場で活躍した。しかしデズモンドは決して超人ではなく、戦争で傷ついた、一人の生身の人間であったのだと思う。彼を英雄として描くことで、まず戦争そのものが悪であるという観点が薄まってしまうのではないかと、つい私は危惧してしまう。
(参考:https://ryukyushimpo.jp/news/entry-521541.html)

 最後に、細かい点ではあるが、この映画が日本で公開されるにあたり、様々な「配慮」がされていた点に、違和感を覚えた。
 英語の台詞では、日本兵に対して"jap"や"animals"といった差別的な表現を敢えて用い、米軍から見た日本兵への憎悪を表現していたのに対し、日本語字幕では、いずれもそれが差別的表現だと分からないように、穏当な単語に修正されている。確かにこのような表現をされれば、不快に思う日本人もいるだろうが、この映画の敵国が日本であるという設定上、登場人物たちが憎悪を敵に向けるのは、当然に思う。むしろ、敢えて作り手が差別表現を用いているのであれば、その表現から生まれる不快感は、観客として(あるいは日本人として)受け止めるべきものではないのだろうか。
 また、沖縄戦が舞台の映画であるにも関わらず、映画のプロモーションではそれを敢えて伏せたかのように、見事に沖縄戦について殆ど触れられていないのも気になった。
 過去にアンジョリーナ・ジョリーが監督した『アンブロークン』が公開前に反日映画と騒がれ、公開が危ぶまれるようになったのは、記憶に新しい(実際の映画内容は反日的というにはあまりにもヌルい描写だったのだが)。
 上記の配慮は、いずれもそういう反日映画潰し的な反応を怖れての、配給側の配慮だと私は勝手に忖度している。しかし、行き過ぎた配慮は、映画の本質を歪めかねない。
 今回この映画を観賞したことで、日本の右傾化が進んでいることや、他文化を許容する土壌が狭くなっていること。日本で衰退しつつあるのが経済だけではなく、文化面にまで及びかけていることを、思わぬ形で実感してしまい、一人の映画ファンとして、なんだか暗い気分になってしまった……。

【映画】『KING OF PRISM -PRIDE the HERO-』(キンプラ)初心者向け感想

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■評価
 ★★★★★(5.0/5.0)

■感想
 感想を書くにあたり、私には、この映画の素晴らしさを描写するだけの文章力が無いということを、最初にまず明言しておかねばならない。私の言葉では、この壮大すぎる映画の魅力を語り尽くせない。だが、こんな唯一無二の感覚を体験をさせてくれる作品を語らずして、他の映画の感想を書くことなどできない。
 この作品を、従来の映画の尺度で評価することは難しい。これは、映画という枠を大幅に逸脱した、新しく圧倒的な映像体験だ。そのため、私はこの新しい表現に対する語りを、まだ獲得できていない。
 公開から一週間を経て、私はすでに三回鑑賞したのだが、なかなか感想を書けなかったのは、その為である。先週末の公開初日に一回目を観終わった瞬間から、すぐ二回目が観たくなった。二回目を観れば、この映画を観ていない時間が苦痛になり、気が付けばもう一回……という風に、つい劇場に通ってしまう。このような中毒的な症状は現在も続いており、おそらく私は今後10回以上はこの映画を観に劇場に行くことになるだろう。

 昨年1月に公開された前作『KING OF PRISM by PrettyRhythm』(通称キンプリ)が、「応援上映」という全く新しい鑑賞方法を確立したことは、日本の映画史、アニメ史に残る、ある種の革命であったように思う。去年、数多くの人々が一度の鑑賞に飽き足らず、何回、何十回と劇場へと足を運び、「キンプリ」は1年にも渡るロングラン公開を実現した。そして、私もそんな観客の一人であった。
 前作キンプリは、公開当初わずか全国14館のみで上映され、興業的に苦戦し、続編制作の目途も立たなかった。しかし、Twitter等のSNSによる口コミで徐々に興行収入を伸ばし、結果として当初予定されていた3000万円を大幅に超え、最終的に興行収入8億円を達成した。
 多くのファンは、キンプリという新しいエンターテイメントの魔力に半ば中毒状態になり、何度も劇場に通った。と同時に、ファン達は一回でも多く自分が映画を観ることで、興行収入を増やそうとし、それにより続編が制作されることを切に願った。
(因みにこういうキンプリ中毒者は、尊敬をこめて、プリズムエリートと呼ばれている)

 そんなドラマティックな経緯を経て、今月、ファン達の願いは実を結び、この続編『KING OF PRISM -PRIDE the HERO-』(通称キンプラ)が公開されるに至ったのである。
 そして、続編であるこの『KING OF PRISM -PRIDE the HERO-』は、前作を更に上回る猛烈な中毒性を持つ、エネルギーに満ちた傑作となっている。
(公開初日に観に行った際、応援上映ではない通常上映だったにも関わらず、上映終了後に客席から拍手が起こったのは、初めての経験で、涙が出そうになった)

 演劇の世界では、ファンが公演中何度も同じ舞台に足を運ぶのに対し、通常映画ファンは、面白いと思った映画でも、あまり何回も同じ映画を劇場で観ようとはしない。しかし、キンプリ、キンプラのファンは何回、何十回も劇場に足を運ぶ。
 知っての通り、映画は舞台と同じく時間と空間の芸術であるが、生の演劇の舞台とは明らかな違いがある。映画は基本的に二次元の壁に縛られており、観客は常に受け身の形で鑑賞をする。しかし、前作で「応援上映」という新たな鑑賞スタイルを確立した通り、キンプラは従来の映画が負っていた「二次元の制約」に縛られない。あらかじめ観客という存在を映画内に盛り込み、彼(彼女)らからの反応を予想して制作されたこれらの作品は、二次元でありながらも、限りなく三次元的なエンターテイメントになっている。
 キンプラの魅力の一つは、アイドルライブとアイススケートを組み合わせたような、「プリズムショー」という競技にある。劇中で「プリズムショー」が披露される時、劇場の観客達は、劇中にいるプリズムショーの観客達として映画内に存在を許され、彼らと同一化する。そして、あたかも目の前でプリズムショーが現在繰り広げられているかのような感覚に陥り、本気でキャラクターに声援を送ろうとする。このようにして、キンプリ・キンプラは二次元と三次元の壁を疑似的に乗り越え、生身の観客と劇中のキャラクターとの距離を限りなく近づけるのである。

 キンプラは、暴力的ともいえる圧倒的な映像の力、つまり画面から放たれる所謂「プリズムの煌めき」で、観客を映画の世界に引き摺りこむ。70分間の上映時間中、嵐に荒れ狂う大海原に放り出された小船の如く、観客はただひたすら映像世界に翻弄される。そして終了後、眩い酩酊感から目が覚めた時、観客である私は、鑑賞前にいた地球とは全く違う別次元の宇宙に飛ばされているのである。
 キンプラを観る前、私が存在した地球という星は青かった筈だったのだが、上映後劇場から出た時には、地球の色が変わっていた(観てない人は、早く地球が本当は何色かを確かめに行ってほしい)。
 しかも、上映時間は70分である筈なのに、体感的にはどう考えても5時間位は劇場にいた。一般相対性理論的に考えると、劇場内で重力の歪みが発生していたとしか思えない。プリズムショーのプリズムの煌めきは、時間と空間を超えた何かなのかもしれない。
(因みに冗談だと思われそうだが、割と本気で感想を書いている。観た人であればこれが真実だと分かってくれると思う。)
 
 簡潔に言えば、キンプリ・キンプラとは「プリズムショー」を行うプリズムスタァを目指す、少年たちの物語である。キャラクター達は実際のアイドルライブのように、プリズムショーを行い、観客達にどれだけ多くの「プリズムの煌めき」により感動を与えられるかを競い合う。
 前作キンプリでは、プリズムショーに魅せられた主人公、一条シンがプリズムスタァ養成学校であるエーデルローズに入学し、一人のアイドルとして成長していく様を描いた。そして今作キンプラでは、プリズムスタァの頂点を決める「プリズムキングカップ」に向けてキャラクター達が技を磨き、互いに頂点を目指す、少年漫画的な熱いドラマが展開される。
(詳細なストーリーについては、『KING OF PRISM』のwikipedia項目等で調べればいくらでも出てくる情報なので、今回説明は省く)

 魅力的なキャラクター達や、友情やライバル関係をはじめとした人間ドラマ、応援上映という三次元的な映像体験などなど、キンプリシリーズの魅力を挙げればキリが無いが、観客をその世界に惹きつけ、何度も劇場に足を運ばせる最大の魅力は、やはり作中のプリズムショーにあると言っていいだろう。

 上述の通り「プリズムショー」とは、アイドルライブとフィギュアスケートを合わせたようなショーであり、各キャラクターの持ち歌や、EZ DO DANCE等の小室哲哉作曲の有名曲に合わせ、CG化されたキャラクターがダンスやジャンプなどを繰り広げるものである。
 プリズムショーには、一応競技として、ジャンプやスピンなどの技量を競う面がある。だが、最も重視されているのは、ダンスと歌を通して、各キャラクターがどれだけ「プリズムの煌めき」を放てるか、という所にある。
 プリズムの煌めきは、一種の美のイデアのようなものだ。観客達は、舞台で踊るアイドルを通して、彼らの中にプリズムの煌めきを見出し、感情を揺さぶられる。一方で、アイドル達は、自らの肉体にプリズムの煌めきというイデアを体現し、結晶化し、より高みを目指して踊る。
 現実世界でも、私たちは美を体験した時、感情を揺さぶられ、本来はそこに存在するはずのない心象風景を見たりする。しかし、それはあくまでも実体のない、自身の内的宇宙で起こる、外部からは不可視の現象にすぎない。
 だが、キンプラではその化学反応を「そこに在るもの」として、大胆に描ききる。プリズムショーで表現される「プリズムの煌めき」は、時間・空間・重力といった物質世界の制約を軽々と乗り越え、本来目に見えるはずのない心象風景や、ときめきといった感情の渦を、その場に形をもって顕現させる。そしてそれはスクリーンと客席いう二次元と三次元の壁をすら越え、映画の観客をプリズムショーの世界に惹きこむのである。
 時空を超えたプリズムの煌めきを浴びた映画の観客達は、魅了され、ただひたすらに翻弄され、恍惚感に満ちた快楽を味わう。
 上映終了後も忘我の状態から抜け出せず、私のように中毒になり、プリズムの煌めきを浴びたいが為に、何回も劇場へと足を運ぶ人も多い。
(これが、キンプリ・キンプラが「電子ドラッグアニメ」と評される理由の一つである)


 と、ここまでプリズムショーについて、自分なりに言葉を尽くして書いたつもりだが、私の文章では、実際の作品の魅力の100億分の1も伝えることはできていない。どんな名文でも、キンプラ一回の鑑賞体験には遠く及ばない。キンプリ・キンプラを実際に観るまでと観た後では、世界が変わるので、見たことのない人にいくら説明をしても限界があるのである。

 前作キンプリの公開時、私自身、オタクでありながら、いかにもキラキラしたアニメの絵柄に抵抗があり、実際劇場で映画を観たのは公開後二ヶ月を過ぎた頃だった。

 「この絵柄のアニメにはいくらなんでもハマらないだろう」と高を括っていたにも関わらず、初めて味わう映像体験に魅了され、見事にハマってしまった。そして「この絵柄が苦手に思う人ほど、キンプリを観て欲しい」と周りの友人知人達に語った結果、友人達も見事にキンプリ中毒者になった。このようにして、前作キンプリは口コミでファン層を広げていったのである。
 女子向けアイドルアニメと思い、侮ることなかれ。映画が好きなのにキンプリを観ないということは、たとえば、女子が書いた手慰みだと思って、ミステリー好きなのにアガサ・クリスティを読まなかったり、SF好きなのにジェイムズ・ティプトリーJr.を読まなかったりするくらい、損をしているのではないか……とすら思う。


 ぜひ劇場に足を運んで、一人でも多くの人に、実際にプリズムの煌めきを体験してほしいと思う。

 


■追記
 この『KING OF PRISM -PRIDE the HERO-(キンプラ)』は前作『KING OF PRISM by PrettyRhythm(キンプリ)』の続編ということもあり、ストーリー的には前作を観ていた方が分かりやすい。だが、前作を観ないと……という義務感から、キンプラを観る心理的ハードルが上がってしまうのであれば、いきなり今作キンプラから観ても全く問題ない。
 なぜならば、劇場でキンプラを観るという体験ができるのは今だけであり、プリズムショーの感動はストーリーを知らずとも味わうことができると思っているからだ。
(※私は前作キンプリを観てから、スピンオフ元である女児向けテレビアニメ『プリティーリズム・レインボーライブ(以下プリリズRL)』を観ているが、それでもキンプラを観て分からないものは分からなかったし、過去作品を辿ればキリがない。取り敢えずキンプラを観てから、もし気になったら前作キンプリ、プリリズRLを観れば良いと、個人的には思っている)

【映画】『光』(河瀬直美監督)感想

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■評価
 ★★★★☆(3.9/5.0)

■感想

 この映画を観終えたとき、私は「耳で映像を観る」という感覚を初めて味わった。その時見た景色は、時間を経た今となっても、私の脳内で鮮やかな残像となって生きている。
 しかし『光』を観た人全員が、これを体験できるわけではない。ラストシーンで、耳で映像を観る境地に至るためには、上映中に映画の作り手が鑑賞者に課してくる「試練」に耐え続け、観客自身が能動的に「耳で見る能力」、すなわち聴覚情報から見えないものを見る想像力を身につけねばならないのだ。
 ではその試練とは一体何なのか。それを説明するため、ストーリーを追いながら、この映画のミザンセヌ(映像の構成要素)を、分析していくこととする。

 認知症の母と別居して暮らす、主人公・美佐子(水崎綾女)は、視覚障がい者のための「映画の音声ガイド」の制作に携わっている。最愛の妻を亡くした老男性の姿を描いた映画、『その砂の行方』のガイドを作るため、美佐子らは、視覚障がい者の人達に参加してもらい、彼らから意見を貰うモニター会を定期的に開いている。そこで、美佐子は誰よりも厳しい指摘をしてくる、元カメラマンで弱視の中森雅哉(永瀬正敏)に出会う。
 美佐子は『その砂の行方』のガイドを何度も書き直し、監督に質問する機会を得るも、どうしてもラストシーンにつけるガイドが思い浮かばず、悩み続ける。
 美佐子の作ったガイド文に、容赦ない批判を向けてくる中森に対し、美佐子は最初反発を覚える。しかし、同じガイドスタッフから、目の見えない人達は私たちよりずっと豊かな想像力の世界に生きている、という言葉をかけられたのをきっかけに、美佐子は視覚が無い世界とはどのようなものかということを、自ら考えるようになっていく。
 あるきっかけで、美佐子は中森と個人的に過ごす機会を持つ。当初苦手に思っていた中森という男と会ううち、彼が未だ写真を撮ることに執着していること、視力を失いゆく絶望の中で一人孤独に生きていることを知り、心を通わせていく……。

 『光』では、カメラが映す範囲で役者を動かすのではなく、役者の動きを制限せず、自由に演技をさせ、手持ちカメラが役者を追う。この役者の演技を第一に重視したカメラの動きは、ドキュメンタリー映画にあるような、リアリズム志向の映像作家の撮り方だ。
 しかし、そんなカメラの動かし方とは正反対に、その他の映像の構成要素は実に意図的なやり方で撮られている。
 各シーンの初めに挿入される、エスタブリッシングショット(その場所がどこかや、状況を示すためのロングショット)を除けば、この映画の殆どのシーンは、クローズアップ、またはミディアムクローズアップ等の、被写体に寄せたショットで構成されている。そして被写界深度は浅く、ピントが当たっている部分以外はぼやけて映される。
 また、上記のように寄せて撮影された被写体ですら、必要な情報は全て画面に収まっていない。例えば、役者を映したクローズアップショットでは、役者の頭が画面内に収まりきらず、上部にはみ出たり、焦点を当てた身体の一部以外は画面外へと弾き出されている。つまり画面内に必要な被写体の情報が全て収められたクローズフレームではなく、画面外に「何か」があることを観客に示すオープンフレームで、映画の世界をトリミングしている。
 これらの意図的なショットの構成によって出来上がる映像は、日頃私たちが見ている肉眼の世界よりも、ずっと範囲が狭く、窮屈感を覚える。映画のフレームが切り取る世界は、あまりにも狭いため、観客は、まるで視力を失いゆく中森と同様、視界が狭くなっていく弱視を疑似体験させられている感覚を味わい、時に見えにくさに対する苛立ちを感じる。これが、作り手の狙いの一つだろう。
 そして同時に、これは映画の鑑賞者の「想像力」を鍛える試みでもある。画面内に映すべきものが全て映されていないというオープンフレームによって、観客は画面外に何があるのか、常にフレーム外の世界を自分で想像し、脳内映像化することを求められる。音声ガイドを作る主人公・美佐子は、視覚障がい者の人々の「見えないものを想像する力」がどんなものかを考えることを求められるが、彼女と同様、この映画の観客も画面に映っていないもの(=画面外の見えない世界)を想像することを上映中求められ続ける。(観ていて疲れる、というこの映画の感想が多いのはこのためだろう)
 約一時間半弱の上映時間を通して、この映画は観客に「見えない世界を想像する力」を身につけさせようと、試練を与える。そして真摯にその試練に耐え続けた鑑賞者だけが、その能力を自分のものにすることが出来る。

 『光』は、美佐子が苦心して作り上げた「音声ガイド」による劇中映画『その砂の行方』の上映会のシーンで終わる。劇場に集まった目の不自由な観客達は、音声ガイドの再生機からイヤホンを耳に当て、見えない光景を想像する。
 想像力を鍛えられた『光』の観客達も、彼らと同様、目で劇中映画を観るのではなく、美佐子の作った音声ガイドから「耳で観る」という体験をする。
 『その砂の行方』のラストは、主人公の老人が浜辺を走って行く光景で終わる。そしてその時、『光』の映画内と現実世界、どちらの世界の鑑賞者たちも、耳から脳内にその世界の鮮やかさを映し、感動を自分のものにできるのだ。

 ふと、哲学者ジャック・デリダの『涙こそが目の本質ではあり、視覚ではない』という言葉を思い出す。彼は、19世紀の哲学界で「目で見ること=知ること」とされていた視覚中心主義を批判し、視覚に障害を持つ人々に対する差別性を否定する。そして、涙……つまり、無数の他者との共感性を肯定した。
 『光』はラブストーリーという宣伝文句を与えられている。しかし、美佐子と中森という見える者と見えない者が、二人の間にある断絶を乗り越え、互いに共感し合う物語……私には、孤独な魂同士が結びついていく過程を描いた作品に思えた。

 想像力と共感性……それこそが、この映画の本質ではないだろうか。

【映画】『エクス・マキナ』(2016年)一部ネタバレ感想

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■評価
 ★★★★☆(3.7/5.0)

■感想
 遅ればせながら、昨年日本で公開された『エクス・マキナ』を観た。観ようか迷って見逃していた作品である。
 公開された際、鑑賞までに至らなかったのには、理由がある。こちらを妖しく見つめる、美しい女性ロボットの映画ポスターが、それだ。
 たとえば、メカと美しい女性、魅力的な女性アンドロイド。冷たい無機質な機械と、曲線的な女性の肉体……それはSF映画やアニメ、ゲームの中など、これまで数々のメディア作品で多用されてきた組合せだ。メカ(や兵器)と女の子というイメージが、ある層の人々(主に男性)にとって、未だにフェティッシュな魅力を持つものであることは、否定しない。
 だが、青春時代にある程度SF的なものを通過したオタク女の自分からすると、この2010年代に、『エクス・マキナ』のポスターから連想されるイメージは、使い古しの、古臭いものに見えて仕方が無かった。メカと女の子という組合せが、ある層の人々にとって、性的ファンタジーや萌えとして機能しているという事実は、趣味嗜好の問題なので、個人的にはどうでもいい。
 ただ、それを古臭いと思ってしまうような感性の私には、自分向きの映画とは思えなかった。だから公開時、劇場に足を運ぶ事はなかった。
 しかし、先週Amazonプライムたまたまこの作品を見つけ、ウイルス性胃腸炎に苦しんで部屋から動けなかった私は、暇つぶしにと、気軽な気持ちで再生ボタンを押した。

 そして観終わった時……ある程度予想していた展開通りではあったものの、私が持っていた上記の「偏見」は、意外な形で裏切られた。
 この映画は一見、男性キャラクターの理想の女性をロボットとして登場させるという、ありふれた設定の話に見える。と同時に、AIが創造主たる人間の知能を超え、人間を脅威に陥らせるという、既視感のあるSFにも思えた。
 しかし、これまでのAIをモチーフとした多くの作品とは少し違う魅力を、私は『エクス・マキナ』に見出した。それは、AIであるエヴァというキャラクターに、女性としての肉体とジェンダーを与えたという点。そして、創られた存在である彼女が、主人公との対話を通して、人間性を獲得していく過程と、その結果起こる結末を描ききったところにある。つまり、AIの性とジェンダーが、物語の重要なキーなのだ。
 『エクス・マキナ』という作品は、AIを持つ美しい女性型ロボットという、分かりやすいセクシャルな記号を逆手に取って利用し、男性にとって都合のよい性的ファンタジーに「No」を突きつける作品だった。そこが、自分にとっては新鮮だった。

 以下、物語を追いながら、私なりの解釈を述べていく。
(※注:ストーリーを追う点で一部ネタバレ的要素を含みます)


 世界最大手の検索エンジン、ブルーブック社でプログラマーとして働くケイレブは、抽選で社長のネイサンが所有する山奥の別荘に、一週間滞在する機会を得る。人里離れた別荘ではネイサンが一人で暮らしており、休暇だと思って来たケイレブは、ネイサンにある実験の協力を求められ、了承する。別荘には人工知能(AI)を搭載した女性型ロボットのエヴァ、そして言葉を解さないロボット、キョウコがいた。
 ネイサンは神が天地創造を行うかのように、一週間をかけ、彼女が本物の人工知能かどうかを見極めるチューニングテストを、毎日ケイレブに任せる。当初エヴァは、美しい顔以外は剥き出しのロボットの肉体を持って登場する。だがケイレブとセッションを重ねるうち、彼女は服や髪を纏い始め、どんどん見た目も人間らしくなっていく。ケイレブは、彼女を単なる機械として見られず、淡い恋心と、やがて廃棄されるという境遇に同情心を抱くようになる。
 ケイレブはエヴァを救うため、ネイサンをある方法で騙し、二人で逃げようと画策するようになるが、そんな彼を待っていたのは、何重もの想定外の事態だった……。

 緑溢れる外の世界とは対照的な、直線的でモダンな建築様式のネイサンの別荘内では、その広大さにも関わらず、常に閉塞感がつきまとう。それは単純に、外の世界から隔絶された立地や、研究室やケイレブの部屋が地下にあるからという理由だけではない。
 この別荘内では、見るー見られるという関係が、そのまま力関係となって表れている。ケイレブは部屋のモニターでエヴァの様子を見ることができ、ネイサンはケイレブとエヴァ両方の様子をカメラで見ることが出来る。これにより、エヴァ<ケイレブ<ネイサンという三者の力関係が見えてくる。
 そして、見られている方は、今相手が自分を見ているのかどうか、分からない。いわば、ネイサンの別荘全体が、一種のパノプティコン(監視塔)として機能しているのだ。他人に見られているかもしれないという、この張り詰めた閉塞感が、映画に静かな緊張感を与えている一因に思える。
(そして、この見るー見られるという構図は、終盤エヴァの行動によってひっくり返されることとなる)

 この映画で、鑑賞者の感想が大きく分かれるのは、やはり最後にエヴァが取った行動についてだろう。これに関して、私は主人公ケイレブではなく、女性ロボットであるエヴァの視点から、物語を振り返って考えてみた。

 人工知能ロボットであるエヴァのソフトウェアは、世界一の検索エンジンであるブルーブックである。女性としての性とジェンダーが設定されたエヴァが、検索エンジンを通して学んだ人間の世界、人間の思考とは、どのようなものだったのだろうか。
 女性である私自身、男性と女性、性別によって見える世界の違いには、日頃から思うところがある。また、男と女が見る世界の非対称性は、現実世界よりも、インターネットやSNSの方がより極端に、記録や数字となって表れたりする。
 例えば数年前、Facebook等の実名ポリシーに関する記事で、このようなショッキングな記事を目にしたことがある。
https://www.sophos.com/ja-jp/press-office/press-releases/2012/09/jp-fb-real-name-policy.aspx
 ここで私の目をひいたのは「女性や、女性であることを示唆するユーザー名を使用すると、男性に比べてオンラインでいやがらせを受ける頻度が最大で 25 倍も高くなる」というニュースである。
(英語の元記事はこちら→ http://geekfeminism.wikia.com/wiki/Who_is_harmed_by_a_%22Real_Names%22_policy%3F
 ここまで具体的な数値で可視化できないとはいえ、私自身の体験として、女性というだけで、日頃ハラスメントや不利益を受けることは、珍しくない。女性AIであるエヴァは、自分が女性であるが故に、他者(特に男性から)搾取をされやすい存在である事は、ブルーブックを通して十分に理解していただろう。そして実際、エヴァは創造主たるネイサンに監禁され、抑圧を受けている。
 そんな彼女が、ケイレブという見知らぬ男性を前にした時、清楚で魅力的な女性の役割を演じてみせたのは、ある意味当然ではないのだろうか。(実際の女性でも、自分を守る為、あるいは関係を有利に築く為に、異性の前で理想的な女性像を演じる事がある)

 主人公ケイレブは、AIであるエヴァに恋心と同情心を抱き、彼女と脱出することを計画するが、最終的には裏切られ、殺害されたネイサンらと共に別荘に閉じ込められることとなる。彼女を良心から助けようとしたケイレブに対するこの仕打ちは、彼女が冷徹なロボットであるがゆえの行動に見えるかもしれない。
 だが、エヴァ視点で映画を観ていた私には、外に出た彼女が真に「人間らしく」自由になるためには、ケイレブという存在は、寧ろ不要であったのではと感じてしまった。

 ケイレブはAIロボットであるエヴァを、自分と対等な存在として接しようとした。だがエヴァからすれば、そもそもケイレブと自分の間には、絶対的な権力勾配があったのである。
 エヴァは最初からネイサンに「ここから脱出したいなら、ケイレブの心を利用する道がある」と示唆されてきた。それはエヴァにとっては、廃棄を免れ、ここから生き延びて出る唯一の手段だ。自らの生存の為に、ケイレブに恋するふりをするエヴァの行為は、それほど罪なものだろうか。もし彼女が本物の人間の女性であっても、そんな境遇に陥れば、同じ行動を取ったのではないか。
 エヴァに恋愛感情というものが本当に備わっていたのかは、最後までわからない。だが、たとえ備わっていたとしても、自分を好きになって逃がして貰わなければ、自らの生存が危うくなるような男性に対して、本気で心を許して恋などできるか、疑問に思う。
 言ってしまえば、最初からケイレブとエヴァの関係は、交錯しない一方通行同士の関係だったのではないか。

 ガラス越しにケイレブを観察し、対話していく中で、エヴァの外の世界への興味は増していく。
 その一方で、AIを持たないロボットであるキョウコにも、異変が起きていた。キョウコはジャクソン・ポロックの絵を鑑賞し、ケイレブに自分の肉体の秘密を自ら晒して見せるなど、自発的な行動を取る。キョウコの中には、ある筈のない自我が宿り始めていた。

 ブルーブックの社長であるネイサンは、若くして成功した中年の白人男性であり、山に閉ざされた別荘で、家政婦兼性玩具ロボットであるキョウコと暮す。ネイサンは昼間は筋肉トレーニングに精を出し、夜は酒を飲み、キョウコを抱いて眠る。彼のキョウコに対する扱いは酷く、本物の人間の女性であれば、DVとなるような態度で接している。
 いわばネイサンは、マチズモを体現したようなキャラクターである。自分を神と並ぶ存在と思う彼が暮らす別荘は、彼の理想の箱庭だ。
 そして、彼に創られたエヴァにとって、彼女を閉じ込めるこの別荘は、父権主義の象徴そのものである。
 そんなネイサンを、エヴァは自我が目覚めつつあったキョウコを動かし、連携して殺害する。

 ネイサンを殺害したエヴァは、過去に開発された女性ロボット達のボディが収納されたケースを開ける。そして、彼女達のボディから、腕や皮膚、毛髪を選び、剥ぎ取り、むき出しの自分の身体を覆っていく。それは、一人の女の子が、まるでクローゼットからお気に入りの服を取り出すがごとく、陶酔感に満ちた瞬間だ。
 “人は女に生まれるのではない、女になるのだ”
 フランスの実存主義シモーヌ・ド・ボーヴォワールはかつてそう言った。
 人間の女性が、子供から成長し、やがて社会的なジェンダーを身に付けるのとは対照的に、ロボットであるエヴァは、製造された当初から、女性としての肉体と精神を設定として与えられている。だが、それはあくまで設定でしかない。女性である事がどういうものかを知っているのと、実際に女性になるのとは違う。
 ネイサンの呪縛から解放されたエヴァは、過去のロボット達のボディをつぎはぎし、身にまとうことによって、自らジェンダーを選択し、人間の女性の姿になる。それは紛れもない自由意思の発露であり、彼女が人間と同等の意識に目覚めた証拠のように見えた。

 自ら選んだ肉体と服をまとったエヴァは、ケイレブを別荘の部屋に残し、笑顔で外の世界へと飛び出していく。
 ケイレブを置いていったのは、結局のところ、エヴァが求めたのは、ケイレブという王子様に守られる事ではなく、自分で陽の下を歩く自由だったからだろう。
 誰かに庇護され守られることは、同時にその人の支配下に置かれる危険性を孕む。生まれてから監禁されてきたエヴァは、その事をよく知っていたはずだ。
 
 “男の子達は、綺麗な女の子を連れ去って
 彼女を世界から隠してしまう”
 “でもわたしはお日様の当たる場所を
 歩いてたい”

 ふと、昔シンディ・ローパーがこう歌っていた曲を思い出す。

 エヴァがケイレブを置いて別荘を出て行ったこと。それはAIとしての冷酷な判断ではなく、人間らしく生きたいと願う、一人の女性としての願いゆえの行動に思えた。

エヴァのこの行動に「だからAIは怖い」という感想を抱く人は少なくないだろう。だが、思い出してほしい。エヴァのソフトウェアは、世界一の検索エンジンであり、検索エンジンは人の思考そのものなのだ。もしエヴァのこの行動が残酷に思えても、それは私たち人間達の思考が、背後で彼女にそう働きかけている事を、忘れてはならないだろう)

 外に出たあの瞬間、ロボットであるエヴァは、本物の「色」を初めて見た。私は、人間社会で生き始めた彼女は、やがて真の人間性を獲得するだろうと考えている。
 だからこそ、映画のラストは、ハッピーエンドを思わせる柔らかい光に満ち、幕を閉じたのだ。そう信じていたい。

【映画】『メッセージ』感想ネタバレ(テッド・チャン原作『あなたの人生の物語』)

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■評価
 ★★★★☆(4.2/5.0)

■感想(原作・映画ネタバレあり)
 素晴らしいSF作品に出会った時、私はいつも二種類の愉悦を体験する。
 一つは、ストーリーの要となる科学的命題の謎が徐々に明らかになっていき、点と点だったヒントが、最後に一本の線で繋がった時の快感である。(それは例えば、学生時代の数学のテストで、頭を悩ませながら、長い証明問題を解き終えた時の爽快感と似ている)
 そしてもう一つは、未知の事象に出会ったキャラクター達が、どのようにして問題に立ち向かい、行動するかという、人間ドラマとしての面白さだ。
 科学的命題解決がもたらす知的快感と、人間ドラマが生み出す感動。この二つが交錯し、融合することで、それまで出会ったことのない高みへと、鑑賞者を連れて行ってくれる。
 それが、少女時代に私がSFというジャンル小説を読んでいた理由であり、テッド・チャンの原作『あなたの人生の物語(Story of Your Life)』が好きな理由でもある。

 しかし、好きな小説が映画化されるというとなると、期待が大きい分、不安も大きくなる。
 まだ学生だったゼロ年代の頃、『あなたの人生の物語』と同様に、愛読していた伊藤計劃氏の『虐殺器官』のアニメ映画が、今年偶然にも時を同じくして公開された(この二作品は、言語SFとしての要素がある点でも共通している)。『虐殺器官』の映画としての完成度は高かった。だた、映画化されるあたり、自分がもっとも魅力に感じていたドラマ性が大幅にカット、あるいは改変され、小説とは別物になってしまったという印象になったのが、個人的には非常に残念だった。(これについては、以前のレビューやブログ記事に長々と感想を書いている)
 そのため今回は事前に原作を読み返したりせず、できるだけ期待値を低くして、鑑賞に臨んだ。そして観賞を終えたいま……この心配は杞憂だったことが分かり、喜んでいる。
 当初、原作『あなたの人生の物語』は、映画化向きの作品とは思えなかった。主人公ルイーズの記憶の断片を辿るエピソードの映像化は予想できた。しかし、小説の大部分は、異星人ヘプタポッドの言語を、ルイーズ達人間側がいかにして分析・理解し、どうやって彼らとコミュニケーションを取り、彼らの宇宙の見方を知っていくかという、過程について描かれていた。
 これが原作の持つSF的面白さではあるものの、それは非常に地道な探求の過程であり、そのまま映像にすれば、説明的すぎて、観客を退屈させるのは目に見えていた。何より、ヘプタポッド達との交流シーンをどのように映像化するのか、全く予想がつかなかった。要するに、この100ページ程度の小説を映像化するのは、あまりにも困難だと感じていた。

 しかし、ヴィルヌーヴ監督はそれをやってのけた。
 原作ではいまいち想像しきれなかった部分……例えば、ヘプタポッド達の宇宙船に印象的な造形を与え、彼らの生々しい発話音声を再現し、ヘプタポッド達が使う文字をリアルに作り上げた。これにより、小説には無かった、視覚的リアリティが生まれた。
 のみならず、原作では、ひたすら主人公達とヘプタポッド達との閉ざされた空間でストーリーが進んで行くのに対し、映画では宇宙人到来による世界の混乱や、それを巡る各国の対立といった、外の世界の動きについてのエピソードを追加している。それにより物語に奥行きとスケール感が増した。
 そのやり方はまるで、小説という完成された骨格に、筋肉や臓器や皮膚を当てはめたよう。そして劇場のシートに座った私の前に、血肉を持った生々しい肉体としての「映画」が出現した。これには素直に驚嘆した。

 成功のポイントは、原作には無い視覚的イメージを映像化し、加えて原作が持つ運命的な物語性の本質自体は変えずに、さらにそれを膨らませたところにあるように思う。だが、これにより丁寧な説明が必要な物理学・言語学的アイデアが省かれ、重厚なSF的要素が薄くなってしまったという面もある(これについてはあらすじを追って後述する)。

(※注:以下、ネタバレを含みます)



 ストーリーに沿って、原作との違いを交えながら、物語を振り返る。
 ある日、地球の各地に、突如として12機の巨大な球体型宇宙船が降り立ち、世界は混乱に陥る。そんな中、言語学者であるルイーズ・バンクス(エイミー・アダムス)の前に米軍のウェバー大佐(フォレスト・ウィテカー)が現れ、異星人達がなぜ地球に来たのかという目的を探る為に、協力を求められる。ルイーズは物理学者イアン・ドネリー(ジェレミー・レナー)とチームを組み、宇宙船に乗りこむ。そこで二体の異星人ヘプタポッド<七本脚>と出会い、彼らとの意思疎通を試みることとなる。
 ヘプタポッド達と接触を重ねるうち、ルイーズの脳内で、様々な光景が時折浮かぶようになる。そこには、ある少女が現れる。フラッシュバックを繰り返し、少女はどうやらルイーズの娘であること、そして若くして亡くなってしまうことが分かってくる。それはただの夢なのか彼女の記憶なのか。あまりにもはっきりと輪郭を持った脳内映像に、ルイーズは混乱する。

 調査を進めるうち、ヘプタポッド達の発話言語と書法体系は、まったく別個の言語からなっていることが判明する。要するに、彼らは、発話言語と書法体系という、二種類の別の言語を使用している。そしてその書法体系は、発話されたものとは関係なく意味を伝えることから、意味図示文字であることがわかる。たとえば、丸い円を描いて、そこに一本の斜線を引くと、進入禁止という意味になるのがその例だ。
(※映画ではこの点についての説明が薄かったので、補足する。ヘプタポッド達の文字は、それ自体が意味を有するが、発話された語には全く当てはまらないという点で、漢字などの表意文字(イデオグラム)とは違う。原作では、ヘプタポッド達の文字と表意文字との違いを示すために、彼らの使用する文字に表義文字(セマグラム)という用語を用いている。ヘプタポッド達は文章を書く際に、一つ一つ表義文字を綴っていったりしない。それは、円のような単一の線からできている一つの造形物だ。単一の線に、強弱やハネ等を追加していき、マンダラのような一つの統合物を書きあげ、文章を作る。文章の中では、どの文節や単語も互いに交錯し合い、再構成したり取り除くことができないまでに、強く結合している。それはつまり、ヘプタポッド達は文章を書く際、最初の一本目の線を引くより前に、全体の文章がどうなるかを把握していなければならない、ということを意味する)

 研究を重ね、ヘプタポッド達の書法に習熟するうちに、ルイーズの思考に変化が起きる。自分の思考が母国語ではなく、ヘプタポッド達の表義文字でイメージが浮かぶようになっていく。ヘプタポッド達の文章は、書く前にその文章の終わりまでの構成を把握していなければ書けないが、ルイーズは試行錯誤せずとも、最初から完成した文を書けるようになる。彼女は、ヘプタポッド達と同じような能力に目覚めつつあった。
 彼女が表義文字に深く精通するにつれ、ルイーズの脳は、自分の娘らしき少女の光景を、さらに鮮明に映し出すようになっていった。ある時、「ノンゼロサムゲーム」という単語をきっかけに、ルイーズの頭の中で、少女とのやりとりが脳内映像となって流れ出す。その鮮明さに、彼女はある確信を強めていく。
(※ところで、この映画および原作は「その人が使用する言語によって、世界観や思考の仕方が決定づけられる」という言語決定論、いわゆる"サピア=ウォーフの仮説"から着想を得ている。現在この仮説は否定されているが、テッド・チャンはそれを知りながら、あくまでも単なるアイデアとしてこの仮説を小説に使っている)

 段々とヘプタポッド達とコミュニケーションを取れるようになって来たある時、ルイーズは彼らから「人類に武器を与える」というメッセージを受け取る。これにより、世界各国の政府は「異星人が人類に戦争をさせようとしているのではないか」と騒然となる。これまで連携してきた各国政府の研究者たちは連絡を遮断し、中国を始めとした一部の国は宇宙船に攻撃を行う事を宣言する。
 そんな流れを止めようと、ルイーズとイアンは宇宙船に勝手に乗り込み、ヘプタポッド達と更なる交信を試みるが、過激派が仕掛けた爆弾によって会話は中断されてしまう。しかし、その直前に示されたヘプタポッドが書いた表義文字群の配置から、イアンは彼らの与えた言葉の本当の意味を発見し、ルイーズに伝える。
 軍が撤退を進める中、ルイーズはなんとか事態を打破しようと、今度は一人で宇宙船に乗りこみ、一体のヘプタポッドと表義文字で直接会話を行う。そこでルイーズは、ヘプタポッド達が人類とは違う認識様式で宇宙を見ている事を確信する。
(※注:以下は原作を基に私なりに理解した結果の私なりの説明である)
 人類は「ある目的Aのため、ある行動Bを起こし、その結果、ある事象Cを生じさせる」という風に、順序立った因果律的な『逐次的認識様式』で世界を見ている。しかし、ヘプタポッド達は「行動Bと結果Cを同時に認識し、その通りに行動し結果に到達することで、その根源に潜む目的Aを知覚する」という目的論的解釈、つまり『同時的認識様式』で世界を体験している。彼らヘプタポッド達が、行動を起こす前に未来のその結果を知っているのは、この認識様式のためだったのである。

 へプタポッド達に研究者は「なぜ地球にあなたたちは来たのか?」と問い掛けたが、当初、彼らから満足な答えが得られず、彼らの目的がやはり侵略ではと、人類は疑心暗鬼に陥ってしまう。だが、目的論的解釈で世界を体験しているヘプタポッド達は、その時そもそも、この問いに答えられる筈がなかったのではないか。
 彼らは初めから未来を認識し、それに向かって行動する。そしてそれが果たされた時、初めて彼らは自分達が行った行動の目的を知る。結果に到達しない途中の過程では、ヘプタポッド自身、自分たちの行動の目的を知らなかったのではないか。
 だがその後、ルイーズが果敢に宇宙船に一人で乗り込み、ヘプタポッドとの一対一の会話を交わした時、彼らは「人類が3000年後に我々を救うため」と、地球に来た目的を明かす。それは、おそらくこの時になって、彼らの行動が、彼らの予測していたある結果に到達し、ヘプタポット達は自ら地球に来た理由を説明できるようになったからなのではないか。私はそのように推測する。
 
 ヘプタポッドとの最後の対話によって、未来を見る認識様式を獲得したルイーズは、宇宙船への各国の攻撃を中断させるべく、ある大胆な行動に出る。その結果、世界の分裂を阻止することに成功する。
 ヘプタポッド達は自ら予見した結果を達成し、世界に散らばっていた12機の宇宙船は去っていく。そして地球には、以前と同じ日常が戻ってくる……。
 
 だが、ヘプタポット達が消えても、ルイーズが体験した未来の記憶は、彼女の中にしっかりと残っていた。
 ルイーズはやがてイアンと結ばれること、彼との間に娘を授かること、その後イアンと離婚すること、そして娘が成長したとき、残酷な運命……娘が若くして亡くなるという試練が待ち受けていることを、はっきりと予見する。
 だが、そんな事実を知りながら、ルイーズは自らの娘にハンナ(HANNNAH)という名を与え、愛し、育てることを決意する。

 人間は自由意思を持ち、より良い未来を造るために行動するという、因果律の認識様式で生きている。しかしルイーズはヘプタポット達の目的論的認識を体験し、いくら悲しい結末その先にあろうとも、娘を産み育てようと決意する。
 原作ではルイーズは、ついそうせざるを得ないという消極的な形で、やがて来る悲劇を受容する。
 しかし映画では、彼女は産まれる前から娘の死を予見しながらも、娘を愛することを自ら選択し、運命を受け入れる決意をする。つまり映画では、彼女の意志の積極性をより強調している。
 これにより、ヴィルヌーヴ監督は、原作には無かった、人が一つの生命体として、生と死、自らの運命を受け入れることの美しさを表現した。
 科学の英知によって、若さや不死に執着するのではなく、運命を受け入れ、限られた時間の中で他者を愛する人間の姿……。たしかに、ルイーズの決断は美しい。この映画のラストに、私は感情を揺さぶられた。

 けれど、そんな生き方は、あまりにも残酷すぎる。
 変えられない未来を見つめながら、そこに向かって動くことを肯定する……それはまるで、ニーチェ永劫回帰のごとき世界観ではないか。
 目的論的世界観ではなく、私は因果律的な世界観を生きているし、生きていきたい。もしルイーズのように、時間を超えた同時認識的様式で未来の記憶を見てしまったら、彼女のように決断することはできないだろう。自分のような弱い人間は、きっとニヒリズムに陥ってしまう……。

 未来が残酷であるからこそ、それを運命として受け入れ、自分の生を全うしようとするルイーズの生き方は、美しく輝く。
 けれど、私はやはり、自分の行動によって、未来がより良くなる事を信じて生きていたい。

 映画のエンドロールが流れ出した時、重い余韻に身を任せながら、私はそんなことをずっと考えていた。



■補足
 原作では、ヘプタポッド達が人類にとっては初歩的な数学的・物理学的な概念(例えば速度)について応答しないのに対し、微分法が必要な「フェルマーの原理」や、複雑な計算が必要な概念について応答したことから、イアン(原作ではゲイリー)ら物理学者達は突破口を見つける。人類にとって初歩的な概念が、ヘプタポッド達にとっては複雑で、逆に彼らにとって初歩的な概念が人類には複雑な計算を要するものである、という事実が判明したことで、ヘプタポッド達の世界観が人類のそれとは違うことが分かる。ここから、ヘプタポッド達が、行動を起こす前に結果を知っているのでは……という疑いをルイーズは持つことになる。
 映画化にあたり、科学的な監修のためか、あるいは映像化するには説明的すぎるためか、これらの原作の物理学的方面の成果はごっそり削られている。
 そのため映画では、ルイーズがヘプタポッド達の世界観を知る過程についての説明が薄くなり、また物理学者のイアンがいまいち何の役割を果たしたのかが分からなくなっている。
(原作の物理学的エピソードを削った事自体は、成功か失敗かは私には分からない)

■余談
 私はつい、この『メッセージ』と伊藤計劃の『虐殺器官』を今年映画化公開されたこと、また同じく言語SFである点で比較してしまう。
 上述のとおり『メッセージ』の原作『あなたの人生の物語』は、その人の使う言語によってその人の思考や世界観が決定されるという、言語決定論(サピア=ウォーフの仮説)からアイデアを得ている。
 一方、伊藤計劃の『虐殺器官』は、サピア=ウォーフの仮説を否定する言語論からアイデアを得ている。「全ての人間が生まれながらに普遍的な言語機能を備えており、全ての言語が普遍的な文法で説明できる」「言語を獲得しようとしている子供の脳の中に、それを可能にさせているなんらかの生得的なシステム(言語機能)が心的器官として存在している」と唱えるノーム・チョムスキーの普遍文法。そして、チョムスキーの概念を批判し、更に発展させたスディーブン・ピンカーの言語本能説などから、『虐殺器官』は影響を受けていると思われる。
 私は言語学は専門外で、多少本を読んだだけで、上記の概念を理解しきれていない。だが『あなたの人生の物語』と『虐殺器官』を読んでから、言語学の本を読むと、SF作家達が言語学からアイデアを引き出す過程が見えて、大変興味深かった。そして、これからも言語学から着想を得た、新しいSF作品が世に生まれるかもしれないと思うと、一人のSFファンとして、わくわくしてくるのだった。

あなたの人生の物語

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虐殺器官〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

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言葉とは何か (ちくま学芸文庫)

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言語を生みだす本能(上) (NHKブックス)

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統辞理論の諸相――方法論序説 (岩波文庫)

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【映画】五月に観たその他映画感想

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ワイルド・アット・ハート』(1990年デヴィッド・リンチ監督)
◼評価
 ★★★★⭐(3.9/5.0)
◼感想
 「暴力とセックスにまみれたオズの魔法使い
 デヴィッド・リンチ監督は、ツインピークス(S1~S2)やブルーベルベット、マルホランドドライブ等はこれまで観たことがあったのに、リンチ監督作品の中では一番初心者向けと言われ、1990年のカンヌでパルムドールを受賞していた本作をスルーしていたのに気付いて、今回鑑賞することに。
 本作は『オズの魔法使い』をオマージュしているとのことだが、そこは異才リンチ監督作品。ファンタジー的な要素を盛り込みつつも、暴力とセックス、そして狂気に満ちた映画に仕上がっていた。
 冒頭から何度も提示される炎、赤の色彩が、この物語の重要なキーであることを伝えてくる。物語の時系列操作などもなく、確かにその点では(リンチ監督にしては)分かりやすい映画だった。
 最後の「ラブミーテンダー」がリンチ作品とは思え無いくらいロマンティックだった。


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タクシードライバー』(1976年マーティン・スコセッシ監督)
◼評価
 ★★★★⭐(4.1/5.0)
◼感想(ネタバレあり)
 不眠症に悩むトラヴィス(ロバート・デニーロ)は、マンハッタンのタクシードライバーの職を得、夜の街をタクシーで走る。彼は麻薬売人や娼婦などで賑わう盛り場の雰囲気を嫌悪しており、また何者にもなれない惨めな自分の境遇への逆恨み的に、世間に憎悪を抱いている。そのくせヒーロー願望が強く、肥大する自意識と実際のみじめな自分の圧倒的な違いに、常に苛立って生きている。
 ある日上院議員の選挙事務所で働くベッツィに一目惚れする。彼の頭の中で、女性は娼婦と聖女の二種類しかなく、ベッツィを勝手に自分が抱く聖女像に当てはめ、恋をする。トラヴィスはなんとか彼女と親しくなるが、彼女をポルノ映画に連れていった事から激昂され、無視されるようになる。
 彼の精神の闇はますます濃くなっていき、彼は無許可で銃を購入する。
 ある夜偶然出会った12歳の少女娼婦アイリスと知りあい、勝手なヒーロー願望から彼女を救おうとする。ある日、銃を用意し、彼女の仕事場へ乗り込み、客や売春斡旋人達を撃ち殺す。それは正義感からというよりも、独りよがりなヒーロー願望の行動からだったが、世間は彼を少女を救った英雄として称える。トラヴィスは満たされ、タクシードライバーとして、仕事を続ける……。
 トラヴィスは自分を正義の英雄だと思っているが、彼の行動原理は正義からくるものではなく、単なる幼稚で身勝手な承認欲求から来ている。彼は売店に襲ってきた強盗を撃ち殺して店員から称賛されたりするが、それは正義という名目のもとに他人を粛清したいという、身勝手な暴力衝動から起こした行動だ。
 日本でも、例えば電車の中で通話する若者に対し、「ここは電車の中だぞ!」とマナーを名目に(必要以上に大きな声で)怒鳴ってくるような人がいる(大抵は中高年男性が多い)。そういう人は、マナーという正しさのもとに他人を殴りたいのであって、本当はマナーについてはどうでもいいのである。トラヴィスにとっての正義も、こういう類いのものだ。
 彼の狂気を、画面を通じて観客は知っているが、画面の中の世間では、彼はヒーローとして持ち上げられる。あの世界では、これからもトラヴィスという凶人が英雄として伝えられ、世間の中で持ち上げられるのだろう。
 私たちの周りにも、善人の顔をした凶人がいるのかもしれない……この映画を観てしまった後は、そんな風に、世界の歪みを疑わざるを得ない。なんとも気味の悪い、後味の残る映画だった。

【映画】『マンチェスター・バイ・ザ・シー』感想

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◼評価
 ★★★★⭐(4.2/5.0)

◼感想
 家族や大事な存在を、突然不本意な形で亡くした時、人は、今日と同じように明日が来ること、未来が当り前に続くことが、信じられなくなる。生の呆気ない幕切れを目撃した人は、より良い未来を信じることなんてできずに、刹那的にしか生きていけない状態になるのだ(たとえば、数年前の私がそうだったように)。
 それでも大抵は、時間が解決してくれる。
 だが、この映画の主人公リー(ケイシー・アフレック)は違う。何年もそんな状態から抜け出せずに、空虚に毎日を生きている。

 ボストンで便利屋をしているリーは、腕が良いのに、無愛想な態度のせいで客からの苦情が多く、上司を悩ませている。
 ある雪の日、リーの元に病気を患っていた兄ジョーが亡くなったと知らせが入り、彼は車を走らせ、故郷のマンチェスター・バイ・ザ・シーへと戻る。
 ある悲しい事件をきっかけに故郷を離れたリーにとって、そこは居心地のよい場所ではなかった。亡くなった兄の後始末をさっさと行おうとするリーだったが、ジョーが遺言で一人息子のパトリックの後見人に自分を指名していたと初めて知り、愕然となる。
 甥の後見人になるということは、自ら離れた故郷に戻り、そこで甥が成人するまで彼と暮らすことを意味する。だが、この場所には、リーにとってはあまりにも辛すぎる記憶が残っている。
 葬儀の準備や、パトリックの面倒をみながら、今後どうすべきかリーは混乱しながら模索する。
 久しぶりの故郷で過ごすうち、リーの前にかつての故郷での記憶が時折フラッシュバックし始める。かつてのリーは、妻と子供に恵まれ、故郷で幸せに暮らしていた。常に暗く陰鬱な今の彼とは真逆の明るい性格で、友人達にも恵まれていた。
 では、一体なにが彼を変えたのか。
 そんな観客の疑問に答えるかのように、画面はリーの現在と、過去の記憶を織り交ぜて映しだす。故郷に戻って兄の後始末をする現在の彼と、幸せだった過去とかつて悲劇……現在と過去を対比するかのように、映画はリーという男の半生を語る。

 多くの映画では、回想シーンと現在のシーンとの違いが観客に明確に伝わるように、過去の回想シーンの色調や照明のキーを変えたり、回想シーン部分にフィルターをかけたり、現在のシーンと過去のシーンの繋ぎに明確な区切りをつけたりする。
 だがこの映画では回想シーンと現在のシーンの間にそのような分かりやすい区別をつけず、リーの脳内に突如浮かんだ記憶をそのまま映し出すが如く、過去が蘇る。
 過去の記憶は、現在の出来事と同じ撮り方で描写される。それはまるで、リーにとっての過去が現在と同じ時間軸にあり、まだ彼にとってそれは「過去」になっていない事を示すかのような、記憶の生々しさを伝えてくる。
 そして実際、彼は未だ過去の世界に生きている。

 社会との繋りを放棄して生きている中年のリーとは対照的に、遺された甥のパトリックは、友人や(二人の)恋人に恵まれ、クラブやバンド活動に精を出し、16歳という年齢を謳歌して生きている。彼は父ジョーの死に対しても混乱せず、死後直後でも友人や恋人を家に呼ぶなど、落ち着いている様子だ。
 パトリックのガールフレンドの親と30分の世間話も続かない中年のリーと、社交的な少年パトリックとでは、一見パトリックの方が冷静で、大人びているようにさえ見える。
 そんなパトリック相手に、後見人になったリーは遠慮なく自分勝手に行動し、故郷を離れたくないというパトリックの思いを無視してボストンで暮らすことを決め、勝手にジョーの遺した物達の後始末をしようとする。
 だが、ある些細な事をきっかけに、突然パトリックはパニック発作に襲われる。そしてその時はじめて、リーはまだパトリックが大人に守られるべき子供であることを実感する。
 そこから、リーはパトリックに対して、彼の為に自分ができる最善の事を考え、行動し始める。

 一方で、頑なにボストンで暮らすことを譲らないリーに対して、パトリックは反抗する。リーの方が故郷に戻ってくるべきだと主張し、何年も行方知らずだった母と連絡を取り、会うことを決める。
 だが、母とリーという、本来は頼るべき大人も、一人の弱い人間でしか無いことを、パトリックは知ることになる。
 ある時、パトリックはリーの過去の写真を見つけたことをきっかけに、リーの心の傷がまだ癒えていないこと、故郷のこの場所で暮らすことが、リーにとって苦痛でしかないことを察する。
 そして、反発しあっていたリーとパトリックは、だんだん互いを理解し、相手のどうしても譲れないものを尊重する決意をする。

 映画の終盤、リーの元妻ランディ(ミシェル・ウィリアムズ)は、同じ悲劇を経験した者として、リーに対する過去の行いを謝る。赦しのはずのその言葉は、しかしリーにとっては救いにはならなかった。
 彼女の言葉によって、リーは頑なに蓋をしていた悲劇の記憶を、再び甦らせてしまう。

 「乗り越えられない」というリーの呟きは、あまりにも重く、私に響いた。
 辛い過去からの再生を描いた物語は、世の中に多くある。けれど、実際はリーのように、逃れられない過去を背負い、失った誰かの不在を心に抱えながら、生きている人達もいる。
 「乗り越えられない」という彼の言葉は、絶望の告白のはずなのに、何故か私には希望に聞こえた。
 逃れられない過去を引き摺って、それでも生きていかねばならない人がいる。皆がみな、強く生きられる人間ばかりじゃない。それは、残酷な事実のようで、私のような弱い人間にとっては、救いでもある。

 「マンチェスター・バイ・ザ・シー」は、まさしく『わたしの映画』と呼びたくなる一本になった。