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日々の泡

ついったでは書ききれない感想など

【映画】『3月のライオン 後編』感想

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◼評価
 ★★★★☆(4.3/5.0)

◼感想
 「暗いトンネルを抜けた光の先に」

(前編の感想についてはこちらをご覧下さい→http://mayringooo.hatenablog.com/entry/2017/04/04/200214

 後編を観終えた時、この『三月のライオン』という映画が何を描いたのかを、ずっと頭の中で考えていた。そして、自分なりの解釈ができた。
 この作品は、幼き日に家族を失うという絶望的な孤独に墜ちた主人公・桐山零が、将棋の才能という一本の手綱を頼りに、人生の暗く長いトンネルを歩いていく物語であり、そしてそこから光さす出口へと辿り着く過程を描いた物語なのだ。

 前編は主人公である少年棋士、桐山零(神木隆之介)の幼き日の将棋との出会いから、現在の彼の天才であるが故の深い孤独感。川本姉妹との出会いから零が救われていく過程、そして、島田(佐々木蔵之介)や後藤(伊藤英明)ら先輩棋士達の、緊迫した勝負の緊張感を丁寧に描いていた。
 対してこの後編では、将棋の勝負の世界から、零と川本姉妹を中心とした人間ドラマへと、テーマの比重が移っていく。 

 初めての出会いから一年後、義理の両親の家を飛び出し孤独に追い込まれていた零に、暖かな家族の温もりを与えた川本姉妹は、もはや零にとっては家族同然の、かけがえのない存在になっていた。
 そんな川本姉妹に、次女ひなた(清原果耶)のいじめ問題と、かつて家族を捨てたにも関わらず、突然舞い戻ってきた川本姉妹の父・甘麻井戸誠二郎(伊勢谷友介)という、二つの試練が襲う。
 この二つの問題を通して、零は彼女たちを守りたいが為に、彼なりに奔走する。それは、彼がかつて失った二つの家族――死んだ実の家族と、飛び出して来た義理の家族――への後悔から、今度こそ自分の大切な存在、やっと見つけた彼の居場所を必死に失いたくないからなのだろうか……。そんな風に思え、画面を見ていて、胸が苦しくなった。
 高校生でありながらも、将棋の世界でプロとして生きている零には、今度こそ川本姉妹の力になれるという自負があった。それが彼の将棋生活をも後押しし、彼は獅子王戦トーナメント準決勝まで勝ち進む。だが、映画の中盤、彼の自信は脆くも崩れることとなる。そして、自分があくまでも川本姉妹と赤の他人であること、将棋の世界ではプロであっても、所詮はまだ大人ではなく、一人の高校生の身分でしかないことを思い知ることになる。この失望が、物語のなかで零にとって大きな障壁となり、彼を苦しめることになる――……。

 一方で、零の周辺の人々にも、それぞれ葛藤がある。雲の上の存在のように思えた宗谷名人(加瀬亮)は、何年もタイトル戦に出ずっぱりで、心労のために難聴に陥っている。獅子王戦トーナメント決勝で零と戦う後藤(伊藤英明)は、意識の戻らない病床の妻を抱えながら、勝負の世界に生きている。そんな後藤と不倫関係を続ける香子(有村架純)は、プロ棋士の夢を絶たれた後、自分の生き方を見つけられずに、悪意を零にぶつける。
 誰もが何かを背負い、弱さを持って、もがき苦しみながら生きている……。この映画は、そんな人々の姿を真摯に映しとる。

 前編では、若くして将棋しかない人生に孤独と行き詰まりを感じていた零が、川本姉妹ら他者との交流を通じて、棋士として成長していく姿を描いた。だがこの後編では、前編とは逆の構図が描かれる。
 大事な存在を守ることのできない無力さに打ちひしがれた零にとって、残されたものは結局将棋しかなく。絶望を内に抱えながらも、零は獅子王戦決勝トーナメントで、持っている全ての力を盤面にぶつけ、葛藤する。ヒリヒリ灼けるような緊張の一戦のなか、正面から将棋に向き合った時、零は壁を打ち破る。そして、自分にとって最も失いたくものを、もう二度と離さないという決意を持つようになるのだ……。

 暗く長いトンネルから抜け出た光の先には、更に長い道が続いている。そして、それはまだ始まったばかりだ。天才棋士・桐山零は、その道をどう進んで行くのだろうか……。映画のラストは、そんな人生の始まりを感じさせる、希望に満ちた終わり方であったように思う。

【映画】『美女と野獣』感想

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◼評価
 ★★★★☆(3.9/5.0)

◼感想
 「魔法が魅せる映像的カタルシス

 むかし私は(一昔前の)ディズニープリンセスものが苦手な女の子だったので、今回の実写版も観に行くべきか二の足を踏んでいた。けれど先日雑誌ELLEに掲載されたエマ・ワトソンのインタビューを読んで、聡明なエマが選んだ仕事であるということ、彼女が語った主人公ベル像が魅力的に思えたことから、初日に劇場に足を運ぶこととなった。

 (誰もが知っているでしょうが念のため)あらすじについて。フランスの片田舎に住むベルは、その美しさにも関わらず、本が好きな変り者として、その知性ゆえに町では浮いた存在だった。ハンサムなガストンから何度求婚を受けても、彼女は興味すら湧かない。ある日、仕事から帰って来ない老いた父の身を案じて、ベルは馬に乗り、森へと捜索に出かける。そこで奇妙な凍てついた城へとたどり着き、城に住む野獣姿の王子と、魔法で物に変えられてしまった家来たちと出会う。野獣は、紅い薔薇が散ってしまう前に、誰かを愛し、愛されねば、永遠に野獣姿のままという呪いにかかっていた……。

 観初めてまず、圧倒的な映像美と美術に惹き付けられた。Be our guestでは、豪華俳優陣の歌声に乗って次々に繰り出される、目まぐるしい魔法の数々に見とれた。また有名なBeauty and the beastでは、踊るベルと野獣は美しいオルゴール人形のようで、いつまでも観ていたい程の陶酔感が胸を襲った。ゴシック調の城の中で繰り広げられる、きらびやかな魔法と音楽の融合、その圧倒的な説得力と美しさ……。
 この映画におけるCG技術は、まさしく映像における「魔法」として機能している。魔女の呪いによって物に変えられてしまった家来たちのおかしさや、氷に閉ざされた城など……CGによって完成された魅力的な舞台とキャラクターが、実際に生きているかのように、ベルや野獣に違和感無く溶け込んでいる。
 そしてラストの呪いが溶ける瞬間に、最もすばらしい映像的カタルシスがやって来るのだ……。

 また、期待通りエマ・ワトソンのベルは素晴らしかった。エマは一見「いかにも愛らしいディズニープリンセス」という容姿ではないかもしれない。だが、その知性ゆえに周囲から変り者扱いされるも、自由に生きたいと願う、勇敢なベルのヒロイン像には、聡明で品のあるエマ・ワトソンがはまっていたように思う。

【映画】『うつせみ』感想(2004年キム・ギドク監督)

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 観終えた時、なんとも言えない浮遊感にとらわれ、しばらく抜け出すことが出来なかった。
 これはまるで、荘子の「胡蝶の夢」ような世界だ。 私が蝶になった夢を見ていたのか、蝶が私になった夢を見ているのか……。現実と夢の間をさ迷う、不思議な陶酔感が、この映画にはあるのだ。

 主人公の青年テソクは、留守宅に侵入し、住人が戻るまでその家で暮らすという、変わった行為を日々しながら生きている。ある日いつものように、閑静な住宅街の大きな一軒家に忍び込む。そこで過ごしている所を、住人の主婦ソナに見つかるが、彼女は騒いだり警察に届けたりすること無く、テソクが家で過ごす様を一部始終見守る。
 顔に殴られた傷を負ったソナを見て、テソクは彼女がおそらく夫から暴力を受けていること、そしてそれにより深い絶望を抱えていることを見抜く。次第に、二人は奇妙な心の交流を交わすようになる。
 だが、出張中だったソナの夫が家に戻り、家に上がり込んでいるテソクを通報しようとする。しかし、ソナに暴力をふるう夫に怒りを感じたテソクは、ゴルフボールで夫に傷を負わせ、バイクでソナと一緒に逃亡する。
 そして、孤独なテソクと行き場の無いソナは、今度は二人で留守宅を渡り歩く生活を始める……。

 テソクとソナ、二人の主役の間には全く交わされる言葉が無い(テソクに至っては映画中に一言も台詞が無い)という異様さ。 しかし台詞の代わりに、二人の間に情が芽生えていく過程を、二人の表情や仕草、目線や距離感などを繊細にカメラが捉え、雄弁に観客に語る。
 孤独な男女の魂が結び付き、愛が生まれる様子は、いびつなのに美しく、切ない。

 逃避行は長く続かず、二人はやがて引き裂かれる……。しかし、ソナの前に、テソクは不思議な形で再び姿を現すことになるのだが、その登場の仕方がこれまた奇妙。観ている者は、それが現実なのか夢なのか分からず混乱する。後半のテソクの存在は、実体があるのかないのか、まるで掴めない陽炎のよう。

 全体を通して、青みを帯びた画面の色合いが実に印象的。観賞後は、幽玄の世界をさ迷ってきたかのような、不思議な空気感が身体に残っていた。

【映画】『ブエノスアイレス』(1997年)感想

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■評価
 ★★★☆☆(3.7/5.0点)

■感想
 「地球の裏側で繰り返される男達の愛と憎しみ」

 映画にはそれぞれ、その人にとって観るべき時があるようで、そのような時分に幸運にも巡り合い、観た映画は一生の宝物になる。だが、そうでない時に観た映画は、どんな名作であっても心の琴線に触れずに、忘れ去ってしまったりする。

 十年以上も前に観た『ブエノスアイレス』は、記憶が非常に曖昧だった。それはきっと、まだ子供だった当時の私にとっては、期が熟していなかったせいだろうと思う。

 しかし、本年度アカデミー賞作品賞を受賞した『ムーンライト』のバリー・ジェンキンス監督が多大な影響を受け、『ムーンライト』でもオマージュを捧げている事を知ったのをきっかけに、ウォン・カーウァイ監督の『ブエノスアイレス』が再び気になり、鑑賞するに至った。


 関係をやり直す為に、アルゼンチンのイグアスの滝へとボロ車で旅に出た、恋人同士のファイ(トニー・レオン)とウィン(レスリー・チャン)。だが行く途中で道に迷ったせいで喧嘩となり、二人は別れてしまう。

 旅費が尽き、香港に帰れなくなったファイは、タンゴのバーでドアマンの仕事を見つけるが、その店に愛人の男と一緒のウィンが偶然現れる。嫉妬に駆られるファイを横目に、何事も無かったかのように、姿を現しては消えるウィン。

 だがある日、愛人に殴られて両手が使えなくなったウィンが、ファイのアパートへ逃げ込んでくる。そして「やり直そう」とファイに言う。何度も裏切られているファイは、ウィンと体の関係を拒むが、自分のアパートで甲斐甲斐しく傷ついたウィンの世話をしてやる。本心では、蝶のようにフラフラしているウィンが、傷ついて自分の元から離れられないのが、ファイ嬉しくて仕方がない。

 だんだんウィンが回復してくると、ファイの居らぬ間に勝手にウィンが出歩くようになる。自分からまた離れて行くのではないかと怖れたファイは、ウィンのパスポートを隠してしまう……。

 そして、そんな不安定なファイの心情を、職場の同僚のチャン(チャン・チェン)は見抜き、ファイと親しくなっていく。


 と、上記にあらすじを書いたが、脚本が殆ど無く、即興的に撮られたこの映画には、大きな物語がない。

 カメラは、ファイとウィンの二人の感情のぶつかり合いと、すれ違いをひたすら追う。台詞は少なく、その代わりに、クリストファー・ドイルの鮮やかで影の濃いドラマティックな影像と、アストル・ピアソラの情緒的なメロディが、雄弁に二人の心情を語ってくれる。


 これまで、ファイはウィンから「やり直そう」と言う言葉をかけられ、何度も関係の修復を試みて、そして失敗してきた。だからファイはウィンに「やり直そう」と言われることを、どこか期待しながらも、激しく怖れている。

 それは、「うん」と言いたくないのに、ファイはウィンを結局拒めず、受け入れてしまうから。自分の中のウィンへの執着を、思い出すことになるから。そして、再び付合い出しても、二人の間に決定的な断絶があることを、思い知ることになるからだ。

 帰る場所があり、前へ進もうとするファイと、(おそらく)帰る場所が無く刹那的に生きるウィンは、噛み合わない。求めあっても、求めあうが故に、互いを傷付けてしまう。


 求めあうが故に泥沼にはまっていく二人の関係は、男同士の関係に限らず、普遍的な愛のテーマのように思える。

 だが、この映画は男同士の関係でなければ描けない、愛の葛藤がある。ウォン・カーウァイ監督が(トニー・レオンを騙してまで)、ゲイカップルにこだわったのは、まさにそこにある。

 たとえば、ファイとウィンがぎこちなく踊る男同士のタンゴや、タクシーの後部座席でウィンがファイの肩にもたれかけるシーンなどは、まさにその例だろう。(そしてこれらのシーンは『ムーンライト』でオマージュされている) 女と男が普通にタンゴを踊っても、あれほどの哀愁やぎこちなさを描くことは難しい。男同士でなければ完成しない画が、この映画には多いのだ。

 ファイは傷つきやすく繊細な面があるのに、ウィンの前では弱さを見せず常に男の虚勢を張り続ける。


 地球の真裏で繰り返される、愛と憎しみ。遠く離れた異国の地でなければ描けなかった、交錯する男同士の人生の一部分を、この映画を通して垣間見れた気がする。

【映画】『T2 トレインスポッティング』感想

◼評価
 ★★★★☆(3.9/5.0)

◼感想
「クズ男達のミドルエイジクライシス」

 ヘロインまみれの20代を描いた前作から20年。月日は流れ、再びマーク・レントンエディンバラへと戻ってくる。
 映画冒頭は前作と同じく、人が走る姿から始まる。思わず甦るあの疾走感。ただ前作と違うのは、走っているのがマークではなく見知らぬ中年男性で、車にはねられた挙げ句追われて捕まるのではなく、ウォーキングマシーンで勝手に転倒して意識を失ってしまうこと。ここで観客である私は、示唆的なものを感じとる。ああそうだ、マークはもう全力疾走して逃げ切れるトシじゃないんだよな、と。

 20年以来のエディンバラの悪友達は、一見(残念なほど)変わっていない。ベグビーは勝手に刑務所を脱走、スパッドは家族を一時得たもののヘロイン中毒に舞い戻り、シックボーイことサイモンは女を使って恐喝。前作で金を持ち逃げして、悪友達と縁を切った主人公マークすら、外国に逃亡するものの結局離婚し、何者にもなれないまま故郷へ帰ってくる。
 だが 彼らの中身が変わらずとも、20年の歳月は流れて、確実に身体は老いてしまった。再会したマークとサイモンは過去の話題に花を咲かせるが、ブルガリアから出稼ぎに来ている若いベロニカは、そんな二人を見て、彼らがまだ過去にすがって生きているのを見抜く。

 ある時ベロニカに尋ねられ、マークは"Choose Life"の意味を語る。この80年代の麻薬撲滅キャンペーンのスローガンの裏で、 マークの頭の中では、これまでの過去がフラッシュバックする。選べると思っていた若き日の事と、結局何からも抜け出せなかった現在、選べなかった過去の選択肢たち、そして手持ちのカードも尽きつつある今ーー……。
 マークがベロニカに語る"Choose Life"は若い彼女にエールを送るようで、自分の半生を振り返った後悔の言葉のようにも聞こえた。

 作中最もクレイジーな人物であるベグビーにも、過去の哀愁はある。若い頃友達と廃駅に忍び込んだ時に、話し掛けてきたアルコール中毒のオヤジを見て、ベグビーだけは笑えなかったというエピソード。そのオヤジはベグビー達を見て、「お前らは鉄道オタク(Trainspotting麻薬中毒者)か?」と訊ねる。実はそのオヤジはベグビーの父親だった。アルコール中毒者の父親が息子にヤク中かと訊ねるという、皮肉な構図。
 だがベグビーの息子は父親に似ず、大学に入り、人並みの人生を送ろうとしている。そんな息子を見て、怒りながらもベグビーは「自分の頃は選択肢がなかった」と振り返る。
 "Choose Life" だが誰もが人生で多くの選択肢を与えられている訳ではない。ベグビーも人生を選べなかった一人だった。

 "Choose Life" 20年前はまだ誰もが人生を選べると思っていた。だが、これが選べた筈の未来だったのか?マークら四人の姿には、老いの哀しさを感じざるを得ない。そしてそれに気づいても、選んできた道は引き返せない。

 ……と、これだけのストーリーであればただのダメダメ中年の話になるのに、何故だか彼らは未だカッコいいのが、最高にズルい。
 次から次へとかかるスタイリッシュすぎる音楽の洪水、動きのあるカメラワーク、散りばめられたユーモアが、悲惨なオジサン達の日々をカッコよく盛り上げちゃうのが、またズルい。頭の薄いダメなオジサンなのに、それでもマーク達はなんかカッコよいから、ズルい。

 最初にチャンスがあり、次に裏切りがあった。
 終わり方は前作と同じ構図だが、裏切る側と裏切られる側は変わっている。そして今回も、裏切りは希望の象徴に思えた。

 前作よりも更に各キャラクターの内面を深く描いた今作は、続編でありながらも、マーク達の原点を辿る物語になっていたように思う。

【映画】『はじまりへの旅』感想

◼評価
 ★★★☆☆(3.9/5.0)

◼感想
 「家族もの感動ロードムービーかと思いきや、観る人の良識を問う問題作」

 家族ものの感動ロードムービーかと思いきや、この映画は、観客である私達が普段信じていた価値観に対し、絶えず疑問を突きつけてくる社会的な問題作だった。
 常識とは何か?社会とは何か?幸せとは何か?教育とは何か……そんないくつもの疑問を、観客に投げ掛けてくる映画なのだ。
 当初私は、変わった家族の面白映画かと思い、鑑賞に臨んだ。だが、見事に予想を裏切られ、観た後はこの世界の見方が変わってしまったような、衝撃を受けることになった。

 序盤は、厳格な父親ベン(ヴィゴ・モーテンセン)と6人の子供達の、世間から隔絶された森の中での生活を描く。ナイフで鹿等の獣を狩ったり、自給自足の生活や、山の中を駆け抜ける等の訓練、そして読書を通して、父親は子供達に立派な教養と強靭な肉体を与える。その教育方法は独特だが見事で、学校に行かずとも、長男は名だたる有名大学全てに合格するほど。社会とは切り離され、一見奇怪な暮らしを営む一家だが、その生活は満たされているように見える。
 しかし、入院中の母が自殺したという知らせを受けたことから、家族は森を出て、母の遺言を果たすため、バスで遠く離れたニューメキシコへと旅立つことになる。

 中盤は、これまで森に籠って生活していた家族が、初めて大都会や普通の人々に触れ、彼らの暮らしぶりを知ることで、子供達(特に長男や次男)が違和感を覚える様子を描く。そして、それまで家族に感情移入をしていた観客である私も、彼らと同時に、世間の常識のおかしさに疑問を持つようになった。
 普通の人々からすれば、学校にも行かせず森の中で子供を育てたり、クリスマスではなくノーム・チョムスキーの誕生日を祝う家族は、カルトに見えるのも仕方ない。だがベンら家族の視点からすれば、一人で獲物も狩れず、本を読まずにゲームばかりする子供達の方が、生きる力の無い、か弱い人間達に見えてくるという不思議さ。
 この辺りで、私は正直自分の常識や、信じていた価値観というものを疑わざるを得なくなったのだが、それはベンら家族も(逆の意味で)同じだったようだ。

 後半、母の葬儀の乱入後に、旅を通して世間の常識に晒された家族は、あることをきっかけにバラバラになってしまう。
 そして、それまで強い信念で父親をやっていたベンは、これまで子供達に行ってきた教育が、実は自分の価値観を刷り込んでいただけの、ただのエゴだったのではないか、と迷いを持つようになる……。

 色んな家族の形がある、と時に人は言う。けれど、果たして社会は、世間の常識は、私達は、この映画の家族のような人々を、果たして実際受け入れることが出来るのだろうか……?

 その意味で、この映画は単なる家族愛についての物語ではなく、観る人の価値観や良識を鋭く問いかけてくる、ある種の問題作のように思えた。

【映画】『リップヴァンウィンクルの花嫁』感想

■評価

 ★★★☆☆(3.7/5.0点)

■感想
 「不器用に現代を生きる女の子のおとぎ話」

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 この物語は、現在の日本社会を生きる、とある不器用な女の子のおとぎ話だった。

 前半は、主人公の結婚とその失敗、転落を描く。
 皆川七海(黒木華)は派遣教員をやっているが、仕事は安定せず、友達も少なく、人生停滞気味。そんな時、SNSで知り合った鉄也との結婚話が持ち上がり、上手くいかない仕事から逃れるかのように彼と結婚する。主人公の結婚式に出席できる親族が少ないことを鉄也から咎められ、七海は「なんでも屋」の安室(綾野剛)に結婚式の代理出席を依頼して式を挙げる。しかし、新婚早々に鉄也が浮気し、義母から逆に浮気の罪をかぶせられた七海は家を追い出されてしまう…。
 七海にとっての現実世界は過酷で、幸せを求めて進んだはずが、彼女はどんどん不幸の沼へと沈んでしまう……。
 手持ちカメラを使用した撮影は、常に不安定な彼女の立場を表すかのように、淡々と進んでいく日々を映しとる。特に結婚式のシーンは印象的。新婦というその場の主役であるはずの七海を映すカメラの位置は遠く、あくまでも彼女が主体性を持って式に出ているのではないことを示す。感動的な親への手紙のシーンですら、寧ろ他人事のような空虚さがつきまとう。
 そして、このように流されるままに結婚した彼女は、浮気の濡れ衣を被され、家を放り出されて、迷子になるのだ……。

 だが、そんな前半の現実世界とは一変し、後半はおとぎ話のように、きらきらと繊細で鮮やかな日々が描かれる。
 東京という大都会の森を彷徨っていた七海は、まるで魔法使いに別世界へ誘われるかのごとく、安室によって、月給100万円という好条件の住み込みのメイドの仕事を紹介される。夢のような大豪邸で、七海は変わったメイド仲間の真白(Cocco)と共に暮らすことになる。
 洋館での生活は、現実感が無く、白昼夢を見ているかのよう。大きなリビングに、緑の濃い庭、クラゲや蛸やサソリが飼われているペット部屋。
 二人は橙色の夕陽を背景に一緒に自転車で出かけたり、瑞々しい朝の空気の中で庭で水を撒いたりと、「メイドごっこ」生活を楽しむ。二人を捉えるカメラは、前半とは打って変わって鮮やかで、柔らかい。特にクラゲの水槽ごしに二人の姿をソフトフォーカスで捉えるシーンは、実に幻想的。
 そんな洋館での生活を送るうち、七海は真白と友情を深めていくが、ある事をきっかけに、一見破天荒な彼女が持つ危うさと、彼女の抱えている秘密を知ることになる。そして、この夢のような生活の裏に別の真実があったことが発覚する……。
 真白が七海にとってかけがえの無い存在となったある日、たまたま通り掛かったウェディングドレスの店で、真白と七海はウェディングドレスを買う。花嫁になった二人の女の子は、まるで本当の結婚式を挙げるかのごとく幸せな一日を過ごす。だが、その時、実はおとぎ話の終わりが近づいてきていた…。

 七海の不器用さとピュアさを体現した黒木華、どこまで素か演技か分からない危うさを演じたCoccoの、二人の演技が素晴らしいのは勿論のこと、安室役の綾野剛の得体の知れなさも凄かった。おとぎ話に出てくる魔法使いの如く、物語におけるトリックスターとしての役割をしっかり果たしていた。

 タイトルの基となった『リップ・ヴァン・ウィンクル』(Rip van Winkle)とは、1820年に発表されたワシントン・アーヴィングによる、アメリカ版「浦島太郎」的ストーリーの短編小説だという。
 その名の通り、この映画は、一人の女の子が竜宮城のごとき豪邸で夢の生活を送り、最後には現実へと戻ってくる話だった。
 だが、浦島太郎とは違い、最後に主人公の七海の元には、真白と送った日々の証拠が手元にきちんと残っていた。真白の存在は彼女の中で永遠となって、七海を前へと進ませようとする。映画のクライマックスは、いつもと同じ日常が戻って来たようで、だが七海のなかには確実に変わった何かがあることを示唆する。そんな希望に満ちた終わり方だった。

■余談。生まれついてオタクの私は、実は重度のサブカルオシャクソアレルギーを持っているため、公開時、岩井俊二監督作品というだけでこの作品を避けていた。その為観るまでに一年もかかってしまった。鑑賞中にじんましんが出たらどうしようととか、余計な心配しながら観たのだけど、結果として観れて良かった。鑑賞後、食わず嫌いは良くないなと思い、このレビュを認めたのでした。