日々の泡

ついったでは書ききれない感想など

【映画】『3月のライオン前編』感想

◼評価
 ★★★★⭐(4.5/ 5.0)

◼感想(長いです)
「勝利の意味が少年を成長させていく」

物語は、主人公・桐山零が、育ての父である幸田を対局で打ち負かす所から始まる。しかし、勝った後の彼の表情は虚ろで、なんの感情も伺えない。このシーンから、天才少年棋士と呼ばれているにも関わらず、零にとって、将棋で勝つことが喜びではなく、むしろ苦しみでさえあることを、画面は伝えてくる。
9年前、亡き父の友人であったプロ棋士の幸田が、家族を失い、身寄りのない幼い零を息子として引き取った時から、零と将棋の因縁は始まる。幸田の家庭に引き取られた零は、彼の内弟子となる。
プロ棋士の家庭で、息子として生きていくことの意味……血の繋がらない親に、自分の存在価値を証明し続けるためには、零には将棋しか無かった。将棋で勝ち続け、強さを証明することこそが、幼い彼にとっては生きていく手段であった。
そんな厳しい環境が零の才能を目覚めさせ、彼は著しい成長を遂げていく。だが義理の姉をも凌ぐ程に成長した彼の実力が、今度は幸田家の零の居場所を奪うことになる……。
このように、物語前半の零にとって、将棋で勝つことは、唯一の生きていく手段であると同時に、それは更なる深い孤独へ自らを突き落とすものであった。
零自身が叫ぶシーンの通り、彼には将棋しかない。しかしその将棋が、意図せぬ形で周りの人を不幸にしていき、自らもそれによって傷つき、更なる孤独へ追い込まれる。そこに深い彼の苦悩があった。

そんな袋小路の零の将棋人生に、転機が訪れる。川本三姉妹との偶然の出会いにより、彼は幸田家では得られなかった家族の暖かさを知る。彼女たちとの絆を深めるうちに、零は孤独から救われていく。
そして、勝つことが零を孤独に追いやるのではなく、周りの人の期待に応えること、誰かの為になるということに気付いた時、彼は初めて勝つことへの執着に目覚め、自分の棋士人生を自らの意志で歩み始める……。

このように、前半は零が一人の棋士として覚醒していく過程を追う、少年の成長物語である。これだけでも一本の映画になりそうな情報量だが、しかしこの映画はここでは終わらない。
後半は、零以外の棋士達の対局に焦点が当たっていく。
なかでも、零を先輩として導く島田八段(佐々木蔵之介)と、零と因縁を持つ後藤九段(伊藤英明)の対決シーンは息を呑む。将棋を指しているだけなのに、アクション映画並の緊張感と興奮が画面から溢れてくる。
盤面にドラマがあり、そして、それは将棋が分からない観客にも伝わるようになっている。
対局のシーンは、基本的に盤面と役者の顔のアップのショットで構成されているが、それが退屈にならず分かりやすいのが、この映画の凄いところ。盤面を映すのみではなく、役者の演技とカメラの映し方により、どちらが優勢か劣勢かを、一目で分かりやすく伝えてくれるのだ。
対局時の棋士役の役者達の演技力たるや、凄まじいこと。表情のみならず、姿勢から視線、息づかい、指先の動き、盤面との距離、指す時の音に至るまで、全身全霊でそのキャラクターの心情を表現している。
一手一手を打つ棋士達の、闘志の炎を内に抱えながらも、凛とした佇まいには、男の色気すら感じる。将棋を指しているだけなのに、そこで交わされる感情のやり取りが、何とも官能的に見える。
そして、それを追うカメラも見事。役者の顔のアップのみならず、上座と下座の構図や、肩越しのショット、煽りや俯瞰などの角度など、練られた撮影編集によって、盤面を見ずとも勝負の優劣が分かるようにされている。

棋士達との対局と、複雑な人間模様が交錯するなか、前半の物語は幕を閉じ、後編へと続く。

この映画は、孤独と人との絆、勝負の世界の厳しさ、それぞれのキャラクターが背負うものを見せることで、主人公・桐山零の成長を描く物語だった。
この作品の世界には、誰も完璧な人間などいない。零を凌ぐ実力を持つ棋士達でさえも、なにかを背負い、勝負をし、勝つことで己の道を拓くことで足掻いている。
それに気付いた零が、今後どのような成長を見せるのか……。後編を観るのが楽しみでならない。

※映画.comにもレビューを載せています
http://eiga.com/movie/83116/review/01524599/

【映画】『キングコング髑髏島の巨神』感想

◼評価
★★★★⭐(4.5/5.0)
キングコング: 髑髏島の巨神』字幕版を観た。ネタバレはしてないつもりですが、ストーリーにはある程度触れています。

◼あらすじ
ベトナム戦争終結直後、ある研究者の思惑から、アメリカは未知の島に探索を目的とする調査遠征隊を軍隊と共に派遣する。だがそこは巨大生物が支配する島であり、人間達は追い詰められ逃げ惑うことになる…

◼感想:「オタクが本気で自分の観たいキングコング映画を撮ったらこうなった」
CG制作や特撮効果のコストをケチったせいで、影をちらつかせるばかりでなかなか怪獣が出てこない怪獣映画が、私は嫌いである。気が短いのだ。
(もちろん予算という限られた制約があるのは承知の上で、それでも嫌いなのだ)
だがこの映画は違う。本気で怪獣映画を愛する人達が作っているせいだろう。一切出し惜しみせず、冒頭から主役のキングコングが現れ、物語序盤から暴れまくり、ガンガン破壊しまくってくれる。なので否応なしに、観客は物語序盤からヒートアップさせられる。そして間をあけずに次々と予測不可能なクリーチャーが現れて、容赦なく人間を襲いまくるので、興奮から覚めることなく次の興奮がやって来て、飽きさせることなくクライマックスまで突き進む。

実はあまり期待をせずに観に行ったのだが、字幕版を観て、期待値が低かったぶん余計に良い意味で裏切られた。

怪獣やミリタリー要素が好きな人は、序盤から最後まで「ヒャッハー!」とハイテンションで観られるし、そうでない人も、次々と襲ってくるクリーチャーにビクビクするスリルを楽しみながら緊張感を持って観られる。

とにかく「オタクが本気で自分達の観たいキングコングを撮ったらこうなりました!」感が、ビシバシ伝わるのが好印象。
やりたい放題感というのだろうか。それが徹頭徹尾一貫して伝わってきて、尚且つワクワクさせてくれるのだ。
そして、それはあくまでもオタクだけに向けた作品ではなく、怪獣映画初心者にも明快なエンターテイメントとして楽しめるのが、この映画のスゴい所だ。
オタクが撮った怪獣映画といえば昨年のシン・ゴジラを思い出すが、シン・ゴジラがあくまでもコア層からの支持を受けたのに対し、キングコングは怪獣映画オタクやミリオタ等のオタクを熱くさせるのみならず、怪獣映画初心者も楽しめる懐の深い作りになっている。その意味ではシン・ゴジラよりもパシフィック・リムに近いかもしれない。

ところで、怪獣だけではなく、ミリタリー要素もてんこ盛りで、ミリオタも多分楽しめる。何しろベトナム戦争直後の孤島のジャングルという設定からして、好きな人には堪らないだろう。
(分からない人には大変恐縮だが、私は最後に生き残ったキャラクター面々を見ながら「これが冷戦時代のジャングルを舞台にしたメタルギアソリッドⅢなら10回は既に死んでるぞ」等ツッコミながら楽しく観ることができた)

とにかくオタクの人も、そうでない人も、興奮したいなら是非とも観に行って欲しい。そう自信を持って多くの人に久しぶりにお薦めできる楽しい映画だった。

◼余談
吹き替え版を観ていない私が言うのも大変恐縮なのだが…キングコング、内容は最高でオタク受けもする作品なのだから、吹き替え版も話題性を求めずに堅実に演技派俳優や声優を使ってほしかった。そこはほんと、パシフィック・リムを見習って!!!と声高に言いたい。
むしろ人気実力のある声優を吹き替え版にキッチリ起用した方が、声優ファンの間でも話題になるし、何度も劇場に足を運ぶようなオタク層をもっと取り込めた筈では。興行的にも、その方が成功した気がするので、残念に思う。

◆ちなみに映画.comにもレビューを書いています。
http://eiga.com/movie/84000/review/01522382/

3月に観た映画まとめ

・「彼らが本気で編むときは、」
 ★★★⭐⭐
  母が突然家を出ていった少女トモは、叔父のマキオの家に身を寄せる。そこで、彼の恋人である性転換手術を受けた女性リンコと出会い、同居生活を送ることになる。最初は元男性のリンコに戸惑うトモだったが、母の愛情に飢えていたトモをリンコは我が子のように可愛がり、叔父マキオと共に家族のようになっていく。だが戸籍が男性のままで理不尽を受ける事やトモの母になりたい気持ちから、リンコは108つの男根の編み物を終えたら、戸籍を女性に変えると決意する。
 観る前生田斗真の某コメント読んで色々不安だったけれど、映画としては良くできた映画だった。母の愛情を知らないトモにリンコが惜しみ無い愛情を与え、絆が深くなっていけばいくほど、周りの普通の人々からは異様な関係だと理不尽な迫害を受ける。その理不尽さを乗り越えるために、リンコは編み物を編み続ける…。
 生田斗真のリンコは観ているうちに女性にしか見えなくなった。というか女性らしすぎるぐらいで、大変失礼ながら「普通の女性よりも圧倒的に女性らしく」て、そっちの意味で自分は違和感を感じた。けどトランスジェンダー女性の女らしくあろうとする振舞いを、生まれつきのシスジェンダー女である自分が、女性らしすぎると言うのも何だか傲慢だし、暴力的だと思う。しかし、それでもトランスジェンダー女性の描き方はステレオタイプすぎるような気がした。
 リンコはトランス女性で、マキオとの関係も異性愛者の恋人のそれだった。トモの同級生のゲイの男の子や、トランスジェンダーへの偏見を描いてはいるけれども、この映画はセクマイの関係というよりは、血の繋がらないリンコとトモが家族になる過程がテーマの映画なのだ。なのでLGBTQ的なものを期待して観に行くと、客は多分違うと感じると思う。むしろリンコの母性愛に対する賛美や、理不尽さに立ち向かうのではなく、編むという行為を通して自分の中で堪え忍ぶことを推奨しているので、マッドマックスFR等が好きな人とかにはなかなか相性が悪い映画だと思う。マキオがリンコに惚れた理由が、母親に対する献身さというのも、女性が追わされているケア性や、そういった社会のイメージを賛美しているようにも見え、自分は違和感を感じた。
 つまり、LGBTQを登場させてはいるけれど、多様性があまり感じられない点が気になった。一見してトランスジェンダーと分かる女性や、サッカーではなくバイオリンを弾くゲイ少年。家族の形や、母性愛や、女性らしさ…色んな点がステレオタイプすぎると感じた。

・「お嬢さん」
 ★★★★⭐
 パク・チャヌク監督の『お嬢さん』観た。舞台は1939年日本統治下の韓国。詐欺師の少女スッキは、同じく詐欺師である藤原伯爵から、莫大な財産を相続した令嬢秀子を伯爵に恋させ、駆け落ちする手引きを求められ、秀子の豪邸へ侍女として侵入する…。スッキは珠子という名を貰い、侍女として献身的に秀子の世話をするうちに、その美しさと孤独さに惹かれるようになり、藤原伯爵に嫉妬を覚えながらも、彼との仲を取り持つ。やがて伯爵の計画通り、伯爵と秀子とスッキは屋敷を逃れて、日本へと渡る。しかし、それは裏切りに次ぐ裏切りの序章だった…。
 とにかく上質な官能ミステリーだった。物語は三部構成で、謎パート→回答パート→後日談となっていて、時系列が交錯し、謎が明らかになるかと思えば、更なるどんでん返しが起こる…といったように、巧みな構成で観客を惹き付ける。絢爛たる美術や衣装も見事で、耽美で頽廃的なエロスに酔えた。
 閉じ込められたお姫様を救うのは王子様ではなく女性…という点では、アナ雪や、かつての少女革命ウテナに通じるテーマを持った終わり方で、爽快だった。

・「哭声/コクソン」
 ★★★★⭐
 韓国の地方のある山村では、村人が発狂し家族を惨殺する事件が続いていた。警察官ジュングはよそ者の日本人が事件の元凶ではないかと疑い始めるが、自らの娘もおかしくなり、自分自身も巻き込まれていく。
 最初裸の國村隼さんが山奥にいる画がシュールで笑ってたのに、見終わった後はなんとも後味の悪い恐怖が残った。山奥に住む怪しげなよそ者を演じる國村隼さんが、この映画で韓国の映画賞を授賞したのが話題だけど、さすがの存在感で、観た後はあの顔がトラウマになるレベルに…。
 頭のおかしなよそ者が村全体を恐怖に陥れていくパニック系のサスペンスかと思いきや、土着的な得体の知れないものが静かにジワジワと迫ってくるホラーだった。音で恐怖を煽るハリウッド系のホラー(1月に観たドントブリーズとか)とは真逆の演出。不快な程湿度の高い、まとわりつくような恐怖を体験できた。
 冒頭、國村隼さんが裸で四つん這いで森走ってて、シュールすぎて笑ってしまったのに、それが観終わったらトラウマになりそうになるなんて…。ストーリーは謎の解決に近づいたかと思えば、二転三転し、先の読めない緊張感を持って観ることが出来た。ホラーが好きな人、民俗学的な怪談が好きな人にお薦めしたい。
 混沌とした謎のパワーを感じる映画だった。

・「アシュラ」
 ★★★★⭐
 悪い奴らばかり出てくる韓国ノワール映画『アシュラ』。病気の妻を持つ刑事ドギョンは金の為、街の再開発を計画する市長の裏方として汚職に手を染めていたが、それに目をつけた検察官は逆に彼を利用しようと近寄り、泥沼の板挟みにずぶずぶと墜ちていく。
 主人公ドギョンは市長側につけば検察に逮捕され、検察につけば金脈を失いこれまでの市長の後始末を暴かれるという、ダブルバインド状態に陥る。市長を裏切り、一方で検察の目を騙す…そしてバレれば終わり。裏切りに裏切りを重ねるうち、事態は主人公の弟分まで巻き込み、主人公自身も狂気を帯びていく。
 二重スパイものの韓国映画といえば『新しき世界』を思い浮かべるが、『アシュラ』もそれに劣らぬ傑作だった。裏切りを重ねる主人公の状況は緊張に緊張を増していき、膨らんで張りつめた風船が破裂するように、事態は混乱と崩壊へと転がる。その様相たるや、まるで恐ろしい地獄を覗き込んでいるかの心地だった…。
 観終わった時、『アシュラ』という地獄から地上へと戻ってこれたような安堵感が広がると同時に、ずしりと重い後味が喉につかえたまま取れなかった。これが本当にフィクションでよかったと思える程に、どこまでも闇が深く、飲まれてしまいそうになる。観客を地獄の淵に立たせ、その中を覗かせるかのような映画だった…。

・「SING」
 ★★★⭐⭐
 『SING/シング』吹替版で観た。廃業寸前の劇場支配人のコアラのバスターは、劇場再起をかけて賞金付歌のオーディションを企画。子育てに追われる主婦のブタや、ギャング親子のゴリラ少年や、ハリネズミのロック少女等、個性的な候補が集まってくる。
 感想としては、良くできたエンターテイメントで、楽しい映画だった。テイラー・スウィフトのShake It Outから、フランク・シナトラの名曲やデヴィッド・ボウイ+フレディ・マーキュリーのUnder Pressure等々、古今の数多くの洋楽有名曲が流れまくるので、気分がノって最後までサラッと観れた。
 ただし、同じく動物世界を描いたズートピアや、マイノリティ達を主役に描いたミュージカルgleeといった、似たテーマを描いた作品を観てしまった2017年現在の今となっては、正直なところ、「ただ楽しいだけのエンタメ」では満足出来ない自分がいた。
 オーディションに出てくるキャラクター達はマイノリティや弱者も出てくるが、各キャラクターの抱えている問題や立場やそれによる葛藤・抑圧は、実社会の社会構造を反映したズートピアほど掘り下げられていない。
 またSINGの世界では歌が各キャラクターの抑圧や呪いからの解放に繋がる装置としての役割を持つが、上に述べた通り、キャラクターの葛藤の描写が薄いため、最後の見せ場である各キャラクターのライブシーンで、解放感というか、私には物語のカタルシスが足りなかったのである。
 SINGがとびきり楽しい映画なのは間違いない。だが、もしSINGがもっとキャラクターの背景や問題を掘り下げ多様性を獲得し、歌にもっと強いメッセージ性が結び付いていたならば、ただ楽しいだけではなく、(例えばgleeのように)他の誰かの物語ではなく、私たちの物語として、心に刻み付ける、もっと強い何かを与えてくれただろうと思う。
 楽しいだけのエンタメで終って欲しくなかった。それが残念である。

・「モアナと伝説の海」
 ★★★⭐⭐
 女神テフィティの心を盗んだ英雄マウイにより世界に闇が生まれたという伝説の伝わる南の島。そこでは外洋に出ることを禁じていたが、異変が島を襲う。マウイを探して女神へ心を返しに行く為、島長の娘モアナは海へと旅立つ。
 この映画には、大きく二つのテーマがある。一つは「外の世界へ目を向けよ」。モアナの住む島では、豊富な海洋資源と自然に恵まれて暮らしていける為、珊瑚礁の向こうの外洋に行く事が禁じられている。海へと出ていきたがる彼女に対し、父である島長は、海へと冒険に出るのではなく、皆の生活を守る島長となり、島の伝統である石の塔を(まるでバベルの塔のように)積み上げよ、と言う。珊瑚礁の中に居れば安全だ、石を高く積み上げよ…という父の言葉は、昨今の先進国で台頭しつつある保守主義ナショナリズム等の情勢と大きく被る。だがモアナはそんな父の言いつけを破り、闇に飲まれつつある村を救う為、そして言われたままに島長になるのではなく、本当に自分がしたいことを見つける為に、珊瑚礁を越えて波の荒い外洋へと旅立つ。「少女よ、内に籠るのではなく、勇気を持ち、外へ旅立て…」これが、まずひとつ目の大きなテーマではないだろうか。
 二つ目のテーマは、英雄マウイというキャラクターに大きく関わる。マウイは神だが、生まれた時は普通の人間であった為、(おそらく神であった)両親から捨てられたという過去を持つ。親から愛されなかったというコンプレックス故、代わりに人間たちから崇拝される事に喜びを覚えるようになる。それゆえマウイは、人々から賞賛されるため、海から釣り針で陸を引き揚げて島を作り、太陽を引き寄せ、ついには世界を生んだ女神テフィティから彼女の心を盗み、世界から闇を作ってしまう。モアナはマウイにテフィティの心を返させるため会いに行くが、釣り針を失った彼は、単なる調子の良い小心者でしかなく、モアナを洞窟に閉じ込める等の卑怯な振舞いさえ見せる。また、戦いで釣り針が傷つくや否や、彼は臆病にも逃げ出す…。このような彼の振舞いから、彼が真の英雄ではなく、実は単なる自己肯定感の低い一人の男でしかない事が、物語の後半露呈されていく。
 しかしその一方、モアナはマウイとの交流を通じて、自ら船を動かす術を身に付け、マウイに頼るのではなく、自らの力で障害に立ち向かおうとする。そしてそんな彼女を見て、マウイは人々から賞賛されたいが為ではなく、友人である彼女を救う為に、初めて自らの意思で自らの限界を越えて戦おうとするのだ。一方、モアナ自身も旅とマウイとの交流によって変わっていく。ただ言われるがまま島長になろうとしていた受け身の彼女が、勇気を持って珊瑚礁を越えて、マウイの力に頼らずに自ら障害に挑もうとするまでに成長していく。
 自らを見つめ、自らの力でなすべきことをなせ…。これが、このえいがの持つ、二つ目の大きなテーマであるように思う。
 少女よ、外に目を向けよ。自らを見つめ、自らの力でなすべきことをなせ。モアナと伝説の海は、そんなメッセージ性が詰まった映画だった。
 ただ一点、個人的にどうしてもこの映画を好きになれない部分がある。それはモアナとマウイの序盤の関係性である。モアナが主人公であるにもかかわらず、無力なモアナは男性のマウイの前だと徹底的にケアワークに徹するしかないという構図。勿論最後にこれは変化するのだが、自己肯定感の低い男の為に、ひたすらケア役に回る女性主人公というのは、昨今のディズニー作品にしてはずいぶん古い価値観に思えた。マッドマックスFRのオマージュを入れるくらいなのだから、その辺りのジェンダー観もアップデートしてほしかった。

・『ムーンライト』
 ★★★★⭐
 観終わったとき思い出したのは、ウォン・カーウァイ監督の名作『華様年華』だった。それはこの作品が華様年華と似た構成や音楽の使い方や証明や撮り方で(おそらく実際意図的に)制作された事のみならず、両作品とも描かれているのが「時を経て変わっていく人と愛の形」だったからだ。
 この作品は三部構成となっている。育児放棄気味の母親に育てられ、学校ではいじめに遭う中、売人フアンと知りあい、ケヴィンとの友情が芽生え始める幼少期「リトル」、自分のセクシャリティとケヴィンへの想いに気づく少年期「シャロン」、そして故郷を離れ大人になった成年期を描く「ブラック」。物語は「リトル」→「シャロン」→「ブラック」の順に、シャロンの幼少期から成年期にかけた、最悪の境遇と、その中で得た切ない愛と人との絆、そして彼自身の半生を描く。
 主人公シャロン貧困層の黒人であり同時にゲイという二重、三重のマイノリティであり、それが幼少期から成年期に至るまで彼を常に孤独に追い詰める要因となっている。そんな永遠とも思える孤独の中で、彼が得たかけがえのない人の絆が、幼少期では麻薬売人のファンとその妻テレサの擬似親子的親愛であり、フアンの死後は、親友ケヴィンとの友情、そして彼への密かな想いである。
 何重ものマイノリティであるシャロンの将来にはそもそも選択肢が少なく、彼は否応なしに恩人フアンが「自分のようになってほしくない」と願った類いの人物へと成長していく。そんな大人になっても手放す事ができずにいたのが、ケヴィンへの想いであり、幼少期から育んだ彼との絆であった。
 そして物語の後半、大人になったシャロンは思わぬ形で、胸にしまっていたはずのケヴィンへの想いに再び対峙することになる…。
 最悪の境遇の中で得た、最愛のものたち。それはシャロンという一人の人間の中で時間を経て、成熟し、暗闇の中で彼を照らす月の光のように、儚くも冴えた光を放ち続ける…。
 この映画は、シャロンという人間の半生を通じて、孤独、絶望、そしてそんな最悪の境遇の彼の中で育っていく愛のかたちを教えてくれる。私たちは必ずしも、彼のように何重もの重荷を背負ってはいない。だが、誰もがシャロンのように孤独で、けれど心の中に美しい月の光を持っている。それを優しく語りかけてくれる映画だった…。

2017年2月に観た映画の感想

■新作(★はおすすめ度)
・「破門」 
 ★★★★⭐
 ヤクザ映画バディもの。質の高いエンタメ作品。自分のようなやおい者におすすめ。

・「マグニフィセント7」
 ★★★★★
 監督のデンゼル・ワシントンへの思いの強さが伝わった。東西南北のイケおじを集めました感。みんなキャラが立ってて腰がエロい。やおい者におすすめ。

 全体的に最高に面白いエンタメ作品だったけど、女性の描き方がいまいちまだ現代的にアップデートできていない点は気になった。

・「愚行録

 ★★★★⭐

 とにかく登場人物がほぼ嫌なやつしか出てこない。惨殺された感じのいい夫婦と評判の二人について主人公が調べていくうち、女癖が悪く野心的な夫の過去や、向上心が強く他人を踏み台にしてきた妻の学生時代などが浮かび上がり、主人公と妹も虐待を受けていた子供時代が明かになっていく…。

 元々の原作も緻密な構成のミステリーと聞いてたけど、それを上手く映画として再構成したなという印象。主演二人の怪演など、役者陣の演技も良い。ただし過去話の、特に学生時代のシーンが多く、それを現在と同じ役者が演じてるので、学生にしては年取ってない?っていう違和感は正直あり…。

 ただその辺の作りの粗さを考慮しても、傑作イヤミス映画と呼んで申し分無い面白さ。ポーランド国立映画大学出身の石井慶監督はこれが長編初作品らしいけど、そうとは思えないほど、カメラの動線のシーンの繋ぎの巧さ、印象的なショットやローアングル、音楽の効果…映画として非常に丁寧な作りだった。

 ミステリーが好きな人、イヤな気分に落ちたい人には、自信を持ってお薦めできる映画でした。

・「ネオンデーモン」
 ★★☆☆☆
 エル・ファニングの美しさにみんなが狂っていく映画。ヘルタースケルター的。題材はいいのに……。

・「虐殺器官
 ★★★☆☆
 別Postで書いた通り。原作読んでいったら混乱した。

・「ザ・コンサルタント
 ★★★★☆
 いわゆるアンチ・ヒーロー物ドラマ。主人公が自閉症っていうのが、凄く新しく感じた。発達障害者がヒーローにってのは珍しいし新しい。アクションも素晴らしかったけど、すごく知的なドラマだった。企業会計の不正を描くので、簿記二級位の知識が無いと、何が起こってるのか分かりにくそう。

 繋がりたいのに他人と繋がれない、そんな主人公の苦しみが心を打った。
・「たかが世界の終わり」
 ★★★☆☆
 主人公ルイは自分の死期が近い事を伝えるため12年ぶりに実家に帰郷する。だが久しぶりに顔を合わせた家族は噛み合わず、会話が互いを傷つけ合うことに…。
 大仰な性格の母、威圧的な兄、怯えるその妻、ナイーブな妹…主人公を迎える家族は最初ぎこちなく歓迎するが、主人公の12年の別離は家族にとって長すぎ、徐々に家族団欒の雰囲気は不穏になっていき、不協和音を立て家族同士で傷つけ合う。そんな中主人公は自分の死期について言い出す機会を失っていく。
 とにかく俳優陣が豪華で、主人公はギャスパー・ウリエル、兄役にヴァンサン・カッセル、兄の妻役にマリオン・コティヤール、妹役にレア・セドゥというフランス映画界のトップ俳優ばかりの顔ぶれ。そんな名優達が不協和音を立てる家族を演じ、自らの感情をぶつけ合う様が壮絶だった…。
 この映画にはいわゆる「大きな物語」がなくて、ひたすら家族の会話劇的なシーンが続くんだけど、言葉は必ずしもそのキャラクターの本心を伝えない。それだけにこのキャラクターは本当は何を恐れ怒り戸惑っているのか、感覚を鋭敏にして観なければならない、緊張感のある映画だった…。
 カメラワークやカット、音楽の使い方や照明、映画としての各要素のレベルはかなり高いんだけど、原作がもともと会話劇だからか、全体的に芝居が大仰で、しかもみんなフランス映画界のトップ俳優ばかりだから、それぞれの存在感がありすぎる気がした。原作の舞台版はどうなのか、観てみたくなった…。

・「LA LA LAND」

 ★★★★⭐

 夢を追いかける愚かな大人である主人公二人を描き、現実に何度も打ちのめされても、互いの情熱や芸術に惹かれあい、すれ違い、それでも夢を諦めない。素敵で、切ない映画だった。愛と夢と喪失のドラマ。最初の高速道路のミュージカルシーンは「ロシュフォールの恋人たち」を思わせるカラフルでドキドキするオープニングで、最高。

 最初エマ・ストーンの可憐だけど覚束無い歌唱力に不安になりながら観ていたら、後半いい意味で裏切られた。

 制作者のミュージカル映画に対する愛、ハリウッド映画に対する強い想いを感じた。ミュージカルが好きな人、ハリウッド映画が好きな人、芸術に救われた事がある人、そして夢を諦められない愚かな大人に、ぜひ観て欲しい作品。

 アカデミー賞七部門受賞おめでとうございます。

原作を読んだ人が映画『虐殺器官』を観に行って大変混乱した話(感想ネタバレ有)

 先日、映画『虐殺器官』を観て来ました。そして感想はというと……観終えた時、正直ものすごく混乱しました。

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 自分自身は、伊藤計劃ファンという程ではないけれども、主な著作は大体読んだことあるよ……という程度の読者。(ちなみに『屍者の帝国』も『ハーモニー』も原作は読んでますがアニメは観てません)
 「映画観てみよっかなー」と軽い気持ちで思った時、数年前に読んだ『虐殺器官』の細部について忘れている部分が多かったので、一時間ほどサラッと原作を読み直し、記憶を蘇らせて、映画を観賞しました。
 映画自体の出来について言えば、あの原作から上手く映像化したな、という印象。具体的には、アニメとして作画が素晴らしいクオリティですし、ミリタリーSF的要素については丁寧に忠実に映像化されていたり*1、また声優さん達の演技も良く、きっちり誠実に制作された作品でした。お金を払って観る価値はある映画作品だと感じました。
 ……が、繰り返しになりますが、原作を直前に読み返していた自分は、原作を読んでいた故、細部細部で混乱し、映画に没頭できない瞬間が多かったのも、また事実でした。

 伊藤計劃という作家の魅力は、読者によって色々あるかと思います。その中で、あくまで自分にとっての伊藤計劃の魅力を語るならば、彼の「思想性」と一人称で語られる「物語性」を挙げたいと思います。
 しかし、原作からアニメ映画化にあたり――おそらくは映画の尺の都合によって――原作のある部分が大幅に削られ、新たな部分を加えられ、あるいは変更され……結果、自分が没頭していた『虐殺器官』の世界から大きく外れてしまった点がいくつかあり、それによって自分が抱いていた原作の世界観から、映画版が大きく乖離してしまった印象を受けました。これは「ぼくの物語」じゃなかった、という風に。
 なぜそのような印象を受けたのか、細かい点について、自分用の備忘録的にこのブログに記しておこうと思います。映画のストーリー順。(ちなみに思いっきりネタバレしています)

 

1.アレックスの死因についての変更

◇原作
 アレックスの死因が原作では自殺だったのに対し、映画では最初作戦中のPTSD(パニック障害)発症によりクラヴィスによる殺害に変わっている点。
 原作では、冒頭の*2暗殺作戦後、アレックスは車の中でガス自殺をします。彼が自殺に向かう兆候は、作戦中のアレックスの言葉にヒントがあります。


「地獄はここにあります。頭のなか、脳みそのなかに。(中略)ぼくらはアメリカに帰って普通の生活に戻る。だけど地獄からは逃れられない。だって、それはこの頭のなかにあるんですから」

 カトリックであるアレックスは地獄の存在を信じており、それは頭のなかにある、と言います。主人公たちは彼の言葉を聞き流しますが、彼の自殺後、後にクラヴィスはこの言葉の意味を思い知ることになります。
 主人公たち特殊部隊は戦闘の際、相手がたとえ幼い子供であっても躊躇いなく殺せるように、また作戦という名の殺戮を行った後普通の生活に戻るために、戦闘適応感情調整によって殺人による心的ストレスを感じないよう「調整」されています。その為クラヴィスら特殊部隊隊員は「人を殺す」ことに躊躇も罪悪感もなく、任務という名の下で殺人を行うことが出来ます。
 遺書など残さず死んだアレックスについて、クラヴィスは「地獄から逃れられなかった」ためにアレックスは亡くなったのだと推測します。それは、感情調整を受けた軍人であれば本来背負わなくてもよい筈の「殺人の罪」に、耐え切れなかったが故の死であると。そして自分にはまだ「地獄」がやって来ないこと、人々を殺した罪の意識がやって来ない事をクラヴィスは実感するのです。
◇映画
 映画ではアレックスは自殺ではなく、クラヴィスによって殺害されます。
 冒頭のグルジアでの作戦中、クラヴィスが作戦対象である元准尉を捕えている場所にやって来たアレックスは、戦闘適応感情調整されていたにも関わらず、動揺し、PTSDの発作を起こし、元准尉を銃殺します。そこで危険を感じたのか、クラヴィスはアレックスを射殺するのです。
 まず、ここで自分は、いきなりアレックスに発砲するクラヴィスに驚きました。虐殺器官という作品では人の命の軽さを強調する描写が多々ありますが、それでもいきなり同国の、しかも同僚の兵士に銃を向けて殺すというのは、自分はかなり突飛な変更に感じました。原作では感情調整を受けても地獄から逃げられない故に死を選んだアレックスが、映画では感情調整に失敗したゆえに殺されてしまうことになっている……。
 そしてこの変更により、クラヴィスが「これまで仕事で行ってきた殺人への罪の意識の所在に対する疑問」という原作の一つのテーマが薄まることになります。
 ちなみに映画ではここはまだほんの冒頭部分。映画の最初の段階でこの変更に対する強烈な違和感を感じてしまった私は、そこからこの映画がどこでこの変更に対する辻褄合わせをしてくるのか、見守る気分で鑑賞する姿勢にならざるを得なくなりました。

2.クラヴィスとウィリアムズが観ていた番組内容の変更

 最初の作戦後にウィリアムズがクラヴィスの家を訪れ、一緒に宅配ピザを食べながら観るTV番組が変更されている点。原作では「プライベート・ライアン」の冒頭15分であったのに対し、映画ではアメフトの試合中継になっていること。
 原作で二人が観ていた番組は「プライベート・ライアン」の冒頭15分でした。この映画を観たことがある人は御存じのとおり、「プライベート・ライアン」の冒頭15分といえば、史上最大規模の上陸作戦であるノルマンディー上陸作戦の、もっとも苛烈な上陸場面の部分にあたります*3。陸に上がった兵士達が銃弾の雨にどんどん倒れていき、爆撃で手足は吹っ飛び、海は血の色に染まり、屍の上に屍が築かれていく……。そんな残虐な戦闘場面を、ウィリアムズとクラヴィスはピザを食べながら平気で観る。戦場のリアリティから切り離されて、ドミノピザの普遍性を享受するアメリカ人である二人(自らも軍人であるにも関わらず)。この構図を描くことで、二人は戦争という物騒な状態から切り離された平和な状態で、ドミノ・ピザに食らいつく普通のアメリカ人である事が強調されます。
 対して映画では、二人が観ている番組はアメフト(NFL?)の中継番組となっています。ここで二人はアメフトの選手を観ながら「過保護なルールだ(うろ覚え)」みたいなことをと呟きます。自らも過保護に手厚く守られた軍人であることを、自嘲するような言葉。普通のアメリカ人の日常風景……といった感じの何気ない日常シーンに、映画ではなっています。
 この場面における「日常性」「生活の普遍性」の原作と映画との強調の仕方の違いによって、受ける印象が随分と変わっている気がしました。
(ちなみに原作ではここでアレックスの死についての話も入る)

3.ユージーン&クルップス社の描写の省略

 原作ではウィリアムズと共にクラヴィスペンタゴンに召集されるシーンで、ユージーン&クルップス社のエリカ・セイルズ女史がプレゼンするシーンがあるが、映画では実はジョン・ポールの協力者である上院議員(院内総務)とエリカの挨拶のシーンのみになっている点。
 原作ではユージーン&クルップス社という戦争代行業者の存在をしっかりと描写しているため、アメリカ国外の戦争により回っている経済があること、そしてその利権を握っていたのが上院議員であることが分かりやすくなっています。
 しかし、映画では眼鏡をかけたエリカ・セイルズ女史は一瞬登場しますが、ユージーン&クルップス社の詳細な業務説明などが無いため、ジョン・ポールの背後で動いていた上院議員らの利害関係者の理解が難しくなっています。

4.クラヴィスの母や家族の描写の大幅な削除(重要)

 原作では冒頭から最後までクラヴィスを苦悩させる母の死や家族に対する部分が、映画では全て省かれている。これが原作が持つ「物語性」を薄くしている最大の点。
 原作では、最初からクラヴィスは母の死と「死者の国」の悪夢に悩まされます。これまでクラヴィスは仕事として何人も殺してきた。しかしそれは彼にとって「仕事の為に」「命じられ」「感情を調整され」て実行してきた殺人であり、リアリティの無い死でしかなかった*4
 しかし、母の死だけは違った。交通事故で酷く損傷を受け、生命維持装置で命を繋ぎ止めている状態になったクラヴィスの母。彼女の生命維持装置を止める決断をしたのはクラヴィス自身であり、母の死だけは「自分が犯した罪」であるという意識を、彼は持ち続けます。また、父の死により二人家族となり、母の視線の息苦しさを感じて生きてきた彼は、どこかで母を疎ましく思っていたのではないかと、母の死後に自責することになります。
 一方映画版では大胆にも――おそらく映画の尺的な制約で――クラヴィスの家族の描写は一切削除されています。これにより、下記に述べるとおり、クラヴィスのルツィアに対する執着の理由付けや、最後にクラヴィスがエピローグでとった行動の理由が薄くなり、原作が持っていた一人称の濃い物語性が薄くなった印象を受けました。 

5.クラヴィスのルツィアに対する執着の理由付け

 上記4の通り、映画ではクラヴィスの母の死に関する描写が省かれている為、クラヴィスがルツィアに執着する理由付けが弱くなっている点。
 原作では、ルーシャスの店でルツィアは自分の罪、つまりサラエボで核爆弾が爆発し、ジョン・ポールの妻子が亡くなった時、不倫関係であるジョンと寝ていた最中であったという赤裸々な過去を話した(ここまでは映画も同じ)後、今度はクラヴィスが母の死についてルツィアに打ち明けます。それはルツィアが自分と同じ「取り返しのつかない」不可逆な罪(つまりクラヴィスが母の生命維持装置を止めたこと)を持っているという点に、共感を覚え、彼女に惹かれたから。そして母の死を選択した過去を告白したクラヴィスに対し、ルツィアはその行為を肯定します。クラヴィスは、ルツィアとの会話の中で、母の死の責任を自ら背負った事を自覚し、救いを見出します。それにより、更にクラヴィスはルツィアに自分が喋ってはいない他の罪(仕事で多くの人を殺して来たこと)についても話し、彼女に裁かれたいという強い欲求を持つようになります。これが、原作でクラヴィスがルツィアに執着し、追い求める大きな理由でした。
 しかし映画では、クラヴィスの母の死についてのエピソードは省かれているため、なぜ罪を告白したルツィアにクラヴィスが惹かれるようになったのかが、分かりにくくなっています。ウィリアムズはクラヴィスにルツィアについて「あの女はファム・ファタール(運命の女)だ」みたいな事を言うので、クラヴィスがルツィアに惹かれる理由が、ファム・ファタールと出会って恋に落ちた……ような、ありふれたロマンティック理由に見えてしまい、やはり原作よりも理由付けが弱くなっている印象を受けました。確かにアニメのルツィアはかなり魅力的な女性に描かれてはいるのですが……。
 ちなみにアニメのルツィアのキャラクターデザインは、大きな憂いのある瞳の女性という、原作で自分が抱いていたイメージに近く、この点は凄く良かったと思っています。(少しセクシーすぎるような気もしつつ)

6.ジョン・ポールの死の変更と、エピローグの曖昧さ(重要)

 原作では他の兵士にあっけなく殺されたジョン・ポールですが、映画ではクラヴィスがジョンを殺害します。これは個人的には良い改変だったと思います。映画ではその他の点でも、クラヴィスとジョンは対極的な存在であることがたびたび強調されている印象を受けますが、物語の終盤、ルツィアという一人の愛した女性を失った事で、彼女の死を媒介に、クラヴィスとポールは初めて同じ方向に結びつきが出来ます*5。そこでクラヴィスは、自分の写し身ともいえる存在となったジョンを自らの手で殺害する事で、ジョンの遺志を受け継ぐ決意を感じさせる演出となっています。

 ……と、ここまでは良いのですか、しかし映画では、この後の場面(原作のエピローグにあたる場面)で、このクラヴィスの決意によって起こす行動の描写は、ずいぶんと曖昧な形で表現されています。
 原作のラストのエピローグでは、クラヴィスが議会公聴会の後に軍を辞め、ジョン・ポールの虐殺の文法の生成エディタを手に入れ、アメリカ国内で虐殺を引き起こそうとします。つまり、ジョンがアメリカを守るため他国で引き起こしてきた虐殺を、クラヴィスはアメリカ以外の世界を守るために、虐殺の文法を英語という覇権言語で使用するという選択をし、実際に実行するという、衝撃的な結末を原作では迎えます。
 一方映画では、議会公聴会で軍の機密事項を喋り告発される場面までは明確に描かれているがものの、その後のクラヴィスが起こした行為についての描写が曖昧*6で、何をしているのか原作を読んでいない人は分かりにくくなっています。
 また、原作ではクラヴィスがこの行動を起こすに至るもう一つの強い要因があります。それは、母の遺品から息子である自分への執着を見出せなかったことに対する虚無感から、自分が見ていた世界の覚束なさを感じたということ。しかし映画では描写の曖昧さに加えて、この母の遺品エピソードも無いため、最後にクラヴィスの起こした行動の経緯が非常に分かりにくくなっている印象を受けました。

 

7.おわりに

 (他にも変更点は挙げられるのですが)主に上記のような理由から、原作を読んで行った自分は細部細部の、しかし大きな違いについ意識が行ってしまい、混乱し、アニメ映画単体として入り込みきれなかった……。
 そもそもあの原作の思想性、物語性をすべて映像化するのは困難なのは自分も予想していた通りで、アニメ映画化にあたり、ミリタリーSF的な部分と、思想的な描写部分を虐殺文法周辺に絞って映像化したのは、きっと良い選択なのだろうと思います。しかし、良い選択であるがゆえに、自分は映画では描かれなかった原作のエッセンスについて、考えざるをえなくなりました……。

 なので個人的には、もういっそ原作を知らない状態で観たかった。あるいは映画ではなく、1クールのTVアニメとして放映してほしかったなあ……と思ったりしています。
 原作を全く知らずに映画を見た人、原作を読んで観たほかの方の感想を、もっと知りたいなあ……などと思いながら、この記事を認めたのでしたん。

 

◼追記

 そういえば、関西では今週末に映画『ハーモニー』が放映するので、そちらも観てみようと思います。 観逃していた「アイ・イン・ザ・スカイ」も、観たくなりました。

虐殺器官〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

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ソシュールを読む (講談社学術文庫)

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 言葉と無意識 (講談社現代新書)

 

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*1:人工筋肉やシーウィードやオルタナ等のガジェットとか

*2:映画ではグルジアでの

*3:正確には映画では冒頭から約20分間続く

*4:父の自殺でさえも

*5:この結び付き方って、凄くホモソーシャル的で、伊藤計劃らしくは無いんですが

*6:付箋で単語をボードに貼り付けるような形で、虐殺文法エディタを利用している風の描写はあるにしても……

ジェンダー非対称なこの世界で、「幕末Rock」が男性キャラクターの脱衣を打ち出したということ

 2月末の幕末Rock超超絶頂☆雷舞から約ひと月、皆様いかがお過ごしでしょうか。私はといえば、雷舞ロスが日増しにどんどん深刻になり、いまだ魂の一部はまだパシフィコ横浜に残ったまま帰ってくる気配が無いばかりか、夜寝る前にふと再び雷舞の感動を思い出しては、目に涙を浮かべる…という情緒不安定な日々を送っています。

  ところで最近、2016年4月号の「美術手帖」の『メンズ・ヌード』特集において、「幕末Rock」が取り上げられた事がTwitter等で話題となりました。

 もともと裸体表現に関心があったのもあり、私もさっそく購入し、ドキドキしながら鑑賞しました。(ちなみにこの4月号かなり好評のようで、Amazonでは一時的に在庫切れ状態でした) 

美術手帖 2016年4月号

美術手帖 2016年4月号

 

  この「美術手帖」4月号において、BL研究家の金田淳子先生と、異色の温泉番組「メンズ温泉」を手掛けた湯山玲子さんの対談、「眼差される男のハダカ」の中で「幕末Rock」は触れられています。いわく『盛大に脱いでユーザーをもてなす作品』として、金田先生が下記のように紹介されています。

たとえば、ゲームの幕末Rockでは(中略)、演奏を始めると服が脱げるんです(笑)。裸自体はとくに嬉しくないけど、「心ゆくまで楽しんでくれ」っていう制作陣のもてなしに好感がもてる。(2016年4月号「美術手帖」p.63より)

 美術手帖のつるつるとした手触りの良いページを捲っている時、ふと、ある感覚が指先から蘇ってきました。

 それは、初めてアニメ「幕末Rock」で脱衣を観た時の、稲妻が落ちたような感覚―…平らな液晶テレビ画面に、突如キャラの服が弾け飛び、主人公の坂本龍馬の肌が現れた瞬間。その衝撃を、今回私は美術手帖を読んで、まざまざと思い出していました。

 「そこまで?」「服が脱げただけで?」と思われるかもしれませんが、実際、私にとっては頭を鈍器で殴られたような鋭さがありました。

 それにしても、いったいあの時、私は何に対してあんなに衝撃を受けたのだろう…。美術手帖の記事をきっかけに、すこし立ち止まって考えてみることにしました。

 

幕末Rockの脱衣とは」

 前述のとおり、2015年夏にアニメ版「幕末Rock」と衝撃的な出会いを果たした私は、その後原作であるゲーム版「幕末Rock」をプレイし、その続編である「幕末Rock超魂」、そしてその他メディア派生作品を辿り…秋になる頃には立派な贔屓(と書いてファンと読む)へと成長を遂げました。

 このブログを読んでいる方は幕末Rockの事を既に十分ご存じかと思いますが、敢えて「脱衣(と書いてパージと読む)」についてここで触れておきます。

 「幕末Rock」シリーズは、2014年2月27日にマーベラスAQLから発売されたPlayStation Portable用ゲームソフトから始まります。その後同年夏にアニメ化、そして秋には続編ゲーム「幕末Rock超魂」が発売されます。更に同年年末には舞台版である超歌劇(ウルトラミュージカル)が上演され商業的にも好評を博し、更に更に、その翌年2016年夏には超歌劇が再演され、現在に至る…というのが、大体の流れです。(ちなみに作中でキャラの歌・声を担当された声優さんが出演されたライブも過去二回開催されています。前回のブログではレポを書きました。)

 さて、そのストーリーについて。舞台は、300年の長きに渡り徳川幕府が天歌泰平(ソング・オブ・ピースフル)による支配を続ける幕末の世。天歌(ヘブンズソング)以外の音楽を禁じられた世界で、主人公である坂本龍馬はギター一本を片手に、ロックご禁制の風が吹く京へと上ってくる。そこで志士(ロッカー)である桂小五郎高杉晋作や、幕府公認愛獲(アイドル)新選組土方歳三沖田総司に出会い、歌の力により世界を変えていく…というお話。

※突然ですが、ここまで説明して「イマイチ分からん」とか「ちょっと気になるな…」と思った未プレイの方は、現在スマホ版がありますのでDLして是非プレイされる事をお奨め致します(幕末Rockはいいぞ☆)。*1

 そんなわけで、ゲーム「幕末Rock」では、物語が進むアドベンチャーゲームと、キャラソンに合わせてボタンを押して得点を稼ぐリズムゲームという、二つのパートによってストーリーが進みます。そして服が脱げる脱衣(パージ)は、このリズムゲーパートの中で起こる現象です。

 ユーザーがタイミングよくボタンが推すことで「シャウトレベル」がどんどん上がっていき、その得点によって「シャウトレベル1」から大胆な脱ぎっぷりの「シャウトレベル4」まで変化していきます。*2

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 このように、原作ゲーム本編において主人公である坂本龍馬ら男性キャラクターが脱衣(パージ)する場面は限られており、実はほんの一部です。しかし、アニメ版のEDや各イベントのキービュアルやグッズなどでは、脱いでいるキャラ絵が多く、公式側の「男性キャラの裸を推していこう」という気概がビンビン伝わってきます。*3

 それにしても、なぜ私は「幕末Rock」の脱衣にそんなに衝撃を受けたのでしょうか。

 ストーリーと関係の無い所でいちいちキャラが脱衣するということ。それは、昨今の男性向け作品(特に萌えアニメ等)ではありふれた描写です。昔から脱衣麻雀ゲームなんかもありましたし、ラノベ原作の萌えアニメだと、大体開始3分位でヒロインがパンチラ等のラッキースケベをキメてくれます。

 しかし、それはあくまで女性キャラクターの話。服が脱げるのが男性キャラクター、特に女性向け作品であれば、話は違ってきます。

bitecho.me

 美術手帖 2016年4月号の冒頭に掲載されている「Editor's note」では、男性ヌードについて下記のように述べられています。

メンズ・ヌードと対になるのは本来、ウィメンズ・ヌードだろう。でも、ヌードという言葉自体に女性の裸体(ウィメンズ・ヌード)を連想する人が多いのではないだろうか。ここには裸体にまつわる女性と男性の非対称性がある。

 現在の日本の社会では、女性の身体を消費する事と、男性のそれを消費する事。一見性別を入れ替えただけの行為が、同じように受け止められ、行われていません。そしてそこから、性的消費をめぐるジェンダーの非対称性が見えてきます。

(これから先は「消費」という単語を多用しますが、これは一言で言えば「他者をその人の承諾のあるなしに関係なく、コンテンツ化して楽しむ」の意で使用します。)*4

 ジェンダー非対称な世界」

 普段私を取り巻く日常の光景を見渡してみると、コンビニでは男性向けエロ本やエロ漫画誌が置いてあり、電車のつり革広告には水着グラビア広告があるくらい(最近は減ったけど)、女性の裸体を消費する目線にあちこちで気づきます。

 しかし、コンビニには女性向けエロ漫画は一冊も置いていませんし(レディコミがたまにある)、電車内の広告で男性の半裸のグラビアを目にする機会もあまりありません(たまーに某女性誌の特集を目にする)。

 様々なセクシャリティ/性別の人が存在している公の空間に、女性の身体を消費する目的のモノ、つまり特定のセクシャリティの人だけが楽しめるものが、侵入を許されている。そういう光景を日常的に目の当たりにしていると、女性性を性的に消費する事は、ずいぶん社会から容認されてるんだな、と感じます。

 そしてその一方、公空間では男性を性的コンテンツにしたものを目にする機会が極端に少ない…。女性性を消費する表現物の氾濫ぶりに比べると、あまりに少なすぎて、男性の身体への性的なまなざしというものは、この世界にはそもそも存在しなかったかのように思えたりもします(もちろん、実際にはあるにも関わらず)。

f:id:mayringooo:20160326222044j:plain*5

 美術手帖を見ながら、なぜ現代では男性の裸体がアートの対象とされる事が少ないのかについて、個人的に思う理由がいくつかあります。その一つには、男性の裸体=嘲笑の対象、という大衆の総意があることで、男性の裸体が低俗なものであるとの認識があったせいではないか、と思います。

 男性の裸体は、美やエロスの対象というよりも、しばしば現代社会の中で、嘲笑の対象として扱われてきました。実際、今でもテレビ等大衆向けメディアで目にする男性の裸体は、セクシーな局面ではなく、お笑い番組等で笑いの対象として登場する事が多いかと思います。

 低俗である=描く価値が無いもの、描いても価値を認められないものという認識が、芸術や文化的な表現において、男性の裸体表現を生み出す事を阻害していた面があるのでは無いでしょうか。

 同時に、男の裸体が嘲笑の対象となる時、嗤われているのは男性の裸体そのものだけではないように思います。男性の裸体が嗤われる時、それを欲望の対象とし、価値を認める人々をも、世間は嘲笑しているのではないか。つまり、男の裸体を下劣で価値が無いものとして蔑むことにより、それを性的な目で見る人々をも嘲らっているのではないか…と私は感じる瞬間があります。

 そして更に、男性の裸体を性的に消費する人々が、異性愛者の女性やゲイであり、社会的にマイノリティの立場であるということ…意見を封じ込めるのが比較的易しい人々である事が、男性身体への欲求を更に見えにくくしています。

f:id:mayringooo:20160326222407j:plain*6

  また、女性の側にも、男性の身体を消費する事に対して、自らブレーキをかけようとする心理があるようです。

 その背景の一つには、「男性の身体を消費していると他人に知られる事は、消費する女性にとってはリスクになりえる」からだと思えます。

 先程、「公共空間では男性を商品にする女性メディアをあまり見掛けない」と書きましたが、実際には女性向けの男性アイドルや男性俳優を特集した雑誌や、BL雑誌等、男性を性的な目で追いかけているメディアや作品は数多くあります。しかしそれは多くの場合、欲しい人が探さないとアクセスしにくい場所に置かれています。日常生活でそれを求めていない人がうっかり遭遇する事は、たまにあっても、男性向けのそれよりはかなり少ないと思われます。

 女性が世間で「いやらしい」とされるもの、エロいものを消費している事がバレると、おかしな事に、今度はその女性が「エロい女」として消費の対象にされる事があります。エロい女なのだから欲望をぶつけてもいいと思う人はいて、そういう人に自分が性的コンテンツを消費している事がバレると、ハラスメント等の対象にされてしまったりすることがある。

 そういう危険性から、自分が欲望を持っているという事を隠そうとする心理が働き、たとえ自分が欲しい性的コンテンツが目の前にあっても、人目につく場所であれば、手を伸ばそうとしない事が多くあります。

 

 また二つ目に、「女性が男性を性的に消費する時、どこか罪悪感を覚えてしまう」人が、少なくないという事があります。

 たとえ自分と無関係の他人やフィクション世界の事であっても、自分と同じ属性を持つ対象が、他人から性的消費されるのを目撃する時、不快感を覚える事があります。

 実際自分の過去を振り返ってみると、高校生位の頃に自分と同じ年頃の少女たちが「女子高生」としてカジュアルに消費される現象は、当時相当気持ちが悪く感じていましたし、当時、電車の中で顔をジロジロ見てくるおじさんの視線を感じるたび、吐き気を催していました。

 女性には、成長の過程で「望まない形で他人の性的消費の対象になる時の不快感」を経験した人が多く、それを知っているからこそ、他者を性的消費しようとする時、罪悪感を覚えてしまう人が多いのかもしれません。

  私は日頃BL等の女性向けメディアでさんざん男性性を消費していますが、それでも上述のような社会の風潮に息苦しさを感じてきました。

 たとえば面白い一般向け漫画やアニメやゲームに出会った時、爆発的な萌えを体験しながらも、男性キャラを性的で目で見ることに、どこか引け目を感じる瞬間がありました。

 「その抑圧自体が間違いなのだ」「それは偏見を捨てきれない自分の弱さだ」と思いながらも、その消費の仕方が「正しくない」のではないかと自問し、心の底から楽しめない事があったのです。

 

ジェンダー非対称なこの世界で、「幕末Rock」が男性キャラクターの脱衣を打ち出したということ」

 しかし2014年に運命的に出会った「幕末Rock」という作品は、私のそんな戸惑いを、一瞬で吹き飛ばしてくれました。

 「幕末Rock」は、脱衣という表現を打ち出すことにより、男性裸体への欲望を全面的に肯定してくれたのです。

 ジェンダー非対称なこの社会において、幕末Rockが脱衣という概念を全面に推したということ、「どんどん男性キャラの裸体を消費しちゃってOK!」というメッセージを発したことは、私のような人間にとっては、大変意義がありました。

 制作側が明確に男性裸体を消費する事を推奨しているのですから、贔屓(ファン)である自分が後ろめたさを感じている場合ではありません。むしろ出されたサービスを積極的に受け取る事こそ、贔屓として推奨されるべき姿勢。だとすれば、私はどんどんそれに乗っかって行こうじゃないか…と思うようになりました。

  「男性キャラクターが脱ぐこと自体が嬉しいのか」と問われると、自分は必ずしもそうではないと答えるでしょう。

 しかし、女性の性的な欲望が無いように扱われ、男性性を消費する事に息苦しさを感じる事が多い社会で、男性の脱衣を打ち出し、その欲望を承認するという作品があるということ―…それは非常に革命的であり、だからこそ「幕末Rock」という作品には、必ず「脱衣」が必要である。私はそのように思っています。

 

 …と、ここまで脱衣の事ばかり語ってきましたが、実はそれは「幕末Rock」の魅力のほんの一部に過ぎません。

 主人公の坂本龍馬らが仲間を得て成長し、音楽の力で徳川幕府の支配を破っていくというストーリーは少年漫画的な熱さがありますし、ゲーム内のロック曲は既存のキャラソンという枠を超えるレベルのクオリティですし、各キャラクターは皆それぞれの物語を背負っており、プレイする度に新たな発見があります。またアニメや舞台などの他メディア化作品もそれぞれの魅力があり、ここで「幕末Rock」の良さの全てを語る事はできません。

 もしここで未プレイの方がいらっしゃれば、ぜひ一度プレイをして頂きたい。現在はPSPPSvitaのみならず現在はスマホ版もリリースされているため、気軽に気軽にDLすることができます。*7

 興味を持たれたら、ぜひやってみて下さいね。幕末Rockは、いいぞ。

 

 

 

 

<おまけ>

 ところで、ゲーム「幕末Rock」は発売当初、恋愛要素が無いにも関わらず、「乙女ゲーム」として名乗りを上げていたという過去があります。

 「幕末Rock」はストーリー的には少年漫画的な熱さがあり、また絵柄や曲も女性向け作品によくあるようなキラキラ感や甘さは控えめで、女性のみならず様々な層のユーザーが楽しめる懐の広い作品です。その為、当初乙女ゲームとして世の中に喧伝された事は、マーケティング的には失敗だったのでは…という意見を目にすることがよくあります。

 確かにこの宣伝方法により幅広いユーザーへのアピールを失った面はあるかと思いますが、私はこの「乙女ゲーム」として作品を打ち出したことは、公式からの「この作品を女性ユーザーに楽しんでほしい」という強い意志の表われだと解釈しています。

 この点、美術手帖に『盛大に脱いでユーザーをもてなす』と評されていたのは非常に言い当て妙で、乙女ゲームと名乗っていたのも「女性ユーザーに喜んで貰いたい」という意思が働いた結果なのかなあと思うと、なんだか好感が持ててしまうのでした。

*1:幕末Rock 公式ポータルサイト

*2:ただしPSP版は3まで

*3:先月2016年2月28日にパシフィコ横浜で開催された「超超絶頂★雷舞」でも、裸を全面に推したキービジュアルが発表されました。

*4:ざっくり過ぎるかな…と思ってネットの海を検索したら、私の定義と非常に近い定義をされてる方を発見しましたので、ここでいう消費、性的消費の詳細な定義はこちらを拝借させて頂きます→https://twishort.com/Ltuic

*5:グイド・レーニの「聖セバスティアンの殉教(1615-16)」。聖セバスティアンはルネサンス期によく描かれた男性裸体の主題であり、後にゲイ・アイコンとなった。

*6:ピエール&ジルの「メルクリウス(2001年)」

*7:公式サイト http://bakumatsu.marv.jp/sp/ スマホの無料版もあり一話を試しにプレイすることができます

「幕末Rock 超超絶頂★雷舞」が描いた徳川慶喜少年の魂の孤独と救済【雷舞レポ】

 2016年2月28日、半年間待ちに待った超超絶頂☆雷舞に、ついに行ってきました。昼の部も夜の部も本当に本当に最高で、昨日からまだずっとフワフワしているような状態です。

break-out.jp


 どの曲も色々と思う事はあり、全部書いていたら書ききれないのですが、特に「宙ノ翼」と「絶頂SPIRAL」に関しては、帰ってからまた聴いてずっと号泣している始末なので、ここで吐き出させて頂きます。


 雷舞の徳川慶喜(CV:斎賀みつき)の尊さは、一体どこから来るのだろうと、昨日からずっと考えていました。
 初めて「宙ノ翼」を聴いた時、切なさが胸に込み上げてきたのを覚えています。
 強大な力を持って生まれたが故に、生まれながらの孤独を背負う運命になった徳川幕府十五代目将軍・徳川慶喜少年と、彼に寄り添う大老井伊直弼―…二人の関係には胸に迫るものがあり、それがこの歌詞に見事に表されていると感じました。
 しかし、歌詞の中で示されているように、苦悩する慶喜の問いに、直弼が直接的な形で答える事はありません。それは、慶喜という少年の孤独、運命を救えるのは、直弼ではないからであり、また結果的に慶喜を孤独に追いやった原因が直弼にあるからでしょう。
  幽閉時代の慶喜が一番慕っている人間は、間違いなく直弼です。しかし、慶喜の暗殺を企てる人々をはじめ、彼へ向けられるあらゆる悪意や障害を取り除いてき た直弼は、慶喜を守りたいがあまり、逆に彼を孤独の檻の中に閉じ込めてしまった。慶喜の境遇に心を痛め、誰よりも傍にあろうとした直弼こそが、慶喜を鳥籠 の中に閉じ込めた一人であり、だからこそ直弼は「この孤独に打ち勝つにはどうすればいいのか」という慶喜の声に答えられるはずがなかった。
 この 慶喜の問いは、直弼にとってはある意味非常に残酷な言葉です。慶喜を守る為に、彼を将軍に就け、幕府の天歌泰平による支配を続けるという一貫した行動が、 慶喜を孤独に追いやっている事を、直弼自身は自覚している。けれど、彼は自らの魂と引き換えに邪悪で強大な力を得、慶喜の障害となりうる世の乱れを薙ぎ払 う事は出来ても、自分自身孤独に生きてきた直弼は、彼を孤独から救うという方法が分からない。徳川幕府という堅牢な檻に閉じ込めるという方法でしか、愛し い人を守れない。しかしその代わりに、自らが慶喜の影―…色濃い闇となって、光である慶喜に彼は従者として寄り添おうとした。
 直弼と慶喜は、互いが互いを想っていても、その想いは決して向き合う事はない。自分へ向けられる親愛の眼差しを、直弼は決して受け止められない―…。

 …と、これが自分が「宙ノ翼」という曲に関して抱いていたイメージなのですが、今回の超超絶頂☆雷舞で慶喜役の斎賀さんの歌を直に聴いて、再び感情が爆発してしまいました…。
 今回は直弼役の安元さんが欠席という都合上、斎賀さんはソロVer.で歌われたのですが、その歌声の神々しさは、まさに孤独な少年慶喜そのもの。
 これまで耳に馴染んでいた直弼とのデュエット曲が、雷舞ではソロになった事で、慶喜の孤独感がいっそう強まったような印象を受けました。直弼を失い、一人に置き去りにされてしまった慶喜…そんな光景が目に浮かび、もう目から汁が…。
 直弼という鳥籠から解き放たれて、空を飛んでみても、魂は孤独なまま―…。
 ゆらゆらと客席を埋め尽くす真っ白な光は、慶喜がその絶対的な天歌の力で掌握した日の本の民の姿と重なり、ステージ上では孤独で美しい破壊の神が舞い降りてきたようでした…。
 

 で、これだけであれば「直弼、なんで慶喜様を置いて先に逝ってしもうたんや――!!直弼のアホアホ!」となっていた所ですが、ところがドッコイ、そうはならなかった!


 昼の部も夜の部も、「宙ノ翼」から一曲を挟んで披露されたのが「絶頂SPIRAL」。
  ご存じのとおり、幕末Rockの主人公である坂本龍馬(cv谷山紀章)と慶喜が歌うキャッチーでポップな楽曲。イントロがかかると同時に「ヨッシー!」と いう龍馬役の谷山さんの掛け声で慶喜役の斎賀さんが現れ*1、まるで龍馬に誘われて慶喜が歌い始めるようなシチュエーションか ら曲が始まった…!そして、宙ノ翼からは打って変わった、楽しげな慶喜の歌声…!
 高貴な白の装束を腕まくりして、髪を乱しながら、溌剌と笑顔で龍馬と歌う慶喜が、そこにはいました。直弼を失って自らの強大な力を制御できなくなり、孤独に空を彷徨っていた慶喜…けれど、彼はいま龍馬という仲間を得て、成長していた―…!
 その瞬間、私にとって(おそらく他の多くの観客にとっても)、この雷舞はただ生で演奏される曲を体験するだけの場ではなくなった。「宙ノ翼」で徳川慶喜という少年のどん底の孤独を描き、その後の「絶頂SPIRAL」で、彼がそれを乗り越えた事を示した、見事な演出。

   特に夜の部では、慶喜の「宙ノ翼」と「絶頂SPIRAL」の間に演奏されたのが、龍馬の「LAST SCREAM」だったいう事が、非常に大きな意味を与えてくれています。「LAST SCREAM」は原作ゲームにおいて、龍馬にとっての音楽とは何かという事を、高らかに宣言する曲。故郷の孤独な日々に倦み、ただ楽しく歌うために京へ上 がって来た龍馬は、超魂團の仲間と出会い、音楽が人を救えるという事…『音楽の力』に目覚める。そして、音楽で世の中が変えられる事を知った龍馬は、それ を成す事が自分の存在理由(レゾンデートル)であるという、ステートメントを表明するのです。

 夜の部で、慶喜の「宙ノ翼」→龍馬の「LAST SCREAM」→二人で歌う「絶頂SPIRAL」という曲順で披露された事で、龍馬の力によって慶喜が孤独を乗り越えたことを、観客達に見せたのは、まったく見事な構成でした。


 超超絶頂☆雷舞は、単なるライブパフォーマンスという枠を超え、慶喜という一人の少年の魂の救済を、私の前で見せてくれました。孤独の深淵から立ち上がる少年の成長を、しっかりと表現してくれたのです。
 

 よかった…本当に良かったね、慶喜様…!

 ありがとう幕末Rock、ありがとう超超絶頂☆雷舞…!ほんとうに素敵でした…!

 

 

 

 

おまけ:「大人になった僕だけ見て欲しい」のは、やっぱり直弼への言葉なのかなあ…。

 

*1:たぶん夜の部でしたっけ