【ご報告】「映画評論大賞2017」について(ドキュメンタリーマガジン『neoneo』vol.10)
◆「映画評論大賞2017」
ご報告が遅くなりましたが、拙論「『エクス・マキナ』が描いた女性AIの性とジェンダー」がneoneo誌主催の「映画評論大賞2017」にて大賞に次ぐ佳作に選出されました。選評が掲載されたvol.10号が現在発売されています。
ただし、残念ながら本文掲載は大賞作品のみのため、拙論は誌面にて読んで頂くことはできません。
ですが、『neoneo』vol.10の特集「環境とネイチャー」は、自然や環境をテーマにしたドキュメンタリー作品を中心に、様々な視点から自然や環境問題、それを巡る人間の在り方について論じられた記事が掲載され、とても読み応えのある内容です。
私自身、幼少期を緑深い高野山の麓で過ごし、自然と信仰の中で生きることに親しみを感じて育ちました。近年は多様な生態系を持つ西表島や慶良間諸島等を頻繁に訪れ、また愛する食虫植物やマングローブ林を目当てに東南アジアを旅するなど、暇を見つけては自然豊かな土地へふらりと旅に出る生活を送っています。そのため『neoneo』誌の今回の特集は色々と気付きが多く、とても興味深く拝読しました。(実はこの記事も旅先の奄美大島から書いています)
興味のある方は、ぜひご購読をおすすめします。主な取り扱い書店等はこちらでご確認いただけます。
◆映画評論とはなにか
ところで、今回のことを機に「自分にとって映画評論とは何であるか」について、考えてみました。
私にとって、評論や批評とは、作品の価値を他者に伝える手段の一つです。映画であれ小説であれ、ある作品が「名作」として歴史に名を残す時、その作品の背後には、優れた目を持つ鑑賞者が必ず存在します。そのような人々が議論や考察を重ねるうちに、作品は作り手から離れて一人歩きを始め、成熟の過程を経て、名作が世の中に誕生するのです。
つまり、どんな傑作であっても、作品は鑑賞者と彼らの受容なしには、名作になることができない……。私は、そう考えています。
私が映画について書くのは、第一に、常に何かを書かずにはいられない、内なる衝動のため。そして第二に、私の作品についての文章が読まれることで、読んだ人に何かしらの刺激を与えたい……そうすれば、今度はその人が、自分の意見を発してくれるかもしれない。更に、このような反応の連鎖が続けば、作品の価値が多くの人々に見出だされ、世の中の「名作」の誕生に繋がるのではないか……。
残念ながら、今の私には大した影響力はなく、この考えは我ながら傲慢に感じます。しかし、これが自分なりのやり方なのです。
もともと以前から知人に勧められていたこともあり、上記のような考えから、私は2017年の春頃からブログやSNSを中心に、映画について文章を書くことを始めました。そして書き続けていくうちに、自分でも思いもよらなかった反応や感想を頂いたり、人との繋りができていく……。そんな中で、私の文章が「感想」ではなく「映画評論」と呼ばれる事が多くなり、この文章が評論なのかと、驚きました。それからは、自分の文章は本当に「映画評論」と呼んで良いのか、考えるようになりました。実は、私が「映画評論大賞」に応募した理由の一つが、まさに此処にあります。
そして今回、見識ある選考委員・審査員の方々に、拙論に目を通して頂き、佳作に選んで頂きました。結果について知った時、何よりも嬉しかったのは、拙論を熟読して頂いた結果、映画評論として評価を受けたことです。自分の未熟さはよく理解しています。しかし、優れた数多くの応募作の中から見出だして頂いた以上、自らの文章を卑下することは、関わった全ての方々に対し、無礼な振る舞いになります。
今後、私は自分の文章を「評論」と呼ぼうと思います。同時に、今回頂いた評価に恥じないように、これからも映画に対する智見を広げ、読む人の心に届くような評論を書き続けていこうと、決心しました。
あらためて、今後ともこのブログや文筆活動を見守って頂きますよう、よろしくお願いします。
◆余談:映画学とわたし
私がブログ等で映画について書き始めたのは、上述の通り比較的最近のことです。また「映画評論大賞」の応募作は、ミザンセヌによる分析など映画学的なアプローチではなく、ジェンダーとAI技術の視点から、キャラクターの行動を論じたものです。しかし、実は過去に映画学を学んだ経験があるのです。
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