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【映画】『ノクターナル・アニマルズ』感想(ネタバレ有)

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■評価
 ★★★★☆(4.4/5.0)

■感想
 「赤の時代」が始まる。冒頭、あまりにも鮮やかな真紅の空間の中、躍り狂う脂肪の塊に圧倒され、鑑賞者達たる私は、訳も分からぬまま、暴力的に作品の世界へと引き摺りこまれる。だが、オープニングが終わって気づく。これは、映画の中の出来事そのものではなく、主人公であるスーザンが主催する展覧会でのビデオ・インスタレーションの映像だったのだ、と。
 そしてまた、映画を観終えた時、私はこの冒頭の映像が、これから語られる物語の構造を暗示したものであったことを知る。映画というフィクションの額縁の中にある、もう一つの「額縁」。これが冒頭のビデオ・インスタレーションであり、同時にこの映画の構造そのものだったのだ……ということを。

 『ノクターナル・アニマルズ』は、主人公スーザンが映画の中の小説を読み進めることによって、スーザン自身の物語も同時的に進んでいく。つまり、映画という大きな物語の中に、更に小説という小さな物語が存在する。このような形式を持つ物語は、文学の世界ではミザナビームの構造を持つと認識される。
 ミザナビーム(入れ子構造)とは、小説における技法の一つである。フランス語で「深淵に入る(mise-en-abyme)」を意味するこの技法は、大きな物語の中で小さな物語を描くことを意味する。物語の中に更に額縁を持つ物語が入れられているという意味で、「額縁小説」や「枠物語」とも呼ばれている。例えば、映画の中のキャラクターが観ている映画や、小説の中の登場人物が読む小説や、劇中劇がそれである。
 小説の場合、ミザナビームを用いて作中の小説を語る場合、その架空性やフィクション性が強調される。つまり、小説の中のキャラクターが読む小説(小さな物語)は、あくまで小説世界の現実とは違うものであると読者は認識し、「小説中の小説」と読者は互いに距離を保ったまま、小説のストーリー(大きな物語)を進めていく事ができる。*1
 主人公スーザンは元夫の著作小説を鑑賞し、私たち観客は更にスーザンの思考を介して、その小説を鑑賞する。彼女が小説「夜の獣たち」を読むとき、この映画の観客は「額縁の中の額縁」を覗き込んでいるのである。

 上記の構造を意識しながら、ストーリーを振り返ってみる。

 主人公スーザン(エイミー・アダムス)は、アートギャラリーのオーナーとして成功し、夫と子供、富と権力に恵まれていた。しかし彼女の心には空虚さが巣食っており、全てを手にしたはずの自分がなぜ不幸せなのか、理由が分からず孤独感と焦燥感を募らせていた。
 そんな折、彼女のかつての夫エドワード(ジェイク・ギレンホール)から、ある小包が届く。それを開けようとして、スーザンは指を切り、痛みを感じる。しかし、それは彼女にとって更なる苦痛への序章に過ぎなかった。
 元夫から送られてきた小包は、彼が書いた小説で、やがて出版される予定のものだった。「夜の獣たち(ノクターナル・アニマルズ)」と題された本に添えられた夫からの手紙によれば、その小説はスーザンとの経験から着想を得て書かれたものであり、かつての彼の作風とは違うものだという。そして、真っ先にスーザンに読んで貰いたいがため、校正刷りのものを送ったのだ、と。
 タイトルの「夜の獣たち」が、かつて夫が不眠症の自分につけたあだ名であり、「スーザンへ捧ぐ」と冒頭に献辞があったことから、元夫の小説は自分についてのものだと思い、スーザンは眠れない夜、その小説を読み始める。
(以下、ネタバレ的要素を含みます)

 「夜の獣たち」の主人公トニー(ジェイク・ギレンホール、二役)はごく普通の中年男性で、妻ローラ、娘インディアらと幸せな家庭を築いていた。ある日、トニーは妻と娘を連れて、車でテキサスに旅行に出掛けるが、柄の悪いレイという若者ら三人に車をぶつけられ、言い掛かりをつけられる。真夜中の道中で口論になり、隙を突かれたトニーは、家族達と分断され、妻と娘二人を若者達の車に拐われ、自身も見ず知らずの荒野の中に棄てられる。
 翌日やっとのことでトニーは警察に届け出をし、妻と娘の安否を願うが、二人は廃棄された赤いソファの上で、身を寄せ合うかのような体勢で、死体となって発見される。
 突然の悲劇に、何が起きたか分からないまま、トニーは茫然自失で過ごす。暫く経った頃、別の事件の容疑から、妻と娘を殺した犯人達が判明する。三人のうちの一人であるタークは別件で死亡し、もう一人のルーは物証から殺人の容疑で捕まえる事ができたが、最後の若者の一人レイだけは、証拠不十分の為釈放されてしまう。
 トニーは余命少ない刑事ボビーと協力し、自らの手で裁きを下そうと、レイとルーを勝手に署から人気のない小屋へ連れ出すが、二人に逃亡を謀られる。ボビーは走り逃げるルーを撃ち殺すが、トニーの心に湧いたのは、復讐の喜びではなかった。
「I should have stopped it!!(あの時止めるべきだった!)」
と何度も泣き叫びながら、トニーは妻と娘が拐われた夜に、なぜ自分は若者達に立ち向かっていかなかったのか、と自分を弱さを責め、後悔する。そしてその時、自分が望んでいたのは復讐ではなく、失った妻と娘を取り戻したかった気付くが、回りだした歯車を止めることはもうできなかった。
 トニーは逃げたレイを彼の隠れ家に追い詰め、銃を突き付ける。復讐を望んでいないことを分かっていたトニーには、ためらいがあった。だが、レイがどのように妻と娘をレイプし殺したのか語り、さらに自身の男としての弱さを侮辱され、トニーは銃でレイを撃ち殺し、そこを後にする。
 彷徨いながら大きな虚無感に襲われ、踞るトニーは、誤って銃で自分の身体を撃つ。そして壮大な荒野の中に放り出されたまま、小説は幕を閉じる。
  以上が、大体のあらすじである。

 映画中小説の「夜の獣たち」を読む進めていくうち、スーザンが大きく衝撃を受ける箇所が、前半と後半に一つずつ存在する。

 一つ目は、トニーが若者達三人に妻と娘を拐われ、翌朝死体になって二人が発見される所である。
 小説を読み始めた当初、スーザンは主人公のトニーが元夫エドワードの分身だと思い、その妻ローラが自分を表していると想定して、ストーリーを追っていく。何故ならば、かつてスーザンと結婚していた頃のエドワードが書いた小説は、あからさまに自分を投影した物語であり、それについて彼女は彼に批判的感想を述べた事があるからだ。その為、スーザンは「夜の獣たち」の主人公トニーと妻ローラは、二十年前にもし自分達が離婚していなかったらあり得たかもしれない二人の関係であると考える。また、その娘インディアは、もしスーザンがエドワードとの子を堕胎していなかったら、産まれていたかもしれない存在として、スーザンは想像を巡らせる。そして映画の鑑賞者である私自身も、エドワードとトニーを演じるのが同じジェイク・ギレンホールであることによって、スーザンと同じようにトニーの家族の存在を当てはめて、小説世界を体験し始める。
 妻ローラが自分の分身と考え、小説を読んでいたスーザンは、トニーが妻と娘を奪われ、殺される粗筋に衝撃を受ける。そしてこれはエドワードがスーザンからかつて受けた仕打ちを暗に喩えているのだ、と捉える。スーザンは、小説によってエドワードがかつて、いかに残酷に彼女に傷つけられたか、そしてどれほど大きな喪失感を味わったかを、自分に伝え、糾弾しようとしているのではないかと、疑念を抱くようになる。もしそうであれば、エドワードは今も強く自分を恨んでいるのではないかと不安に陥り、出張中の現夫や、娘のもとへ電話をかける。
 小説が後半に入り、犯人探しへ話の方向が向いていくにつれ、スーザンは更に動揺を募らせる。夜通し小説を読み続け、仕事中に部下に不調を見抜かれるほど憔悴を募らせていた彼女は、会議前にあるアート作品の前で立ち止まる。力強く書かれたアート作品の「REVENGE(復讐)」の文字に、彼女は驚くが、それは八年前彼女自身が買い付けた作品だと、部下に指摘される。いつも気に留めていなかったその作品に気付いた事で、スーザンは小説の世界の中で、エドワードが自分に復讐を果たそうとしているのではないかと確信を強める。思わぬ形で向けられた自分への悪意に、エドワードを冷酷に捨てた事に対する罪悪感を覚えた彼女は、仕事の会議中に以前と矛盾する発言をしてしまう。
 小説の世界が、現実のスーザンの生活を侵食し始めていた。
 アートギャラリーのオーナーである彼女の周囲のあちこちに置かれた数多のアートと同様に、エドワードの小説もフィクションという「額縁」の中でしか存在しない虚構のはずだった。だが、その「額縁」はいまや消滅しつつあるかのように、スーザンの現実と小説の世界の境界は曖昧になっていた。
 そして同時に、額縁の絵の中の額縁に入った絵だと信じ込み、安全な場所からエドワードの小説を体験していた映画の鑑賞者たる私も、額縁を飛び出しつつある小説世界の接近に、スーザンと似た不安感を味わうことになる。

 スーザンが小説を読んで最も衝撃を受けたもう一つの箇所は、トニーが自分の妻子の仇であるレイを撃ち、復讐を果たすも、虚無感に打ちひしがれ、荒野で倒れるラストの箇所だ。
 殺した相手を葬っても、奪われたものは戻って来ない。過去は取り戻せない……。残酷なトニーの痛みは、自ら誤って放った銃弾となって、彼のはらわたを突き抜ける。そしてそれは小説の読者たるスーザンをも貫通し、さらにその背後に立つ映画の鑑賞者である私の心にまで深く食い込む。絵の中の額縁の中から放たれた一発の銃弾が、その額縁を覗く絵の人物を貫通し、絵を覗いている現実の鑑賞者へ届く。
 この時、当初存在したはずの二つの額縁は消え失せる。スクリーンの前の鑑賞者、映画の世界、そして映画の中の小説世界――三つの世界は、身体に銃弾が食い込む生々しい「痛み」を通して、一列に重なるのだ。

 だが、トニー、スーザンと同じ痛みを共有したことで、私は当初思っていた前提が間違いだと気づく。
 スーザンが「夜の獣たち」を読み始めた当初、彼女と鑑賞者はトニーが元夫エドワードの分身であり、彼の妻ローラが自分を表していると思っていた。なぜスーザンがそう思ったかは、かつてエドワードの書いていた小説はあからさまに自分を投影した私小説だったのを覚えていたこと、そして小説に添えられた文章から、かつての自分達の関係について描かれているものと受け取ったからだ。また鑑賞者である私も、同じ俳優が二役を演じているという理由からトニーがエドワードだと思い込んでいた。
 しかし「夜の獣たち」のラストでスーザンが味わった痛みは、妻ローラではなくトニーが受けた痛みである。スーザンの感情移入の相手が、最終的にトニーに変わっていることから、私は自分がミスリードを犯していたことを悟る。
 つまり、小説の主人公トニーは、元夫のエドワードだけではなく、同時にスーザンの分身でもあったのだ。であれば、それまで鑑賞者が体験した「夜の獣たち」の映像も、小説の文章に忠実かつ客観的に作り上げられたものではなく、スーザンが小説の文章を読み、彼女の頭の中に浮かぶ光景を見ていたものということになる。鑑賞者は、直に小説世界を体験していたのではなく、小説を読んでいたスーザンが主観的に作り上げられた世界を見ていた。いわば、スーザンは「信用できない語り手(unreliable narrator)*2」だった、というわけである。
 このカラクリに気づくと、映画の中に散りばめられていたヒントにも目が行く。特に、最も分かりやすいのは画面の中の「赤」の使い方である。
 映画の冒頭から、スーザンの身の回りには特徴的に赤色の物が配置されていた。例えば、オープニングのビデオインスタレーションの背景、彼女のオフィスの壁の色、自宅で本を読みながら座っていたソファ、回想の中でエドワードと住んだ家にあったソファなどが、それである。緊張感や攻撃性、強い主張を持つ色である「赤」は、成功者としてのスーザンと、彼女が暮らす物質的世界を象徴するような色だ。
 そしてこの色は「夜の獣たち」の小説の中にも登場する。最も印象的なのは、トニーの妻ローラと娘が殺され、彼女らの死体が乗せられていたソファの色だ。そもそも、赤のモダンなベルベットのソファは、テキサスの田舎の荒野に置き捨てられている家具としては、あまりにも浮いていた。だが、妻ローラの死体が遺棄される場所としては相応しい。何故なら、当初スーザンはローラを自分の分身だと思っており、赤はスーザンを象徴する色だったからだ。
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 以上のように「夜の獣たち」の主人公トニーが、作者である元夫エドワードであると同時に、スーザンの分身として描かれていたとすれば、なぜエドワードがスーザンにこの小説を送ったのかという理由が、単なる復讐とは考えにくくなる。
 小説で描かれていたのは、単なる復讐劇ではない。結末を迎えた時、最終的に読者たるスーザンの胸に伝わったのは、トニーの「大切なものを奪われた喪失感」であり、「失ったものは戻ってこないという絶望的な後悔」という二つの感情だったのではないか。それこそが、エドワードが彼女に伝えたい想いだったのなら、復讐相手に贈るものとしては、いささかセンチメンタルすぎるだろう。

 前者の感情は、エドワードにとっては明らかにスーザンとの離婚から生まれたものだ。だが、彼と同じ喪失感を小説を介して味わった時、スーザンは自分も彼との別れによって、失ったものがあったことに気づいただろうか。
 かつてエドワードと結婚していた頃、スーザンは芸術家になることを諦め、別の道を歩もうとしていた。彼女はその理由を「自分には芸術を生むための衝動がないため」だと言っていたが、それに対してエドワードは「衝動がないのではなく、自分で抑えこんでいるからだ」と反論する。表現者の道から逃げたスーザンにとって、己の中の感受性は邪魔なものでしかなかったが、創作活動を続ける夫は、自分の感性や繊細さを決して捨てようとはしなかった。そんな彼に苛立ちを覚えた彼女は、エドワードの表現者らしい感性を「弱さ」と捉えるようになり、二人の間に距離ができていく。そして偶然出会った現在の夫に乗り替え、それを目撃した彼と最悪な形で別れを迎える。
 この時、彼女は同時に、エドワードが指摘した自分の中の「芸術家らしい衝動」、つまり繊細な感受性を切り捨ててしまう。そこから、現在のアートディーラーとしての地位に繋がる道へ進み始めるのだ。

 もう一つの「失ったものは戻ってこないという絶望的な後悔」は、彼女と別れてから、エドワードが胸に抱き続けていた想いを投影して、小説の中で生まれたものだろう。
 しかし、上述の通り、離婚によって何かを失ったのは、実は彼だけではない。あの時スーザンもまた、自分の中に本当は存在した「衝動」を完全に切り捨ててしまったのだ。
 現在のスーザンは、仕事の成功も家族も手にしており、他人から見れば全てを手にした女性である。しかし、最初に述べた通り、彼女の心には常に虚しさがあり、自分でもそれが何なのか分からずに苦しんでいる。
 「夜の獣たち」のトニーは、レイ達若者に強く抵抗できず、なすがままになっているうちに、大事な家族を奪われ、殺される。そして自分が何を望んでるかも分からずに、復讐を行うが、結局それで心が満たされる事はなかった。
 トニーがスーザンの分身でもあると分かった今であれば、これはスーザンの人生を暗示していると思い至る。保守的な母の下で育ったスーザンは、志した芸術家の道を諦め、また、一度は母に逆らいエドワードと結婚するが、結局は親から受け継いだ価値観から逃れられず、離婚してしまう。そして自分の内面に向きあわないまま、分かりやすい形の成功を手に入れる。だがそれは、彼女が欲したからではなく、恵まれた環境の中で、流されるまま生きてきた結果と言える。そんな彼女が、虚無感に苛まれ続ける毎日を送っているのは当然だ。
 だが家族や友人、自分自身も彼女の虚しさの理由が分からなかった。しかし「夜の獣たち」を読み終えた時、彼女はエドワードが与えたヒントを理解しただろうか。スーザンの空虚さは、かつてエドワードと共に捨て去ってしまった、自分の一部に起因していることを。
 小説を読む前、彼女は自分がエドワードの別れによって、自分が何を失ったかも気づいていなかった。皮肉にもそれを知っていたのは、彼女に捨てられたエドワードだけだったのである。
 「夜の獣たち」のトニーを介して、スーザンは確かに喪失感と後悔を味わった筈だ。だが、それらの感情をヒントに、彼女は自分の人生に置いてきたものを、見つけられただろうか。
 映画は、そんな彼女の心の内を明確に描くことなく、ラストシーンへと向かう。

 ところで、最後にもう一つ、大きな謎が残っている。何の為に彼はこの小説を書き、彼女に送ったのだろうか。

 小説を読み終えたスーザンは、エドワードからの誘いを受け、再会の約束をする。
 「夜の獣たち」の読後、スーザンが小説の中に己の何を見出だしたのかは、明白には映像として描かれない。
 だが、エドワードとの待ち合わせに出掛ける前、彼女は黒いアイラインで目を囲った、いつもの強いメイクではなく、ナチュラルな化粧を顔に施す。そしてワードローブからは、いかにもゴージャスなドレスではなく、皺加工が施された、エフォートレスな緑のワンピースを選んで着ていく。そこには、洗練された強い女の姿はない。鏡に映ったのは、それまでの彼女とはどこか違う、新しい姿だ。
 この彼女の選択を、元夫への単なる「媚び」だと受けとるのは、あまりも単純だろう。監督は世界的なデザイナーであり、服飾デザインや近年は化粧品プロデュースを通して、洗練された女性像を世に発信し続けている人物だ。女性がいつもと違う何かを身に纏う時、その人の何がファッションとして表れるのかを、監督は熟知している筈である。
 であるならば、スーザンのこの見た目の変化は、内面の変化、あるいは変化を望む気持ちを投影していると見るべきだろう。スーザンの中では「夜の獣たち」を読んだことで、確実に何かが起ころうとしていた。
 
 スーザンが元夫との再会の場所に選んだのは、どこかオリエンタルな香りのする、シックなレストランだった。
 グラスを片手に、彼女はエドワードを待ち続けるが、約束の時間が過ぎても、向かいの席は空いたままだ。時計の針が進めど進めども、来るべき相手は来ない。白いクロスの掛かったテーブルを挟んで、右側に据わる彼女と、左側の空いた席。カメラは突き放すように引いたロングショットで、それらを左側真横から捉える。
 このショットを目にした時、私の脳内で、もう一つの画が重なった。それは、スーザンの昔の記憶の中のシーン。20年前の冬のニューヨークで、学生だった彼女が、偶然にも幼馴染みのエドワードと再会した時に、とりあえず入ったレストランのシーンである。あの時も、彼女は白いテーブルクロスのかかったテーブルに座り、その右側の席に座っていた。だが、それがラストのシーンと大きく違うのは、向かいの席にはエドワードがいたことだ。このレストランでの会話がきっかけで、スーザンはエドワードとの仲を深める事になり、後の結婚へと繋がることになる。いわば、二人の関係の始まりの瞬間だった。
  二十年前のこのシーンと、映画のラストシーンを対比すると、時を隔てて変わったもの――エドワードの不在――が、より強調され、浮かび上がる。
 スーザンは、完全な形で、エドワードを失ったのだ。二十年に再会した際のレストランでの出来事が、二人の関係の始まりだったのなら、彼の来ないテーブルで一人過ごすスーザンのラストシーンが、二人の関係の完全な終わりを示す。スーザンとエドワードの邂逅は、もはやこの先、決して訪れないだろう。

 この結末のシナリオを仕組んだのは、言うまでもなくエドワードだ。ならば、彼は、最初からスーザンにもう一度会うつもりなど無かったのではないか。
 彼は、スーザンから「エドワード」という存在を奪う為だけに、再会の場を設けようとした。確かに、この行為だけを見れば、奪われた側が今度は奪う立場になったという点で、エドワードの目的が復讐と思える。
 しかし、彼が「夜の獣たち」をスーザンに贈ったことで、彼女の内面には変化が起きつつある。それは、上述の通り、彼女が自分がエドワードと別れた際に「失ったもの」に気づいた、あるいは気づきつつあるせいだ。もし、そんな彼女の前に再び彼が現れたら、どうなるだろうか。彼女は、自分が失ったもの、自分の人生に欠けているものを自覚することなく、元の生活へ戻って行くだけではないのか。
 しかし、エドワードはスーザンの元に現れなかった。それにより、彼女の喪失感は完全なものになり、時が決して戻らないことを、身を以て知ることになる。まさしく「夜の獣たち」のトニーのように。
 エドワードが来なかった事で、スーザンは確かに心に痛みを負うだろうが、彼女のこれからの人生は大きく変わるはずだ。彼女は、二十年前にエドワードが指摘した、自分が抑え続けていた衝動……自分の人生に欠けていたピースが何だったかを、やがて発見するだろう。そして、今度こそそれを取り戻す勇気を持てるのなら、彼女は虚ろな人生から解放されるかもしれない。
 エドワードが約束を反故にしたからこそ、彼女は自分の人生の間違いに気づくチャンスを得ることができたのなら、彼の行為は「復讐」ではない。
 むしろ、それとは全く逆のものだ。彼は自分の喪失によって、スーザンに救済の糸口を与えたことになる。
 これからのスーザンは、自分の人生に置いてきたものが何かについて、対峙せざるを得なくなる。もし、それがもう取り戻させないものだったとしても。

 以上述べたことの多くは、私の推論に拠るところが大きい。
 だが、ひとつ確実に言えるのは、もう「赤の時代」は終わったということだ。
 ラストシーンで緑のドレスを身に纏った彼女は、レストランの黄金色の壁画と、あまりにも馴染みすぎている。
 まるでそれは、黄昏時の柔らかな陽が降り注ぐ、緑の林の中で佇む女として、一枚の絵の中に入り込むことを許されたかのように。

 時計の針は、決して戻らない。だが、彼女は新たな色の世界の中で、今までとは違う未来を生きていくのだろう。


小説の技巧

小説の技巧

*1:たとえば、アラビアンナイトがその典型である

*2:小説技法の一つ。推理小説叙述トリック等によく用いられる。例えばアガサ・クリスティの「アクロイド殺し」など。