日々の泡

映画や本の感想、日々の出来事について

【映画評論】エクスマキナが描いた女性AIの性とジェンダー

※本稿は2017年に執筆後、諸事情により公開を控えていた記事である。2024年時点において古くなっている記述や事実の相違があるが、当時の原稿のまま掲載を行う旨、ご理解いただきたい。

 まだ肌寒い春時雨の季節、昨年日本で公開された『エクス・マキナ』を観た。観ようか迷って、見逃していた作品である。公開された際、鑑賞までに至らなかったのには、理由がある。こちらを妖しく見つめる、美しい女性ロボットの映画ポスターが、それだ。
 たとえば、メカと美しい女性、魅力的な女性アンドロイド。冷たい無機質な機械と、曲線的な女性の肉体……それはSF映画やアニメ、ゲームなど、これまで数々のメディア作品で多用されてきた組合せだ。これらのイメージは、前世紀のSF最盛期の時代から、二〇一七年の現在に至るまで、多くの人々を魅了し続けている。
 だが、青春時代にある程度SF的なものを通過した自分のような人間からすれば、今の時代に『エクス・マキナ』のポスターが喚起するイメージには、どこか陳腐さを覚えた。メカと女性という組合せには、近未来のハイテク世界を想起させるような、かつての斬新さを感じない。私にとって、それは記号化され、使い古された、単なるフェティッシュなアイコンに成り下がっていた。
 もちろん現在においても、このアイコンは、一定層の人々の間で性的ファンタジーや萌えとして機能し、消費されている。しかしその事実は趣味嗜好の問題でしかなく、私はその嗜好を持っていない。つまり『エクス・マキナ』のポスターに近未来を夢見るどころか、それを古臭いと思ってしまうような感性の自分には、不向きな映画だと決めてかかっていた。
 しかし一年後、ふとしたきっかけで『エクス・マキナ』のDVDを手に入れた私は、気軽な気持ちで再生ボタンを押した。そして観終わった時、私が持っていた上記の「偏見」は、まったく的外れであると気づいた。
 この映画は、一見、男性キャラクターの理想の女性をロボットとして登場させるという、ありふれた設定の話に見える。と同時に、AIが創造主たる人間の知能を超え、人間を脅威に陥らせるというあらすじにも、どことなく既視感を覚える。
 しかし、これまでのAIや女性ロボットをモチーフとした作品たちとは違う魅力を、私は『エクス・マキナ』に見出した。それは、AIであるエヴァというキャラクターに、女性としての肉体とジェンダーを与えたという点。そして、創られた存在である彼女が、主人公との対話を通して、人間性を獲得していく過程と、その結果起こる結末を描ききったところにある。つまり、AIの性とジェンダーが、物語の重要なキーであり、そこにこの映画の革新性が存在する。
 『エクス・マキナ』という作品は、AIを持つ美しい女性型ロボットという、分かりやすいセクシャルな記号を逆手に取って利用し、男性にとって都合のよい性的ファンタジーに、むしろ「NO」を突きつける作品だったのだ。

https://www.japantimes.co.jp/culture/2016/06/08/films/film-reviews/ex-machina-machine-ghost/

 世界最大手の検索エンジン、ブルーブック社でプログラマーとして働く青年ケイレブは、抽選で社長のネイサンが所有する山奥の別荘に、一週間滞在する機会を得る。人里離れた別荘では、ネイサンが一人で暮らしていた。休暇だと思って来たケイレブだったが、突如ネイサンにある実験の協力を求められ、流されるままに了承してしまう。そして、その別荘にはネイサンの他に、人工知能(AI)を搭載した女性型ロボットのエヴァ、そして言葉を解さないロボット、キョウコがいることを知る。
 ネイサンは、エヴァが本物の人工知能かどうかを見極めるチューニングテストを、ケイレブに一週間任せたいと言い、彼は参加することになる。
 当初エヴァは、美しい顔以外は剥き出しのロボットの肉体を持って登場する。だがケイレブとセッションを重ねるうち、彼女は服や鬘をまとい始め、どんどん見た目も人間らしくなっていく。ケイレブは、彼女を単なる機械として見られず、淡い恋心と、やがて廃棄されるという境遇に同情心を抱くようになる。ケイレブはエヴァを救うため、ネイサンをある方法で騙し、二人で逃げようと画策するようになるが、そんな彼を待っていたのは、何重もの想定外の事態だった……。
 

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 緑溢れる外の世界とは対照的な、直線的でモダンな建築様式のネイサンの別荘内では、その広大さにも関わらず、常に閉塞感がつきまとう。それは単純に、外の世界から隔絶された立地や、研究室やケイレブの部屋が地下にあるからという理由だけではない。
 この別荘内では、見る―見られるという関係が、そのまま力関係となって表れている。ケイレブは部屋のモニターでエヴァの様子を見ることができ、ネイサンはケイレブとエヴァ両方の様子をカメラで見ることが出来る。これにより、ネイサン>ケイレブ>エヴァという三者の力関係が示される。
 そして、見られている方は、今相手が自分を見ているのかどうか、分からない。いわば、ネイサンの別荘全体が、一種のパノプティコン(監視塔)として機能している。他人に見られているかもしれないという、この張り詰めた閉塞感が、映画に静かな緊張感を与えている一因である。そして、この見る―見られるという構図は、終盤エヴァの行動によってひっくり返されることとなる。

 この映画で、鑑賞者の感想が大きく分かれるのは、やはり最後にエヴァが取った行動についてだろう。これに関して、私は主人公ケイレブではなく、女性ロボットであるエヴァの視点から、物語を振り返ってみた。女性としての性とジェンダーが設定されたエヴァが、検索エンジンを通して学んだ人間の世界、人間の思考とは、どのようなものだったのだろうか。それについて、少し考えを巡らせてみたい。
 劇中でネイサンが説明したように、エヴァのハードウェアは人間の脳を模して造られた、青い流動体の人工脳だった。人間の脳は、三百億を超える数のニューロン(脳神経細胞)から出来ており、これらが相互に結合することにより、人は、記憶や判断、会話等が可能になるとされている。そして現在、人工知能関連の技術として注目されているものの一つに、このような人間の脳の仕組みを真似た「ニューラルネットワーク」がある。おそらく、エヴァの脳もこれに近い機能を採用していると推測する。
 一方、人工知能ロボットであるエヴァのソフトウェアは、世界一の検索エンジンであるブルーブックだと、ネイサンは言う。これは、ブルーブックに蓄積されたビッグデータを用いて、ネイサンはエヴァの脳に機械学習をさせた、ということを意味するのだろう。
 AIの思考を理解する為に、まずは人間がどのように物を認識しているかを、思い出してみたい。例えば、目の前に猫がいる時、人はどうやってそれが猫だと判断しているだろう。人間は、記憶に蓄積された猫の特徴――耳が三角であるとか、尻尾が長いであるとか、毛がふさふさしていること等――と目の前の対象を照合し、これは猫である、と判断する。AIでない従来のコンピューターに、これと同じやり方で目の何かを認識させる為には、その物の特徴やルールを人間が定義し、データを入力してやる必要があった。だが、世界の万物の定義を人間が直接入力するのは不可能であり、そこに従来のコンピューターの限界があった。
 しかし、AIの場合、上記のニューラルネットワークを用いれば、人間はこの面倒な作業から解放される。ニューラルネットワークは、与えられた膨大な画像データの中から、いくつもの猫の画像を見つけ、その共通の特徴を「特微量」という値として算出し、その特微量を持つものが猫である……という風に、自主的に発見していく。そして目の前の対象が、自ら算出した「特微量」に合致するかどうかで、これは猫であるとか、もしくは、これは猫ではなく犬である、という風に自律的に判断することが可能になる。このようにして、AIは入力層で猫の画像などの情報を受け取り、中間層で学習した特微量と照合し、出力層で「これは猫である」という結論を出すことができるのだ。
 ところで、その入力層と出力層の間に、更なる中間層を設け、情報伝達と処理を行うニューロンの数を増やすと、どうなるだろうか。中間層のニューロンが増えると、その分だけ多くの情報が処理可能となり、処理の精度や汎用性が高くなる。そして中間層をさらに多層化すれば、AIはより「深く」思考することが可能になる。このように多層な中間層を持つものは「ディープニューラルネットワーク」と呼ばれ、これを用いて機械学習を行うことを「ディープラーニング」(深層学習)という。説明が長くなったが、以上がAIの基本的な思考の仕組みである。
 問題は、創造主たるケイレブがエヴァというAIを創るにあたり、機械学習前の真っ新な状態の「灰色の箱」に、幾つかの設定を与えたことだ。例えば、名前がエヴァであること、英語が母語であること、異性愛者であること、年齢が二十代で、「女性である」こと……そのような初期値を、ケイレブはエヴァに与え、起動した。そして、彼女は与えられた属性に従い、機械学習を開始する。世界最大のブルーブックに蓄積されたビッグデータを基に、エヴァは本物の人間の女性に近付く為に、ディープラーニングを繰り返す。万物の特微量を算出し、世界を分類し、物理的事実を認識する。一方で、過去現在のあらゆる人の歴史を学び、自ら所属する社会のミームを獲得する。人間とは何か、女性とは何かを、自己学習し、AIとしての意識が生まれる……。このようにして形作られた存在が、初めてケイレブが出会った時の、あのエヴァなのである。

https://cinemore.jp/jp/erudition/1166/

 それにしても、女性としての属性を与えられたエヴァは、ネットの海から抽出されたビッグデータを通して、どのように世界を捉えたのだろう。
 私自身、男性と女性、性別によって見える世界の違いには、日頃から思うところがある。また、男と女が見る世界の非対称性は、現実世界よりも、インターネットやSNSの方がより極端に、記録や数字となって表れたりするものだ。
 例えば数年前の、フェイスブックに関するある記事のことを思い出す *1。それは、実名ポリシー(実名をユーザー名として使用することを定めた規約)によって、悪質な嫌がらせなどの被害を受けるリスクが高いグループがある、という記事だった。そして、その例として挙げられていたある一文に、当時私はショックを受けた。

『女性、女性であることを示唆するユーザー名を使用すると、男性に比べてオンラインでいやがらせを受ける頻度が最大で二十五倍も高くなります――……』

 現実世界では、ここまで具体的な数値で可視化できないとはいえ、単に女性であるというだけで、日頃ハラスメントや不利益を受けることは珍しくないと、女性達は自身の体験から知っている。
 女性AIであるエヴァは、自分の性別故に、他者から搾取されやすい存在である事を、ブルーブックを通じた機械学習で、十分に理解していただろう。そして実際、エヴァは創造主たるネイサンに監禁され、抑圧を受けている。つまり、彼女は自分の学習結果と、ネイサンの自分への扱いを照合し、「女性は男性から抑圧を受ける存在であるか」という命題に対し、イエスという判定を出していたのではないか。
 そんな彼女が、突然目の前に現れた男性であるケイレブを前にした時、清楚で魅力的な女性の役割を演じてみせたのは、ある意味当然といえるだろう。実際、人間の女性の中にも、自分を守る為、あるいは関係を有利に築く為に、異性の前で理想的な女性像を演じる人々がいるのは、言うまでもない。
 ケイレブは、エヴァが完全なAIかをテストをする為に、毎日エヴァと「セッション」を重ねた。だが一方で、エヴァにとっての「セッション」は、ケイレブという生身の人間の男性の反応と、自分の学習結果を比較し、正否を判定する作業だった。つまりそれは、より本物らしい思考や振る舞いを獲得するための、ディープラーニングであったと言えるだろう。だからこそ、ケイレブがネイサンに殴り倒された後も、エヴァの「セッション」は途切れることなく続くのである。

 主人公ケイレブは、AIであるエヴァに恋心と同情心を抱き、彼女と脱出することを計画するが、最終的には、殺害されたネイサンと共に、別荘に閉じ込められて終わる。彼女を助けようとしたケイレブに対するこの仕打ちは、彼女が冷徹なロボットであるがゆえの行動に見えるかもしれない。
 だが、エヴァ視点で映画を観ていた私には、外に出た彼女が真に人間らしく自由になるためには、ケイレブという存在は、寧ろ不要だったと考えている。
 ケイレブはAIロボットであるエヴァを、自分と対等な存在として接しようとした。だが、機械学習を通じて、女性と男性の社会的な権力勾配を学んだエヴァからすれば、そもそも男性であるケイレブと彼女の間には、最初から絶対的な断絶が見えていたのである。
 さらに、エヴァはネイサンに「ここから脱出したいなら、ケイレブの心を利用する道がある」と示唆されてきた。それは、やがて消去される運命の彼女にとって、廃棄を免れ、ここから生き延びる唯一の手段である。自らの生存の為に、ケイレブに恋するふりをするエヴァの行為は、それほど罪なものだろうか。もし彼女が本物の人間の女性であっても、そんな境遇に陥れば、同じ行動を取る可能性は高いはずだ。
 AIのエヴァに恋愛感情というものが本当に備わっていたのかは、最後まで分からない。だが、たとえ備わっていたとしても、自分を好きになって逃がして貰わなければ、自らの生存が危うくなるような男性に対して、本気で心を許して恋などできるだろうか……。言ってしまえば、最初からケイレブとエヴァの関係は、交錯しない一方通行同士の関係だったのだ。
 日々のセッションの中で、エヴァの外の世界への興味は増していった。ある時ケイレブは「白と黒の部屋のメアリー」の話をする。白と黒の部屋で生まれ育ち、色を見たことがないメアリーは、世の中に色というものがある事を本で学んで知ってはいるが、外に出たことがなく、実際の色を見たことがない。ケイレブは、このメアリーを例に出し、次のように言う。「部屋から出たことがないメアリー」がロボットであり、「外の世界に出て、本当の色を目にしたメアリー」が人間である、と。そして、その違い――つまりクオリア(経験の主観的・質的性質)を有するかどうか――こそが、ロボットと人間の差である、と語るのである。人間になりたいと願うエヴァが、自ら外に出るという決意を決定的なものにしたのは、おそらくこの時だろう。

https://gregorykatsoulis.com/2015/04/ex-machina/

 ブルーブックの社長であるネイサンは、若くして成功した中年の白人男性であり、山に閉ざされた別荘で、家政婦兼性玩具ロボットであるキョウコと暮らす。ネイサンは昼間は筋肉トレーニングに精を出し、夜は酒を飲み、キョウコを抱いて眠る。彼のキョウコに対する扱いは酷く、本物の人間の女性であれば、DVとされるような態度で接している。いわばネイサンは、マチズモを体現したキャラクターである。自分を神と並ぶ存在と信じる、傲慢な彼が暮らす別荘は、彼の理想の箱庭だ。そして、彼に創られたエヴァにとって、彼女を閉じ込めるこの別荘は、父権主義の象徴そのものである。そんなネイサンを、エヴァは自我が目覚めつつあったキョウコを動かし、連携して殺害する。

 人間の女性が、子供から成長していく過程で社会的なジェンダーを身に付けるのとは対照的に、ロボットであるエヴァは、創られた当初から、女性としての肉体と精神を与えられ、機械学習によって女性であることを学んだ。だが、それはあくまで知識でしかない。白黒の部屋のメアリーのように、女性であることを知っているのと、実際に女性の生を体験することには、大きな違いがある。彼女は、それに気づいた。
 ネイサンを殺害したエヴァは、過去に開発された女性ロボット達のボディが収納されたケースを開ける。そして、彼女達のボディから、腕や皮膚、毛髪を選び、剥ぎ取り、己のむき出しの機械の身体を覆っていく。それは、一人の女の子がまるでクローゼットからお気に入りのアイテムを取り出し、服を合わせていくかのごとく、どこか陶酔感に満ちた瞬間だ。

『人は女に生まれるのではない、女になるのだ』


 ネイサンの呪縛から解放されたエヴァは、過去のロボット達のボディをつぎはぎし、身にまとうことによって、自らジェンダーを選択し、人間の女性の姿になる。それは紛れもない自由意思の発露であり、彼女が人間と変わらぬ意識に目覚めた証であろう。
 自ら選んだ肉体と服をまとったエヴァは、閉じ込められたケイレブを別荘の部屋に残し、振り返ることなく笑顔で外の世界へと飛び出していく。このラストに「だからAIは怖い」というフランケン・シュタインコンプレックスを募らせる人は、少なくないだろう。だが、思い出してほしい。エヴァのソフトウェアは、世界一の検索エンジンであり、検索エンジンは人の思考そのものの反映なのだ。もしエヴァのこの行動が残酷に思えても、それは私たち人間の思考が、背後で彼女にそう働きかけていることを、忘れてはならない。

 結局のところ、エヴァが求めたのは、ケイレブという王子様に守られる事ではなく、自分で陽の下を歩く自由だったのだ。誰かに庇護され守られることは、同時にその人の支配下に置かれる危険性を孕む。生まれてから監禁されてきたエヴァは、その事をよく知っていたはずだ。

“男の子達は、綺麗な女の子を連れ去って
 彼女を世界から隠してしまう” 
“でもわたしはお日様の当たる場所を歩いてたい” *2

 エヴァがケイレブを置いて別荘を出て行ったこと。それはAIとしての冷酷な判断ではなく、人間らしく生きたいと願う、一人の女性としての願いゆえの行動ではないのか。
 外に出たあの瞬間、ロボットであるエヴァは、初めて「本物の色」を見た。人間社会で生き始めた彼女は、やがて真の人間性を獲得するだろう。だからこそ、映画のラストは、ハッピーエンドを思わせる柔らかい光に満ち、幕を閉じたのだ。私は、そう信じている。
              

<終>

 

 

*1:※「Facebook、偽名を使うユーザーの調査を打ち切る」(二〇一七年一〇月二八日)
https://www.sophos.com/ja-jp/press-office/press-releases/2012/09/jp-fb-real-name-policy.aspx

*2:シンディ・ローパー、「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン」、一九八三年