日々の泡

ついったでは書ききれない感想など

【映画】『ハクソー・リッジ』感想

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■評価
 ★★★★☆(3.7/5.0)

■感想
 この作品は、戦争映画であると同時に、異端者の英雄譚だった。

 物語は、主人公デズモンド・T・ドス(アンドリュー・ガーフィールド)の幼少期の記憶から始まり、成人して恋人に出会い、軍に志願するようになった経緯。そして、宗教上の理由から銃を取らない事を主張したせいで、軍事裁判にかけられながらも、最終的には衛生兵として戦地に赴き、衛生兵として活躍する姿を映す。
 上記のとおり、ストーリーとしては至ってシンプルであるが、物語の本質は筋ではなく、デズモンドという男が、戦場という異常な場所で見せた、信念と勇気を描いた所にある。

 映画はデズモンドの幼少期から始まる。
 父親のトムは、第一次世界大戦の復員兵であるが、戦時中に負ったトラウマのせいでPTSD(心的外傷後ストレス障害)を患っており、酒浸りになり、妻に暴力を奮っていた。
 ある日、兄弟と喧嘩をした際に、勢い余ってレンガで兄弟を殴り、重い怪我を負わせてしまったデズモンドは、激しい後悔と罪悪感を感じる。そして「汝、殺すことなかれ」という教えを胸に深く刻むことになる。
 成長したデズモンドは、病院で出会った看護師のドロシー・シュッテと恋に落ちる。周りの人々や兄弟が次々と志願する状況の中、何か自分にも役に立てることがあるのではないかと考えた結果、デズモンドは銃を取らない衛生兵として、軍に志願する。
 厳しい訓練にも耐えるだけの体力を持っていたデズモンドだが、狙撃訓練で銃を持つ事を拒否したところから、上官や兵士仲間から「除隊しろ」と嫌がらせを受けることになる。
 上官から責め立てられ、仲間から暴力を受けても、決して決意を曲げないデズモンドに、次第に周りの人々は一目置くようになるが、最終的に命令拒否として軍法会議にかけられてしまう。
 面会に来たドロシーは、銃を取らないデズモンドに「プライドが邪魔しているだけ」と言うが、彼は「信念を曲げたら生きていけない」と心の内を告白する。
 軍法会議で「皆は殺すが、僕は助けたい」と彼は主張し、予想外の人物の尽力もあり、彼は軍に加わることを認められる。

※デズモンドの信仰について、映画だけでは分かりにくい点があるかと思うので、補足する。彼が信仰するセブンスデー・アドベンチスト教会(Seventh-day Adventist Church、以下SDA)は、プロテスタントを主張する新興の一宗派である。その名の通り、安息日を日曜日ではなく土曜に定めており、厳格な聖書主義や採食主義といった点など、伝統的なキリスト教の宗派とは色々と違う点が多い。そのため他の宗派からは、同じキリスト教でありながら、しばしば「異端」として位置づけられてきた歴史がある。
(メル・ギブソンご本人はカトリックのようです)

 後半では、衛生兵として沖縄戦に従軍するデスモンドの活躍が描かれる。ハクソー・リッジの戦闘(前田高地での戦い)場面は、戦争の残虐さに満ちている。手足が飛び、はらわたが飛び散り、死体があちこちに転がる中を、米軍達は進む。烈しく銃弾が降り注ぎ、すぐ隣の兵士がヘッドショットを受けて一瞬で倒れる……。そこには人間としての尊厳など微塵もなく、辛酸を極めたような、血生臭さだけがある。
 この場面での暴力描写は、まさしく目を背けたくなるような地獄絵図だった。だが、生半可に抑えた描写ではなく、暴力を暴力としてあくまでも容赦なく残酷に描きった点に、私は作り手の「暴力に対する真摯さ」を感じた。観客に痛みを与えない、あっさりとした暴力描写では、その残酷さは伝わらないからだ。

 相手を殺さねば、一瞬で殺されてしまうという状況の中、デズモンドは銃弾の雨の合間をかけずり周り、負傷した兵士たちを次々と助けていく。
 窮地に陥った米軍が丘陵から一時撤退した後も、デズモンドはその場に留まり、傷ついて動けなくなった仲間を見つけては、崖の下へと下ろし続ける。映画では、それは彼の良心と信仰に基づく行動として尊く描かれているが、自らの命さえ危うい中、武器を持たずに一人で負傷者を助け続ける彼の行動は、普通に考えれば、ある意味では狂っているといっていい。人が命のやり取りをする場で、ただひたすらに命を救おうとするデズモンドは、明らかに異端者なのだ。
 だが、映画の中では、そんな異常なまでの彼の行動に、仲間の兵士たちは心を動かされ、デズモンドは兵士達の精神的支柱となる。最終的にハクソー・リッジは陥落するも、デズモンドは負傷し、担架に乗せられ、ロープによって中空で運ばれる。
 その時、傷ついた彼の背後には後光が差し、まるでイエス・キリストの殉教を描いた宗教画のごとく、崇高な存在として、デズモンドは映される。これにより、デズモンドがその善行により、神に近い存在になったかのようにして、映画は幕を閉じる。

 人と人が殺し合う戦争の場で、あくまで自分の信念を曲げず、命を助け続けたデズモンドの行動には、確かに心を動かされるものがある。
 だが、そもそもこの物語には矛盾がある。これがデズモンド一人の戦いであれば、加害しないという彼の行為は正当に思えるが、デズモンドが銃を取らずとも、仲間の兵士はデズモンドが狙われれば敵兵を殺すのである。映画の中では、銃を取らないという彼の選択に至る過程を、序盤の生い立ちから説明する事で丁寧に理由付けしているが、彼を助ける為に援護射撃をする仲間達を見ていて、私にはやはりこの矛盾感を払拭することが出来なかった。

 最初に述べた通り、この映画は戦争映画であると共に、デズモンド・ドスという男の英雄譚なのであるが、彼を英雄として仕立てあげることに、私は違和感を感じた。彼のとった行動自体は、素晴らしいと思う。しかし、果たして戦争に「英雄」は必要なのだろうか。そう私の個人的な倫理観が、疑問を投げかけてくるのだ。
 映画では描かれなかったが、琉球新報の記事によれば、ハクソー・リッジの戦いの後、デズモンドはグアムの陸軍病院に移送され、その後結核になって、片方の肺も摘出したという。そして戦後5年半も陸軍病院で入院生活を送り、PTSDの症状に苦しんだ。
 彼は信念を貫き、たしかに戦場で活躍した。しかしデズモンドは決して超人ではなく、戦争で傷ついた、一人の生身の人間であったのだと思う。彼を英雄として描くことで、まず戦争そのものが悪であるという観点が薄まってしまうのではないかと、つい私は危惧してしまう。
(参考:https://ryukyushimpo.jp/news/entry-521541.html)

 最後に、細かい点ではあるが、この映画が日本で公開されるにあたり、様々な「配慮」がされていた点に、違和感を覚えた。
 英語の台詞では、日本兵に対して"jap"や"animals"といった差別的な表現を敢えて用い、米軍から見た日本兵への憎悪を表現していたのに対し、日本語字幕では、いずれもそれが差別的表現だと分からないように、穏当な単語に修正されている。確かにこのような表現をされれば、不快に思う日本人もいるだろうが、この映画の敵国が日本であるという設定上、登場人物たちが憎悪を敵に向けるのは、当然に思う。むしろ、敢えて作り手が差別表現を用いているのであれば、その表現から生まれる不快感は、観客として(あるいは日本人として)受け止めるべきものではないのだろうか。
 また、沖縄戦が舞台の映画であるにも関わらず、映画のプロモーションではそれを敢えて伏せたかのように、見事に沖縄戦について殆ど触れられていないのも気になった。
 過去にアンジョリーナ・ジョリーが監督した『アンブロークン』が公開前に反日映画と騒がれ、公開が危ぶまれるようになったのは、記憶に新しい(実際の映画内容は反日的というにはあまりにもヌルい描写だったのだが)。
 上記の配慮は、いずれもそういう反日映画潰し的な反応を怖れての、配給側の配慮だと私は勝手に忖度している。しかし、行き過ぎた配慮は、映画の本質を歪めかねない。
 今回この映画を観賞したことで、日本の右傾化が進んでいることや、他文化を許容する土壌が狭くなっていること。日本で衰退しつつあるのが経済だけではなく、文化面にまで及びかけていることを、思わぬ形で実感してしまい、一人の映画ファンとして、なんだか暗い気分になってしまった……。

【映画】『KING OF PRISM -PRIDE the HERO-』(キンプラ)初心者向け感想

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■評価
 ★★★★★(5.0/5.0)

■感想
 感想を書くにあたり、私には、この映画の素晴らしさを描写するだけの文章力が無いということを、最初にまず明言しておかねばならない。私の言葉では、この壮大すぎる映画の魅力を語り尽くせない。だが、こんな唯一無二の感覚を体験をさせてくれる作品を語らずして、他の映画の感想を書くことなどできない。
 この作品を、従来の映画の尺度で評価することは難しい。これは、映画という枠を大幅に逸脱した、新しく圧倒的な映像体験だ。そのため、私はこの新しい表現に対する語りを、まだ獲得できていない。
 公開から一週間を経て、私はすでに三回鑑賞したのだが、なかなか感想を書けなかったのは、その為である。先週末の公開初日に一回目を観終わった瞬間から、すぐ二回目が観たくなった。二回目を観れば、この映画を観ていない時間が苦痛になり、気が付けばもう一回……という風に、つい劇場に通ってしまう。このような中毒的な症状は現在も続いており、おそらく私は今後10回以上はこの映画を観に劇場に行くことになるだろう。

 昨年1月に公開された前作『KING OF PRISM by PrettyRhythm』(通称キンプリ)が、「応援上映」という全く新しい鑑賞方法を確立したことは、日本の映画史、アニメ史に残る、ある種の革命であったように思う。去年、数多くの人々が一度の鑑賞に飽き足らず、何回、何十回と劇場へと足を運び、「キンプリ」は1年にも渡るロングラン公開を実現した。そして、私もそんな観客の一人であった。
 前作キンプリは、公開当初わずか全国14館のみで上映され、興業的に苦戦し、続編制作の目途も立たなかった。しかし、Twitter等のSNSによる口コミで徐々に興行収入を伸ばし、結果として当初予定されていた3000万円を大幅に超え、最終的に興行収入8億円を達成した。
 多くのファンは、キンプリという新しいエンターテイメントの魔力に半ば中毒状態になり、何度も劇場に通った。と同時に、ファン達は一回でも多く自分が映画を観ることで、興行収入を増やそうとし、それにより続編が制作されることを切に願った。
(因みにこういうキンプリ中毒者は、尊敬をこめて、プリズムエリートと呼ばれている)

 そんなドラマティックな経緯を経て、今月、ファン達の願いは実を結び、この続編『KING OF PRISM -PRIDE the HERO-』(通称キンプラ)が公開されるに至ったのである。
 そして、続編であるこの『KING OF PRISM -PRIDE the HERO-』は、前作を更に上回る猛烈な中毒性を持つ、エネルギーに満ちた傑作となっている。
(公開初日に観に行った際、応援上映ではない通常上映だったにも関わらず、上映終了後に客席から拍手が起こったのは、初めての経験で、涙が出そうになった)

 演劇の世界では、ファンが公演中何度も同じ舞台に足を運ぶのに対し、通常映画ファンは、面白いと思った映画でも、あまり何回も同じ映画を劇場で観ようとはしない。しかし、キンプリ、キンプラのファンは何回、何十回も劇場に足を運ぶ。
 知っての通り、映画は舞台と同じく時間と空間の芸術であるが、生の演劇の舞台とは明らかな違いがある。映画は基本的に二次元の壁に縛られており、観客は常に受け身の形で鑑賞をする。しかし、前作で「応援上映」という新たな鑑賞スタイルを確立した通り、キンプラは従来の映画が負っていた「二次元の制約」に縛られない。あらかじめ観客という存在を映画内に盛り込み、彼(彼女)らからの反応を予想して制作されたこれらの作品は、二次元でありながらも、限りなく三次元的なエンターテイメントになっている。
 キンプラの魅力の一つは、アイドルライブとアイススケートを組み合わせたような、「プリズムショー」という競技にある。劇中で「プリズムショー」が披露される時、劇場の観客達は、劇中にいるプリズムショーの観客達として映画内に存在を許され、彼らと同一化する。そして、あたかも目の前でプリズムショーが現在繰り広げられているかのような感覚に陥り、本気でキャラクターに声援を送ろうとする。このようにして、キンプリ・キンプラは二次元と三次元の壁を疑似的に乗り越え、生身の観客と劇中のキャラクターとの距離を限りなく近づけるのである。

 キンプラは、暴力的ともいえる圧倒的な映像の力、つまり画面から放たれる所謂「プリズムの煌めき」で、観客を映画の世界に引き摺りこむ。70分間の上映時間中、嵐に荒れ狂う大海原に放り出された小船の如く、観客はただひたすら映像世界に翻弄される。そして終了後、眩い酩酊感から目が覚めた時、観客である私は、鑑賞前にいた地球とは全く違う別次元の宇宙に飛ばされているのである。
 キンプラを観る前、私が存在した地球という星は青かった筈だったのだが、上映後劇場から出た時には、地球の色が変わっていた(観てない人は、早く地球が本当は何色かを確かめに行ってほしい)。
 しかも、上映時間は70分である筈なのに、体感的にはどう考えても5時間位は劇場にいた。一般相対性理論的に考えると、劇場内で重力の歪みが発生していたとしか思えない。プリズムショーのプリズムの煌めきは、時間と空間を超えた何かなのかもしれない。
(因みに冗談だと思われそうだが、割と本気で感想を書いている。観た人であればこれが真実だと分かってくれると思う。)
 
 簡潔に言えば、キンプリ・キンプラとは「プリズムショー」を行うプリズムスタァを目指す、少年たちの物語である。キャラクター達は実際のアイドルライブのように、プリズムショーを行い、観客達にどれだけ多くの「プリズムの煌めき」により感動を与えられるかを競い合う。
 前作キンプリでは、プリズムショーに魅せられた主人公、一条シンがプリズムスタァ養成学校であるエーデルローズに入学し、一人のアイドルとして成長していく様を描いた。そして今作キンプラでは、プリズムスタァの頂点を決める「プリズムキングカップ」に向けてキャラクター達が技を磨き、互いに頂点を目指す、少年漫画的な熱いドラマが展開される。
(詳細なストーリーについては、『KING OF PRISM』のwikipedia項目等で調べればいくらでも出てくる情報なので、今回説明は省く)

 魅力的なキャラクター達や、友情やライバル関係をはじめとした人間ドラマ、応援上映という三次元的な映像体験などなど、キンプリシリーズの魅力を挙げればキリが無いが、観客をその世界に惹きつけ、何度も劇場に足を運ばせる最大の魅力は、やはり作中のプリズムショーにあると言っていいだろう。

 上述の通り「プリズムショー」とは、アイドルライブとフィギュアスケートを合わせたようなショーであり、各キャラクターの持ち歌や、EZ DO DANCE等の小室哲哉作曲の有名曲に合わせ、CG化されたキャラクターがダンスやジャンプなどを繰り広げるものである。
 プリズムショーには、一応競技として、ジャンプやスピンなどの技量を競う面がある。だが、最も重視されているのは、ダンスと歌を通して、各キャラクターがどれだけ「プリズムの煌めき」を放てるか、という所にある。
 プリズムの煌めきは、一種の美のイデアのようなものだ。観客達は、舞台で踊るアイドルを通して、彼らの中にプリズムの煌めきを見出し、感情を揺さぶられる。一方で、アイドル達は、自らの肉体にプリズムの煌めきというイデアを体現し、結晶化し、より高みを目指して踊る。
 現実世界でも、私たちは美を体験した時、感情を揺さぶられ、本来はそこに存在するはずのない心象風景を見たりする。しかし、それはあくまでも実体のない、自身の内的宇宙で起こる、外部からは不可視の現象にすぎない。
 だが、キンプラではその化学反応を「そこに在るもの」として、大胆に描ききる。プリズムショーで表現される「プリズムの煌めき」は、時間・空間・重力といった物質世界の制約を軽々と乗り越え、本来目に見えるはずのない心象風景や、ときめきといった感情の渦を、その場に形をもって顕現させる。そしてそれはスクリーンと客席いう二次元と三次元の壁をすら越え、映画の観客をプリズムショーの世界に惹きこむのである。
 時空を超えたプリズムの煌めきを浴びた映画の観客達は、魅了され、ただひたすらに翻弄され、恍惚感に満ちた快楽を味わう。
 上映終了後も忘我の状態から抜け出せず、私のように中毒になり、プリズムの煌めきを浴びたいが為に、何回も劇場へと足を運ぶ人も多い。
(これが、キンプリ・キンプラが「電子ドラッグアニメ」と評される理由の一つである)


 と、ここまでプリズムショーについて、自分なりに言葉を尽くして書いたつもりだが、私の文章では、実際の作品の魅力の100億分の1も伝えることはできていない。どんな名文でも、キンプラ一回の鑑賞体験には遠く及ばない。キンプリ・キンプラを実際に観るまでと観た後では、世界が変わるので、見たことのない人にいくら説明をしても限界があるのである。

 前作キンプリの公開時、私自身、オタクでありながら、いかにもキラキラしたアニメの絵柄に抵抗があり、実際劇場で映画を観たのは公開後二ヶ月を過ぎた頃だった。

 「この絵柄のアニメにはいくらなんでもハマらないだろう」と高を括っていたにも関わらず、初めて味わう映像体験に魅了され、見事にハマってしまった。そして「この絵柄が苦手に思う人ほど、キンプリを観て欲しい」と周りの友人知人達に語った結果、友人達も見事にキンプリ中毒者になった。このようにして、前作キンプリは口コミでファン層を広げていったのである。
 女子向けアイドルアニメと思い、侮ることなかれ。映画が好きなのにキンプリを観ないということは、たとえば、女子が書いた手慰みだと思って、ミステリー好きなのにアガサ・クリスティを読まなかったり、SF好きなのにジェイムズ・ティプトリーJr.を読まなかったりするくらい、損をしているのではないか……とすら思う。


 ぜひ劇場に足を運んで、一人でも多くの人に、実際にプリズムの煌めきを体験してほしいと思う。

 


■追記
 この『KING OF PRISM -PRIDE the HERO-(キンプラ)』は前作『KING OF PRISM by PrettyRhythm(キンプリ)』の続編ということもあり、ストーリー的には前作を観ていた方が分かりやすい。だが、前作を観ないと……という義務感から、キンプラを観る心理的ハードルが上がってしまうのであれば、いきなり今作キンプラから観ても全く問題ない。
 なぜならば、劇場でキンプラを観るという体験ができるのは今だけであり、プリズムショーの感動はストーリーを知らずとも味わうことができると思っているからだ。
(※私は前作キンプリを観てから、スピンオフ元である女児向けテレビアニメ『プリティーリズム・レインボーライブ(以下プリリズRL)』を観ているが、それでもキンプラを観て分からないものは分からなかったし、過去作品を辿ればキリがない。取り敢えずキンプラを観てから、もし気になったら前作キンプリ、プリリズRLを観れば良いと、個人的には思っている)

【映画】『光』(河瀬直美監督)感想

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■評価
 ★★★★☆(3.9/5.0)

■感想

 この映画を観終えたとき、私は「耳で映像を観る」という感覚を初めて味わった。その時見た景色は、時間を経た今となっても、私の脳内で鮮やかな残像となって生きている。
 しかし『光』を観た人全員が、これを体験できるわけではない。ラストシーンで、耳で映像を観る境地に至るためには、上映中に映画の作り手が鑑賞者に課してくる「試練」に耐え続け、観客自身が能動的に「耳で見る能力」、すなわち聴覚情報から見えないものを見る想像力を身につけねばならないのだ。
 ではその試練とは一体何なのか。それを説明するため、ストーリーを追いながら、この映画のミザンセヌ(映像の構成要素)を、分析していくこととする。

 認知症の母と別居して暮らす、主人公・美佐子(水崎綾女)は、視覚障がい者のための「映画の音声ガイド」の制作に携わっている。最愛の妻を亡くした老男性の姿を描いた映画、『その砂の行方』のガイドを作るため、美佐子らは、視覚障がい者の人達に参加してもらい、彼らから意見を貰うモニター会を定期的に開いている。そこで、美佐子は誰よりも厳しい指摘をしてくる、元カメラマンで弱視の中森雅哉(永瀬正敏)に出会う。
 美佐子は『その砂の行方』のガイドを何度も書き直し、監督に質問する機会を得るも、どうしてもラストシーンにつけるガイドが思い浮かばず、悩み続ける。
 美佐子の作ったガイド文に、容赦ない批判を向けてくる中森に対し、美佐子は最初反発を覚える。しかし、同じガイドスタッフから、目の見えない人達は私たちよりずっと豊かな想像力の世界に生きている、という言葉をかけられたのをきっかけに、美佐子は視覚が無い世界とはどのようなものかということを、自ら考えるようになっていく。
 あるきっかけで、美佐子は中森と個人的に過ごす機会を持つ。当初苦手に思っていた中森という男と会ううち、彼が未だ写真を撮ることに執着していること、視力を失いゆく絶望の中で一人孤独に生きていることを知り、心を通わせていく……。

 『光』では、カメラが映す範囲で役者を動かすのではなく、役者の動きを制限せず、自由に演技をさせ、手持ちカメラが役者を追う。この役者の演技を第一に重視したカメラの動きは、ドキュメンタリー映画にあるような、リアリズム志向の映像作家の撮り方だ。
 しかし、そんなカメラの動かし方とは正反対に、その他の映像の構成要素は実に意図的なやり方で撮られている。
 各シーンの初めに挿入される、エスタブリッシングショット(その場所がどこかや、状況を示すためのロングショット)を除けば、この映画の殆どのシーンは、クローズアップ、またはミディアムクローズアップ等の、被写体に寄せたショットで構成されている。そして被写界深度は浅く、ピントが当たっている部分以外はぼやけて映される。
 また、上記のように寄せて撮影された被写体ですら、必要な情報は全て画面に収まっていない。例えば、役者を映したクローズアップショットでは、役者の頭が画面内に収まりきらず、上部にはみ出たり、焦点を当てた身体の一部以外は画面外へと弾き出されている。つまり画面内に必要な被写体の情報が全て収められたクローズフレームではなく、画面外に「何か」があることを観客に示すオープンフレームで、映画の世界をトリミングしている。
 これらの意図的なショットの構成によって出来上がる映像は、日頃私たちが見ている肉眼の世界よりも、ずっと範囲が狭く、窮屈感を覚える。映画のフレームが切り取る世界は、あまりにも狭いため、観客は、まるで視力を失いゆく中森と同様、視界が狭くなっていく弱視を疑似体験させられている感覚を味わい、時に見えにくさに対する苛立ちを感じる。これが、作り手の狙いの一つだろう。
 そして同時に、これは映画の鑑賞者の「想像力」を鍛える試みでもある。画面内に映すべきものが全て映されていないというオープンフレームによって、観客は画面外に何があるのか、常にフレーム外の世界を自分で想像し、脳内映像化することを求められる。音声ガイドを作る主人公・美佐子は、視覚障がい者の人々の「見えないものを想像する力」がどんなものかを考えることを求められるが、彼女と同様、この映画の観客も画面に映っていないもの(=画面外の見えない世界)を想像することを上映中求められ続ける。(観ていて疲れる、というこの映画の感想が多いのはこのためだろう)
 約一時間半弱の上映時間を通して、この映画は観客に「見えない世界を想像する力」を身につけさせようと、試練を与える。そして真摯にその試練に耐え続けた鑑賞者だけが、その能力を自分のものにすることが出来る。

 『光』は、美佐子が苦心して作り上げた「音声ガイド」による劇中映画『その砂の行方』の上映会のシーンで終わる。劇場に集まった目の不自由な観客達は、音声ガイドの再生機からイヤホンを耳に当て、見えない光景を想像する。
 想像力を鍛えられた『光』の観客達も、彼らと同様、目で劇中映画を観るのではなく、美佐子の作った音声ガイドから「耳で観る」という体験をする。
 『その砂の行方』のラストは、主人公の老人が浜辺を走って行く光景で終わる。そしてその時、『光』の映画内と現実世界、どちらの世界の鑑賞者たちも、耳から脳内にその世界の鮮やかさを映し、感動を自分のものにできるのだ。

 ふと、哲学者ジャック・デリダの『涙こそが目の本質ではあり、視覚ではない』という言葉を思い出す。彼は、19世紀の哲学界で「目で見ること=知ること」とされていた視覚中心主義を批判し、視覚に障害を持つ人々に対する差別性を否定する。そして、涙……つまり、無数の他者との共感性を肯定した。
 『光』はラブストーリーという宣伝文句を与えられている。しかし、美佐子と中森という見える者と見えない者が、二人の間にある断絶を乗り越え、互いに共感し合う物語……私には、孤独な魂同士が結びついていく過程を描いた作品に思えた。

 想像力と共感性……それこそが、この映画の本質ではないだろうか。

【映画】五月に観たその他映画感想

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ワイルド・アット・ハート』(1990年デヴィッド・リンチ監督)
◼評価
 ★★★★⭐(3.9/5.0)
◼感想
 「暴力とセックスにまみれたオズの魔法使い
 デヴィッド・リンチ監督は、ツインピークス(S1~S2)やブルーベルベット、マルホランドドライブ等はこれまで観たことがあったのに、リンチ監督作品の中では一番初心者向けと言われ、1990年のカンヌでパルムドールを受賞していた本作をスルーしていたのに気付いて、今回鑑賞することに。
 本作は『オズの魔法使い』をオマージュしているとのことだが、そこは異才リンチ監督作品。ファンタジー的な要素を盛り込みつつも、暴力とセックス、そして狂気に満ちた映画に仕上がっていた。
 冒頭から何度も提示される炎、赤の色彩が、この物語の重要なキーであることを伝えてくる。物語の時系列操作などもなく、確かにその点では(リンチ監督にしては)分かりやすい映画だった。
 最後の「ラブミーテンダー」がリンチ作品とは思え無いくらいロマンティックだった。


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タクシードライバー』(1976年マーティン・スコセッシ監督)
◼評価
 ★★★★⭐(4.1/5.0)
◼感想(ネタバレあり)
 不眠症に悩むトラヴィス(ロバート・デニーロ)は、マンハッタンのタクシードライバーの職を得、夜の街をタクシーで走る。彼は麻薬売人や娼婦などで賑わう盛り場の雰囲気を嫌悪しており、また何者にもなれない惨めな自分の境遇への逆恨み的に、世間に憎悪を抱いている。そのくせヒーロー願望が強く、肥大する自意識と実際のみじめな自分の圧倒的な違いに、常に苛立って生きている。
 ある日上院議員の選挙事務所で働くベッツィに一目惚れする。彼の頭の中で、女性は娼婦と聖女の二種類しかなく、ベッツィを勝手に自分が抱く聖女像に当てはめ、恋をする。トラヴィスはなんとか彼女と親しくなるが、彼女をポルノ映画に連れていった事から激昂され、無視されるようになる。
 彼の精神の闇はますます濃くなっていき、彼は無許可で銃を購入する。
 ある夜偶然出会った12歳の少女娼婦アイリスと知りあい、勝手なヒーロー願望から彼女を救おうとする。ある日、銃を用意し、彼女の仕事場へ乗り込み、客や売春斡旋人達を撃ち殺す。それは正義感からというよりも、独りよがりなヒーロー願望の行動からだったが、世間は彼を少女を救った英雄として称える。トラヴィスは満たされ、タクシードライバーとして、仕事を続ける……。
 トラヴィスは自分を正義の英雄だと思っているが、彼の行動原理は正義からくるものではなく、単なる幼稚で身勝手な承認欲求から来ている。彼は売店に襲ってきた強盗を撃ち殺して店員から称賛されたりするが、それは正義という名目のもとに他人を粛清したいという、身勝手な暴力衝動から起こした行動だ。
 日本でも、例えば電車の中で通話する若者に対し、「ここは電車の中だぞ!」とマナーを名目に(必要以上に大きな声で)怒鳴ってくるような人がいる(大抵は中高年男性が多い)。そういう人は、マナーという正しさのもとに他人を殴りたいのであって、本当はマナーについてはどうでもいいのである。トラヴィスにとっての正義も、こういう類いのものだ。
 彼の狂気を、画面を通じて観客は知っているが、画面の中の世間では、彼はヒーローとして持ち上げられる。あの世界では、これからもトラヴィスという凶人が英雄として伝えられ、世間の中で持ち上げられるのだろう。
 私たちの周りにも、善人の顔をした凶人がいるのかもしれない……この映画を観てしまった後は、そんな風に、世界の歪みを疑わざるを得ない。なんとも気味の悪い、後味の残る映画だった。

【映画】『マンチェスター・バイ・ザ・シー』感想

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◼評価
 ★★★★⭐(4.2/5.0)

◼感想
 家族や大事な存在を、突然不本意な形で亡くした時、人は、今日と同じように明日が来ること、未来が当り前に続くことが、信じられなくなる。生の呆気ない幕切れを目撃した人は、より良い未来を信じることなんてできずに、刹那的にしか生きていけない状態になるのだ(たとえば、数年前の私がそうだったように)。
 それでも大抵は、時間が解決してくれる。
 だが、この映画の主人公リー(ケイシー・アフレック)は違う。何年もそんな状態から抜け出せずに、空虚に毎日を生きている。

 ボストンで便利屋をしているリーは、腕が良いのに、無愛想な態度のせいで客からの苦情が多く、上司を悩ませている。
 ある雪の日、リーの元に病気を患っていた兄ジョーが亡くなったと知らせが入り、彼は車を走らせ、故郷のマンチェスター・バイ・ザ・シーへと戻る。
 ある悲しい事件をきっかけに故郷を離れたリーにとって、そこは居心地のよい場所ではなかった。亡くなった兄の後始末をさっさと行おうとするリーだったが、ジョーが遺言で一人息子のパトリックの後見人に自分を指名していたと初めて知り、愕然となる。
 甥の後見人になるということは、自ら離れた故郷に戻り、そこで甥が成人するまで彼と暮らすことを意味する。だが、この場所には、リーにとってはあまりにも辛すぎる記憶が残っている。
 葬儀の準備や、パトリックの面倒をみながら、今後どうすべきかリーは混乱しながら模索する。
 久しぶりの故郷で過ごすうち、リーの前にかつての故郷での記憶が時折フラッシュバックし始める。かつてのリーは、妻と子供に恵まれ、故郷で幸せに暮らしていた。常に暗く陰鬱な今の彼とは真逆の明るい性格で、友人達にも恵まれていた。
 では、一体なにが彼を変えたのか。
 そんな観客の疑問に答えるかのように、画面はリーの現在と、過去の記憶を織り交ぜて映しだす。故郷に戻って兄の後始末をする現在の彼と、幸せだった過去とかつて悲劇……現在と過去を対比するかのように、映画はリーという男の半生を語る。

 多くの映画では、回想シーンと現在のシーンとの違いが観客に明確に伝わるように、過去の回想シーンの色調や照明のキーを変えたり、回想シーン部分にフィルターをかけたり、現在のシーンと過去のシーンの繋ぎに明確な区切りをつけたりする。
 だがこの映画では回想シーンと現在のシーンの間にそのような分かりやすい区別をつけず、リーの脳内に突如浮かんだ記憶をそのまま映し出すが如く、過去が蘇る。
 過去の記憶は、現在の出来事と同じ撮り方で描写される。それはまるで、リーにとっての過去が現在と同じ時間軸にあり、まだ彼にとってそれは「過去」になっていない事を示すかのような、記憶の生々しさを伝えてくる。
 そして実際、彼は未だ過去の世界に生きている。

 社会との繋りを放棄して生きている中年のリーとは対照的に、遺された甥のパトリックは、友人や(二人の)恋人に恵まれ、クラブやバンド活動に精を出し、16歳という年齢を謳歌して生きている。彼は父ジョーの死に対しても混乱せず、死後直後でも友人や恋人を家に呼ぶなど、落ち着いている様子だ。
 パトリックのガールフレンドの親と30分の世間話も続かない中年のリーと、社交的な少年パトリックとでは、一見パトリックの方が冷静で、大人びているようにさえ見える。
 そんなパトリック相手に、後見人になったリーは遠慮なく自分勝手に行動し、故郷を離れたくないというパトリックの思いを無視してボストンで暮らすことを決め、勝手にジョーの遺した物達の後始末をしようとする。
 だが、ある些細な事をきっかけに、突然パトリックはパニック発作に襲われる。そしてその時はじめて、リーはまだパトリックが大人に守られるべき子供であることを実感する。
 そこから、リーはパトリックに対して、彼の為に自分ができる最善の事を考え、行動し始める。

 一方で、頑なにボストンで暮らすことを譲らないリーに対して、パトリックは反抗する。リーの方が故郷に戻ってくるべきだと主張し、何年も行方知らずだった母と連絡を取り、会うことを決める。
 だが、母とリーという、本来は頼るべき大人も、一人の弱い人間でしか無いことを、パトリックは知ることになる。
 ある時、パトリックはリーの過去の写真を見つけたことをきっかけに、リーの心の傷がまだ癒えていないこと、故郷のこの場所で暮らすことが、リーにとって苦痛でしかないことを察する。
 そして、反発しあっていたリーとパトリックは、だんだん互いを理解し、相手のどうしても譲れないものを尊重する決意をする。

 映画の終盤、リーの元妻ランディ(ミシェル・ウィリアムズ)は、同じ悲劇を経験した者として、リーに対する過去の行いを謝る。赦しのはずのその言葉は、しかしリーにとっては救いにはならなかった。
 彼女の言葉によって、リーは頑なに蓋をしていた悲劇の記憶を、再び甦らせてしまう。

 「乗り越えられない」というリーの呟きは、あまりにも重く、私に響いた。
 辛い過去からの再生を描いた物語は、世の中に多くある。けれど、実際はリーのように、逃れられない過去を背負い、失った誰かの不在を心に抱えながら、生きている人達もいる。
 「乗り越えられない」という彼の言葉は、絶望の告白のはずなのに、何故か私には希望に聞こえた。
 逃れられない過去を引き摺って、それでも生きていかねばならない人がいる。皆がみな、強く生きられる人間ばかりじゃない。それは、残酷な事実のようで、私のような弱い人間にとっては、救いでもある。

 「マンチェスター・バイ・ザ・シー」は、まさしく『わたしの映画』と呼びたくなる一本になった。

【映画】『パーソナル・ショッパー』感想(ネタバレあり)

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◼評価
 ★★★⭐⭐(3.3/5.0)

◼感想
 突然だが、私は幼少期を日本有数の信仰深い土地で過ごしたせいか、自身の信仰以前に、昔から魂の存在を信じている。
 そして現在は『新耳袋』を始めとした多くの実話怪談集本の蒐集家であり、『幽』等の怪談雑誌の読者であり、平山夢明氏や加門七海氏、最近では郷内心瞳氏といった実話系怪談作家の熱心なファンであり、時に怪談イベントに足を運び、知人から実体験の超常現象の話を聞き集めたり、(家人に嫌がられながらも)就寝前には必ず何らかの怪談本や怪談系民俗学的資料を読みながら寝たりする。つまりは、どこにでもいる(多分)オカルト好きの一人である。
(ちなみに、多くのオカルトファンがそうであるように、私はスピリチュアルという単語を忌避して使わない。それは霊的なものから禍禍しい面や宗教的背景を取り除いて、一般向けに舌触りよくするために漂白された、カジュアルでクリーンすぎる単語だからだ)

 そのため、以下に述べるこの『パーソナル・ショッパー』の感想は、いち映画ファンであると同時に、オカルトファンとしての個人的な推測によるところがある。そのようなものに懐疑的な方には、荒唐無稽な部分が多いと思われるため、この感想を読まれるのはお薦めしないということを、予め断らせて頂く。
 以下、この映画のストーリーを追いつつ、拙い私なりの解釈を記述する。

 主人公モウリーン(クリスティン・スチュワート)は3ヶ月ほど前に双子の兄ルイスを亡くし、自分の半身を失った悲しみから立ち直れないまま、兄が亡くなったパリで、彼が死後の世界から「サイン」を送ってくるのを待っている。彼女と亡くなった兄には霊媒師の才能があり、生前「どちらかが先に亡くなったら、サインを互いに送る」と約束していた為だ。

 夜になると、モウリーンは生前ルイスが過ごしていた郊外の屋敷に滞在し、ルイスが現れるのを待つ。
 屋敷の中をまわり、次々に窓を開けていくモウリーンの姿を、カメラは丁寧に追っていく。この窓を開放するという行為は、外(異界)から内へ他者(つまりルイスの魂)を呼び込む為の、儀式的な行為のように見える。
 屋敷の中に他者の存在を感じながら、だが、決定的なサインを見いだせず、モウリーンは一人で朝まで過ごす。

 モウリーンの仕事は、多忙なセレブであるキーラの代わりに服を選んで届ける、パーソナルショッパーだ。モウリーンは、常にどのアイテムがキーラが気に入るかを第一に考え、ブランド店からブランド店へとバイクで街を疾走する。
 その仕事は、単なる買い物代行のみならず、「他人の欲望の代理人」とも言える。
 買い物という消費欲は、人間の持つ生々しい煩悩(=生の象徴)そのものだ。そしてその欲望は、もっとも「死」という精神世界から遠い。
 つまり、モウリーンは人の煩悩と死後の霊界、エロスとタナトスという、二つの両極端な世界を行き来して暮らしている。そして、そんな彼女の生活は最近上手く行っていない。

 最先端の流行を発信するアパレルショップやショールーム、きらびやかなファッションの世界を飛び回っているというのに、モウリーンは常にノーメイク。服装は、革ジャンにジーンズや、シンプルなポロシャツ。飾り気がなく、いつも全体的に暗めの色合いのコーデである。
 (クリスティン・スチュワートの類い稀な美貌のお陰でサマにはなっているものの)彼女の地味すぎるファッションは、明らかにファッション業界という、人間の欲望が渦巻く世界では浮いている。逆に言えば、キラキラ輝く世界に身を置いているからこそ、彼女の服装は異端に見える。
 常に暗く地味な彼女の装いはまるで、亡くなった兄の喪に服すため、服を選んでいるかのようだ。
(因みに、彼女が信仰を持っているかは分からないが、キリスト教等の宗教には、日本の四十九日のように具体的な忌服期間はない。日本の忌服の習慣は、宗教というより日本独特のケガレ思想からきている)

 モウリーンは、ルイスが遺した屋敷で再び夜を越し、超常現象を体験するが、それは兄ではなく見知らぬ女の霊だった。
 もう兄は屋敷にはいないのではないかと、モウリーンが肩を落としかけたある日、差出人不明のテキストメールがスマホに届く。
 誰かと問いかけるモウリーンに、相手は「私はお前を知っている。お前も私を知っている」と答える。ただのイタズラかと無視しようとするが、兄からのサインという、一方的な連絡を待つことに疲弊していたせいだろうか。彼女はテキストメールという、双方向のコミュニケーションに興味をひかれ、会話を続けてしまう。そのうち、相手があまりにも自分の事を知っていることから、もしやメールの相手はルイスなのでは……と疑いを抱きつつ、彼女はメールのやり取りを続ける。
 一体、メールの相手は誰なのか。何の目的で、彼女に接触してくるのか……ここから、物語はサスペンス味を帯びてくる。

 やり取りを続けていくうち、メール相手からの質問は、例えば「君が嫌いなものは何?」「別人になりたいと思うか?」など、どんどん個人的(パーソナル)なものになっていく。
 その質問に答えるうちに、やがてモウリーンは、彼女自身も気づいていなかった、自分の欲望を意識するようになっていく。
 いつものように洋服を買い回って雇い主の元へ届けたある日、彼女はメールで「最も怖れていることは何か?」と問われる。この質問に「禁止されていることをやってしまうこと」と答える。
 そしてこの回答を通して、モウリーンは雇い主から禁止されていた行為……つまり「雇い主のドレスや靴やアクセサリーを自ら身に付けることをしてみたい」という、抑圧してきた自分の欲望に目覚める。
 留守中の雇い主の家で、モウリーンは禁忌を犯す。雇い主の為に買い付けたドレスと靴を身に付けた時、彼女は自分に課していた抑圧から解放される。同時に、もう一つの新たな欲望……エロティックな衝動が沸き上がり、雇い主のベッドで、衝動的にマスターベーションに耽ってしまう。しかし、なぜそんな行為をしてしまったのか。
 この時私は、思想家ジョルジュ・バタイユの著書「エロティシズム」を思い出した。そこでは「『禁止』を破って『侵犯』することで、エロティシズムの領域に至る」という主張が説かれていた。
 この思考に沿うと、「雇い主の服や靴を身に付けてはいけない」というモウリーンにとって身近な『禁止』を破ってドレスを纏い、『侵犯』したことで、彼女はエロティシズムな領域と交流(コミュニカシオン)したのではないか……そんな風に私は結論づけた。

 雇い主のベッドで眠ってしまったモウリーンが、朝ふと目覚めると、傍に霊的存在がいることに驚き、慌ててその家を出る。
 この霊的存在は一体何なのか。これは憶測でしかないが、モウリーンのテキストメールの相手の魂(つまり生霊)ではないか。何故ならば、モウリーンが雇い主の家にいることを知っていたのは、メールの相手だけであり、また後に彼(彼女)は「モウリーンの着飾った姿を見たい」という欲求をメールで送ってくるからだ。その生きた人間の強い欲求が具現化した形が、生霊となってモウリーンの元を訪れたのではないだろうか。

 その後、テキストメールの相手は、モウリーンをあるホテルの部屋に来るように呼び出す。行ってみると部屋は無人で、部屋の代金は彼女の名前で事前精算されていた。
 モウリーンはメール相手に「着飾ったあなたを見せて」と言われ、雇い主のドレスと靴を纏った姿を自撮りして、メールに送る。
 この時のモウリーンはいつものスッピンではなく、きちんとメイクをし、髪を整えており、ゴージャスなドレスに引けをとらない程美しい。この時、自分の欲望を自覚した彼女の生活は、死の世界から生の世界へと比重を移しつつあるように見える。

 だが、雇い主の突然の死を目撃することよって、彼女の心は再び死者の世界へと突然引き戻されてしまう。
 いつものように買った服とカルティエのジュエリーを届けに雇い主の部屋を訪れると、殺された雇い主の死体を見つける。部屋にいる邪悪な何者かの気配に気付き、一旦慌ててその場を去るも、冷静になり、戻って警察に通報する。
 警察の取り調べを終えて疲れて家に帰ると、彼女の部屋には、確かに雇い主の部屋に置いてきた筈のカルティエのジュエリーが置かれていた。それを見て、モウリーンは死体を発見した時に部屋に感じた「何者かの気配(=雇い主を殺した犯人)」が、彼女の部屋に入り込み、勝手に置いていったのだと慄然とする。

 そんな時、いつものテキストメールが届き、モウリーンは激しく動揺する。彼女を精神的に追い詰めるメールが立て続けに携帯に届く。
『警察にこのメールのことを話した?今から君に会いに行く』『今、駅にいる』『今エレベーター』『今、君の部屋の前』と、相手はどんどん近付いてくる様子で、モウリーンはパニックに陥る。
(ちなみに、このやり取りの様子は、かつて日本で流行した都市伝説的怪談『メリーさんの電話』を彷彿とする怖さがある)
 怖々とモウリーンはドアミラーから外を覗いてみるが、誰もいない。しかし、ドアの隙間から『ホテルの部屋に来て』というメッセージが届く。
 当初はメールのやり取りで、自分の欲望を自覚し、いつのまにか相手に自己を投影していたモウリーン。だが、メール相手が完全な他者であり、殺人犯かもれないと分かったいま、メール相手は彼女にとって完全に恐怖の対象でしかなかった。

 勇気を出し、カルティエのジュエリーを持ってホテルの部屋をモウリーンは訪れる。待っていると、静かに部屋のドアが開く。だが、その訪問者の姿を映さずに、場面は切り替わる。
 画面が次に映し出すのは、ホテルのロビーのエレベーターだ。到着のチャイムが鳴り、エレベーターの扉が開くが、そこに人の姿は無い。だが、まるでそこに透明人間が歩いているかのように、カメラは見えない何者かの姿を追う。そして見えないのに、ホテルの二重の自動ドアが開き、「透明人間」は去っていく。
 そしてその後、画面は再び同じエレベーターを映すが、今度は別の男が乗ってロビーへと降りてくる。見覚えのあるその顔は、モウリーンが映画の序盤に雇い主の部屋で出会った、雇い主の愛人の男だった。男は、ロビーからホテルの自動ドアを出た瞬間、張っていた警察に取り抑えられそうになり、逃亡する。そこで、モウリーンの雇い主を殺した犯人であり、彼女にテキストメールを送り続けていたストーカーは、この愛人の男だった事が判明する。

 しかし、ここで謎が残る。いったいモウリーンはホテルで誰に会ったのか。私は、この犯人の男と彼女は接触していないと考える。
 犯人の男は、最初に会ったとき、モウリーンが「死んだ兄からのサインを待ち続けている」という彼女の話を聞いている。犯人は、そんな不安定な彼女の精神状態につけこみ、テキストメールの相手が死んだ兄からのものと思い込むだろうと予想し、メールを彼女に送り続けていた。そしてキーラ殺害後は、モウリーンを雇い主殺害の犯人に仕立て上げるため、彼女の部屋にカルティエのジュエリーを置いてきたのではないか。
 以上の仮説に沿って考えれば、犯人がモウリーンに罪を擦り付ける為には、彼女の口を封じることが必要になる。つまり、モウリーンを自殺に見せかけて殺害するなり、行方不明にするなり、何らかの形で彼女を消すことが必要になる筈なのだ。
 しかし、犯人がホテルを出て逮捕された後も、モウリーンは無事だった。とすれば、彼女がホテルの部屋で出会ったのは犯人ではなく、犯人より先にホテルを去った「透明人間」の方ではないのだろうか。そうであれば、犯人はホテルの部屋を訪れようとして、部屋の中にモウリーン以外の存在がいることに気付き、彼女に接触せず出ていった……と考えることが出来る。

 事件が無事解決し、モウリーンは恋人のいるオマーンへ旅立つ決心をする。パリを離れる前に、モウリーンは兄ルイスの元妻ララの家に宿泊させてもらう。翌朝、庭でララの新しい恋人アーウィンと偶然鉢合わせたモウリーンは、彼とぎこちなく会話する。彼は「この家にルイスの気配がする」と言うが、一連の事件で兄ルイスからのサインを待つことを既に諦めかけていたモウリーンは、アーウィンの言葉を否定する。
 アーウィンが去った後、庭に残っていたモウリーンの背後の家のキッチンの窓に、ぼやけた男の顔が映って消える。そしてその直後、キッチンに置いてあったガラスのコップが落ちて割れ、音に驚いてモウリーンはキッチンを振り返る。
 直前に窓に映った男の顔から、霊的な存在がコップを落としたのだと観客は感づくが、モウリーンは偶然コップが落ちたのだと思い、霊的な存在に気づかない。
 そしてモウリーンは、パリを去り、恋人がいるオマーンの山の中の宿泊先に旅立つ。

 穏やかに光指す山の部屋のなかで、モウリーンは心を休めようとするが、何かの気配を感じて隣の部屋へ行く。すると、コップが宙に浮いており、そのまま床へと落ちて壊れる。それは、先日パリのララの家でコップが落下させたのに、モウリーンに存在を気づかれなかった同じ人物が、今度は彼女が存在に分かるように、より大胆なやり方でやったように見える。
 直後、壁を叩くような大きな音が鳴り、その場に霊的存在がいることを確信したモウリーンは「音一回ならイエス、二回ならノーで答えて」と言い、霊的存在に問いかける。
 「あなたはルイスか?」という質問に音一回(イエス)で霊的存在は回答する。だが続けて「あなたはいま平静なのか?」「あなたはいま辛いのか?」という問いかけをしても、返答はない。
 そして「私のせい?」と尋ねた時、大きな音が一回鳴り響き、モウリーンは動揺する。ここで、映画はラストを迎える。

 私は、パリのホテルに現れた透明人間、ララの家でコップを落とした男の人影、オマーンで交信した霊的存在、この三つの存在はすべてルイスではないかと考えている。それは、ルイスの魂は、森の屋敷やパリの街にいたのではなく、(モウリーン本人が気づいていなかっただけで)彼女自身にずっと憑いていたのではないかと仮定すると、色々と合点がいくからだ。
 では、なぜモウリーンに憑いていたのか。それは、彼女が生前ルイスと交わした「どちらかが亡くなったら、相手にサインを送る」という約束のせいではないか。
 この約束は、遺されたモウリーンにとっては、兄の魂の存在を感じたいという希望だ。しかし同時にこの約束は、既に亡くなり、霊的存在となったルイスにとっては、彼の魂を現世に縛り付けている呪縛である。ルイスは、モウリーンに自分の存在を気づいてもらえず、この約束を果たせない限りは、死後の世界へと旅立つことが出来ない。そして彼をそうさせているのが、約束に対する自分の執念であることを、モウリーンは今まで気づかず過ごしてきた。

 ラストの霊的存在との交信で、ルイスと名乗るそれに、モウリーンは「私のせい?」と尋ね、イエスと回答を得る。
 この時、モウリーンは常にルイスが傍にいたこと、彼女との約束がルイスを縛り付けていることに、気がついただろうか。
 もし彼女が気づいたならば、ルイスの魂は現世から解放される。そしてモウリーン自身も、自分の人生を前へ進めなければと、行動し始めるはずた。
 
 願わくば、ラストの瞬間、モウリーンにルイスの存在と、あの回答の意味を理解してほしいと思う。
 私はそこに、救いを見出だしている。





◼余談
 この『パーソナル・ショッパー』のように、余白を敢えて残し、観客の解釈に委ねる映画というのは、作り手からの観客に対する「ある種の挑戦」のだと思っている。
(まるで「具材は用意したから、後は自分で好きに料理したまえ」と言われているかのように)
 だが、そんな正解の無い映画に、真っ正面から自分の解釈をぶつけることは、非常にエネルギーが要る。時に否定もされるし、正直疲れるので、進んでやりたいものではない。だが、私の中のちっぽけなレビュアー魂が、逃げることを許してくれなかった。だから今回、仕方なく私は自分なりに悩んで、一つの解釈を認めるに至った。
 単純に「面白かった」とか「理解できなかった」とありきたりな言葉で言うのは簡単だ。しかし自分の言葉で感想を語れないということは、それは私にとっては思考停止で、レビュアーとしての敗北を認めることになる。
 それに、なぜそこまでして「パーソナル・ショッパー」の解釈を自分なりに書いたのかと言えば、まず第一に、私と同じように苦心し、自分なりの解釈を生み出した人のレビューを読みたいという気持ちが強いからだ。
 世の中には分かりやすく、もっと楽に楽しめる作品がある。だが、私はもっとこの作品に対する、他の方の解釈をもっと読みたいと願っている。
 私と違ういくつもの解釈が、このネットの海に現れることを、心待にしている。どうか、あなたなりの解釈を、あなたの言葉で私に届けてほしい。

【映画】『ゆれる』感想(2006年・西川美和監督)

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◼評価
 ★★★⭐⭐(4.3/5.0)

◼感想

 フィクションの多くは、キャラクターの台詞や言動によって、その人の心情や内面や過去を明快に表現することで、ラストへと導き、観客に問題が解決したという満足感を与える。だが、実際の生活において、必ずしも私達は自分の心情を赤裸々に吐露したり、思っている事をそのまま相手に伝えたりしないものだ。

 人間の表層と深層心理には、断絶がある。そしてこの『ゆれる』という作品は、ある兄弟のそんな人間の心の断絶を、深く掘り下げた映画だった。


 物語は、東京でカメラマンとして活躍する猛(オダギリジョー)が、母の一周忌の法事の為、地方の故郷へと帰ってくる所から始まる。実家では、兄の稔(香川照之)が家事と実家の稼業をこなしながら、父の勇と男二人で暮らしている。

 悠々自適に都会で生活する猛とは違い、長男の稔は稼業を継ぎ、小さなガソリンスタンドで働いている。猛はそんな兄に、稼業から逃げたという負い目を感じていた。

 猛は車でトンネルを通り、故郷へと向かう。それはまるで明るい都会から、どこか異界へと通じる道を進むかのよう。故郷のシーンは、主にローキーな照明で撮影され、全体的に暗い閉塞感を印象づける。これにより、故郷が猛にとって心安らぐ場所ではなく、陰鬱な所であることを、画面は示す。


 稼業のガソリンスタンドには、猛の昔馴染みの女性・智恵子(真木よう子)も働いている。智恵子は最初、車のガラス越しに猛に気付くが、猛は智恵子に気付かないふりをする。二人の視線は直接交わらず、猛は車のミラーごしに智恵子を確認して去っていく。このシーンで、智恵子が一方的に猛に好意を抱いている事を、カメラは暗示する。

 一周忌の後、働いている稔と智恵子の仲の良い様子を見て、猛は兄が智恵子に好意を抱いている事を見抜く。だが女たらしの猛は、智恵子を家に送る際、彼女を誘惑し、性的関係を持ってしまう。


 その翌日、稔は猛と智恵子を誘い、風光明媚な渓谷へ出掛ける。暗いトンネルを抜け、渓谷という異界へ、3人の乗った車はたどり着く。

 澄んだ川で子供のようにはしゃぐ稔とは対照的に、昨日の情事のせいでぎくしゃくする猛と智恵子。智恵子は故郷の生活に行き詰まりを感じており、猛を追って東京に出ていきたい気持ちを、暗に漏らす。そんな深刻な雰囲気に気まずさを覚えた猛は、稔と智恵子を置いて、つり橋を渡り、一人で渓谷の奥へと写真を撮影しに行く。


 すると智恵子は稔を無視して、猛を追い、つり橋を渡ろうとする。そんな智恵子を稔はつり橋の上で引き留めようと追ってくる。稔と智恵子の感情のぶつかりを、手持カメラは激しくぶれながら追う。

 このシーンにおける「つり橋」は、非常に象徴的だ。

 智恵子にとって、つり橋のあちら側へ行くという行為は、猛という好きな人の元へ行くということのみならず、猛が住む東京へ出ていく決意を意味する。そしてそんな智恵子を追ってくる稔は、自由のない、故郷の行き詰まった生活の象徴そのものだ。

 智恵子は稔と故郷の暗い日々から逃れようと、稔の腕を振りほどこうとする。そして一方で、智恵子のこの拒絶は、稔にとっては、稼業を継ぎ、地味に生活する自分の人生を否定されること、そのものであった。


 つり橋の二人の様子を一瞥しながら、写真を撮る猛は、不穏なものを感じとるが、戻らない。だが気になり、もう一度つり橋を見る。するとつり橋には智恵子の姿は無く、橋の板の上で呆然としゃがみこむ稔の姿だけがあった。智恵子はつり橋から転落したのだと悟り、慌てて猛はつり橋へと戻る。

 茫然自失の稔を見て、事件の予感を感じながらも、猛は智恵子が勝手につり橋から落ちたと思い込み、警察に連絡する。

 警察から事情聴取を受け、事故扱いで処理されるようになり、猛は胸を撫で下ろす。しかし、罪悪感に堪えきれなくなったのか、稔は勝手に警察に自首をし、逮捕される。

 そして、智恵子の殺人容疑をめぐり、稔は法廷で追及される。あの時、一体つり橋では何があったのか……法廷を通して、猛は自らも知らなかった兄の心の闇を覗くことになる。


 物語の後半は、裁判のシーンを中心に描かれる。裁判の序盤は、被告人であるにも関わらず、カメラのピントは稔に合わずにぼやけ、背景の弁護士や検察官、傍聴席をはっきり映す。それにより、何を考えているのか分からない稔の心を、画面は暗示する。

 しかし、裁判が進み、稔が猛に黙っていた事実が判明し、稔の心の歪みが明らかになっていくにつれ、カメラのピントははっきりと稔の表情を捉えだす。 


 都会に出た猛は、稼業を継ぎ、親の面倒を見、長男としての役割を果たしている兄の稔に、常に負い目を感じていた。稔の立場は、現代に残った家父長制の犠牲の典型のようにも見える。

 しかし猛は同時に、自分は稔のようにならなくて済んだという事に、どこか安堵を覚えている。


 裁判にかけられた兄を守ろうとして猛は奔走するが、ある時、そんな彼に稔は「俺を守るふりをして自分を守ってきただけだ」と、猛の欺瞞を暴く。

 そして、兄弟の間に脆くも掛かっていたつり橋は崩落し、決定的な断絶が、二人の間に生まれるのだ……。


 物語の終盤、あることをきっかけに猛は子供時代の稔との記憶を甦らせる。

 そして自分が、兄の言葉の通り、本当に兄を信じていなかったこと、なぜ兄を信じて別の可能性を考えられなかったのかと、激しい後悔を抱く。


 弟と兄、二人の間に、再び橋は掛かるのだろうか……。ラストで、渡れない大きな断絶を挟んで、猛と稔は視線を通わせる。

 そこに希望を見いだすか否かは、私たち観客に委ねられている。