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日々の泡

ついったでは書ききれない感想など

【映画】『うつせみ』感想(2004年キム・ギドク監督)

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 観終えた時、なんとも言えない浮遊感にとらわれ、しばらく抜け出すことが出来なかった。
 これはまるで、荘子の「胡蝶の夢」ような世界だ。 私が蝶になった夢を見ていたのか、蝶が私になった夢を見ているのか……。現実と夢の間をさ迷う、不思議な陶酔感が、この映画にはあるのだ。

 主人公の青年テソクは、留守宅に侵入し、住人が戻るまでその家で暮らすという、変わった行為を日々しながら生きている。ある日いつものように、閑静な住宅街の大きな一軒家に忍び込む。そこで過ごしている所を、住人の主婦ソナに見つかるが、彼女は騒いだり警察に届けたりすること無く、テソクが家で過ごす様を一部始終見守る。
 顔に殴られた傷を負ったソナを見て、テソクは彼女がおそらく夫から暴力を受けていること、そしてそれにより深い絶望を抱えていることを見抜く。次第に、二人は奇妙な心の交流を交わすようになる。
 だが、出張中だったソナの夫が家に戻り、家に上がり込んでいるテソクを通報しようとする。しかし、ソナに暴力をふるう夫に怒りを感じたテソクは、ゴルフボールで夫に傷を負わせ、バイクでソナと一緒に逃亡する。
 そして、孤独なテソクと行き場の無いソナは、今度は二人で留守宅を渡り歩く生活を始める……。

 テソクとソナ、二人の主役の間には全く交わされる言葉が無い(テソクに至っては映画中に一言も台詞が無い)という異様さ。 しかし台詞の代わりに、二人の間に情が芽生えていく過程を、二人の表情や仕草、目線や距離感などを繊細にカメラが捉え、雄弁に観客に語る。
 孤独な男女の魂が結び付き、愛が生まれる様子は、いびつなのに美しく、切ない。

 逃避行は長く続かず、二人はやがて引き裂かれる……。しかし、ソナの前に、テソクは不思議な形で再び姿を現すことになるのだが、その登場の仕方がこれまた奇妙。観ている者は、それが現実なのか夢なのか分からず混乱する。後半のテソクの存在は、実体があるのかないのか、まるで掴めない陽炎のよう。

 全体を通して、青みを帯びた画面の色合いが実に印象的。観賞後は、幽玄の世界をさ迷ってきたかのような、不思議な空気感が身体に残っていた。

【映画】『ブエノスアイレス』(1997年)感想

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■評価
 ★★★☆☆(3.7/5.0点)

■感想
 「地球の裏側で繰り返される男達の愛と憎しみ」

 映画にはそれぞれ、その人にとって観るべき時があるようで、そのような時分に幸運にも巡り合い、観た映画は一生の宝物になる。だが、そうでない時に観た映画は、どんな名作であっても心の琴線に触れずに、忘れ去ってしまったりする。

 十年以上も前に観た『ブエノスアイレス』は、記憶が非常に曖昧だった。それはきっと、まだ子供だった当時の私にとっては、期が熟していなかったせいだろうと思う。

 しかし、本年度アカデミー賞作品賞を受賞した『ムーンライト』のバリー・ジェンキンス監督が多大な影響を受け、『ムーンライト』でもオマージュを捧げている事を知ったのをきっかけに、ウォン・カーウァイ監督の『ブエノスアイレス』が再び気になり、鑑賞するに至った。


 関係をやり直す為に、アルゼンチンのイグアスの滝へとボロ車で旅に出た、恋人同士のファイ(トニー・レオン)とウィン(レスリー・チャン)。だが行く途中で道に迷ったせいで喧嘩となり、二人は別れてしまう。

 旅費が尽き、香港に帰れなくなったファイは、タンゴのバーでドアマンの仕事を見つけるが、その店に愛人の男と一緒のウィンが偶然現れる。嫉妬に駆られるファイを横目に、何事も無かったかのように、姿を現しては消えるウィン。

 だがある日、愛人に殴られて両手が使えなくなったウィンが、ファイのアパートへ逃げ込んでくる。そして「やり直そう」とファイに言う。何度も裏切られているファイは、ウィンと体の関係を拒むが、自分のアパートで甲斐甲斐しく傷ついたウィンの世話をしてやる。本心では、蝶のようにフラフラしているウィンが、傷ついて自分の元から離れられないのが、ファイ嬉しくて仕方がない。

 だんだんウィンが回復してくると、ファイの居らぬ間に勝手にウィンが出歩くようになる。自分からまた離れて行くのではないかと怖れたファイは、ウィンのパスポートを隠してしまう……。

 そして、そんな不安定なファイの心情を、職場の同僚のチャン(チャン・チェン)は見抜き、ファイと親しくなっていく。


 と、上記にあらすじを書いたが、脚本が殆ど無く、即興的に撮られたこの映画には、大きな物語がない。

 カメラは、ファイとウィンの二人の感情のぶつかり合いと、すれ違いをひたすら追う。台詞は少なく、その代わりに、クリストファー・ドイルの鮮やかで影の濃いドラマティックな影像と、アストル・ピアソラの情緒的なメロディが、雄弁に二人の心情を語ってくれる。


 これまで、ファイはウィンから「やり直そう」と言う言葉をかけられ、何度も関係の修復を試みて、そして失敗してきた。だからファイはウィンに「やり直そう」と言われることを、どこか期待しながらも、激しく怖れている。

 それは、「うん」と言いたくないのに、ファイはウィンを結局拒めず、受け入れてしまうから。自分の中のウィンへの執着を、思い出すことになるから。そして、再び付合い出しても、二人の間に決定的な断絶があることを、思い知ることになるからだ。

 帰る場所があり、前へ進もうとするファイと、(おそらく)帰る場所が無く刹那的に生きるウィンは、噛み合わない。求めあっても、求めあうが故に、互いを傷付けてしまう。


 求めあうが故に泥沼にはまっていく二人の関係は、男同士の関係に限らず、普遍的な愛のテーマのように思える。

 だが、この映画は男同士の関係でなければ描けない、愛の葛藤がある。ウォン・カーウァイ監督が(トニー・レオンを騙してまで)、ゲイカップルにこだわったのは、まさにそこにある。

 たとえば、ファイとウィンがぎこちなく踊る男同士のタンゴや、タクシーの後部座席でウィンがファイの肩にもたれかけるシーンなどは、まさにその例だろう。(そしてこれらのシーンは『ムーンライト』でオマージュされている) 女と男が普通にタンゴを踊っても、あれほどの哀愁やぎこちなさを描くことは難しい。男同士でなければ完成しない画が、この映画には多いのだ。

 ファイは傷つきやすく繊細な面があるのに、ウィンの前では弱さを見せず常に男の虚勢を張り続ける。


 地球の真裏で繰り返される、愛と憎しみ。遠く離れた異国の地でなければ描けなかった、交錯する男同士の人生の一部分を、この映画を通して垣間見れた気がする。

【映画】『T2 トレインスポッティング』感想

◼評価
 ★★★★☆(3.9/5.0)

◼感想
「クズ男達のミドルエイジクライシス」

 ヘロインまみれの20代を描いた前作から20年。月日は流れ、再びマーク・レントンエディンバラへと戻ってくる。
 映画冒頭は前作と同じく、人が走る姿から始まる。思わず甦るあの疾走感。ただ前作と違うのは、走っているのがマークではなく見知らぬ中年男性で、車にはねられた挙げ句追われて捕まるのではなく、ウォーキングマシーンで勝手に転倒して意識を失ってしまうこと。ここで観客である私は、示唆的なものを感じとる。ああそうだ、マークはもう全力疾走して逃げ切れるトシじゃないんだよな、と。

 20年以来のエディンバラの悪友達は、一見(残念なほど)変わっていない。ベグビーは勝手に刑務所を脱走、スパッドは家族を一時得たもののヘロイン中毒に舞い戻り、シックボーイことサイモンは女を使って恐喝。前作で金を持ち逃げして、悪友達と縁を切った主人公マークすら、外国に逃亡するものの結局離婚し、何者にもなれないまま故郷へ帰ってくる。
 だが 彼らの中身が変わらずとも、20年の歳月は流れて、確実に身体は老いてしまった。再会したマークとサイモンは過去の話題に花を咲かせるが、ブルガリアから出稼ぎに来ている若いベロニカは、そんな二人を見て、彼らがまだ過去にすがって生きているのを見抜く。

 ある時ベロニカに尋ねられ、マークは"Choose Life"の意味を語る。この80年代の麻薬撲滅キャンペーンのスローガンの裏で、 マークの頭の中では、これまでの過去がフラッシュバックする。選べると思っていた若き日の事と、結局何からも抜け出せなかった現在、選べなかった過去の選択肢たち、そして手持ちのカードも尽きつつある今ーー……。
 マークがベロニカに語る"Choose Life"は若い彼女にエールを送るようで、自分の半生を振り返った後悔の言葉のようにも聞こえた。

 作中最もクレイジーな人物であるベグビーにも、過去の哀愁はある。若い頃友達と廃駅に忍び込んだ時に、話し掛けてきたアルコール中毒のオヤジを見て、ベグビーだけは笑えなかったというエピソード。そのオヤジはベグビー達を見て、「お前らは鉄道オタク(Trainspotting麻薬中毒者)か?」と訊ねる。実はそのオヤジはベグビーの父親だった。アルコール中毒者の父親が息子にヤク中かと訊ねるという、皮肉な構図。
 だがベグビーの息子は父親に似ず、大学に入り、人並みの人生を送ろうとしている。そんな息子を見て、怒りながらもベグビーは「自分の頃は選択肢がなかった」と振り返る。
 "Choose Life" だが誰もが人生で多くの選択肢を与えられている訳ではない。ベグビーも人生を選べなかった一人だった。

 "Choose Life" 20年前はまだ誰もが人生を選べると思っていた。だが、これが選べた筈の未来だったのか?マークら四人の姿には、老いの哀しさを感じざるを得ない。そしてそれに気づいても、選んできた道は引き返せない。

 ……と、これだけのストーリーであればただのダメダメ中年の話になるのに、何故だか彼らは未だカッコいいのが、最高にズルい。
 次から次へとかかるスタイリッシュすぎる音楽の洪水、動きのあるカメラワーク、散りばめられたユーモアが、悲惨なオジサン達の日々をカッコよく盛り上げちゃうのが、またズルい。頭の薄いダメなオジサンなのに、それでもマーク達はなんかカッコよいから、ズルい。

 最初にチャンスがあり、次に裏切りがあった。
 終わり方は前作と同じ構図だが、裏切る側と裏切られる側は変わっている。そして今回も、裏切りは希望の象徴に思えた。

 前作よりも更に各キャラクターの内面を深く描いた今作は、続編でありながらも、マーク達の原点を辿る物語になっていたように思う。

【映画】『はじまりへの旅』感想

◼評価
 ★★★☆☆(3.9/5.0)

◼感想
 「家族もの感動ロードムービーかと思いきや、観る人の良識を問う問題作」

 家族ものの感動ロードムービーかと思いきや、この映画は、観客である私達が普段信じていた価値観に対し、絶えず疑問を突きつけてくる社会的な問題作だった。
 常識とは何か?社会とは何か?幸せとは何か?教育とは何か……そんないくつもの疑問を、観客に投げ掛けてくる映画なのだ。
 当初私は、変わった家族の面白映画かと思い、鑑賞に臨んだ。だが、見事に予想を裏切られ、観た後はこの世界の見方が変わってしまったような、衝撃を受けることになった。

 序盤は、厳格な父親ベン(ヴィゴ・モーテンセン)と6人の子供達の、世間から隔絶された森の中での生活を描く。ナイフで鹿等の獣を狩ったり、自給自足の生活や、山の中を駆け抜ける等の訓練、そして読書を通して、父親は子供達に立派な教養と強靭な肉体を与える。その教育方法は独特だが見事で、学校に行かずとも、長男は名だたる有名大学全てに合格するほど。社会とは切り離され、一見奇怪な暮らしを営む一家だが、その生活は満たされているように見える。
 しかし、入院中の母が自殺したという知らせを受けたことから、家族は森を出て、母の遺言を果たすため、バスで遠く離れたニューメキシコへと旅立つことになる。

 中盤は、これまで森に籠って生活していた家族が、初めて大都会や普通の人々に触れ、彼らの暮らしぶりを知ることで、子供達(特に長男や次男)が違和感を覚える様子を描く。そして、それまで家族に感情移入をしていた観客である私も、彼らと同時に、世間の常識のおかしさに疑問を持つようになった。
 普通の人々からすれば、学校にも行かせず森の中で子供を育てたり、クリスマスではなくノーム・チョムスキーの誕生日を祝う家族は、カルトに見えるのも仕方ない。だがベンら家族の視点からすれば、一人で獲物も狩れず、本を読まずにゲームばかりする子供達の方が、生きる力の無い、か弱い人間達に見えてくるという不思議さ。
 この辺りで、私は正直自分の常識や、信じていた価値観というものを疑わざるを得なくなったのだが、それはベンら家族も(逆の意味で)同じだったようだ。

 後半、母の葬儀の乱入後に、旅を通して世間の常識に晒された家族は、あることをきっかけにバラバラになってしまう。
 そして、それまで強い信念で父親をやっていたベンは、これまで子供達に行ってきた教育が、実は自分の価値観を刷り込んでいただけの、ただのエゴだったのではないか、と迷いを持つようになる……。

 色んな家族の形がある、と時に人は言う。けれど、果たして社会は、世間の常識は、私達は、この映画の家族のような人々を、果たして実際受け入れることが出来るのだろうか……?

 その意味で、この映画は単なる家族愛についての物語ではなく、観る人の価値観や良識を鋭く問いかけてくる、ある種の問題作のように思えた。

【映画】『リップヴァンウィンクルの花嫁』感想

■評価

 ★★★☆☆(3.7/5.0点)

■感想
 「不器用に現代を生きる女の子のおとぎ話」

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 この物語は、現在の日本社会を生きる、とある不器用な女の子のおとぎ話だった。

 前半は、主人公の結婚とその失敗、転落を描く。
 皆川七海(黒木華)は派遣教員をやっているが、仕事は安定せず、友達も少なく、人生停滞気味。そんな時、SNSで知り合った鉄也との結婚話が持ち上がり、上手くいかない仕事から逃れるかのように彼と結婚する。主人公の結婚式に出席できる親族が少ないことを鉄也から咎められ、七海は「なんでも屋」の安室(綾野剛)に結婚式の代理出席を依頼して式を挙げる。しかし、新婚早々に鉄也が浮気し、義母から逆に浮気の罪をかぶせられた七海は家を追い出されてしまう…。
 七海にとっての現実世界は過酷で、幸せを求めて進んだはずが、彼女はどんどん不幸の沼へと沈んでしまう……。
 手持ちカメラを使用した撮影は、常に不安定な彼女の立場を表すかのように、淡々と進んでいく日々を映しとる。特に結婚式のシーンは印象的。新婦というその場の主役であるはずの七海を映すカメラの位置は遠く、あくまでも彼女が主体性を持って式に出ているのではないことを示す。感動的な親への手紙のシーンですら、寧ろ他人事のような空虚さがつきまとう。
 そして、このように流されるままに結婚した彼女は、浮気の濡れ衣を被され、家を放り出されて、迷子になるのだ……。

 だが、そんな前半の現実世界とは一変し、後半はおとぎ話のように、きらきらと繊細で鮮やかな日々が描かれる。
 東京という大都会の森を彷徨っていた七海は、まるで魔法使いに別世界へ誘われるかのごとく、安室によって、月給100万円という好条件の住み込みのメイドの仕事を紹介される。夢のような大豪邸で、七海は変わったメイド仲間の真白(Cocco)と共に暮らすことになる。
 洋館での生活は、現実感が無く、白昼夢を見ているかのよう。大きなリビングに、緑の濃い庭、クラゲや蛸やサソリが飼われているペット部屋。
 二人は橙色の夕陽を背景に一緒に自転車で出かけたり、瑞々しい朝の空気の中で庭で水を撒いたりと、「メイドごっこ」生活を楽しむ。二人を捉えるカメラは、前半とは打って変わって鮮やかで、柔らかい。特にクラゲの水槽ごしに二人の姿をソフトフォーカスで捉えるシーンは、実に幻想的。
 そんな洋館での生活を送るうち、七海は真白と友情を深めていくが、ある事をきっかけに、一見破天荒な彼女が持つ危うさと、彼女の抱えている秘密を知ることになる。そして、この夢のような生活の裏に別の真実があったことが発覚する……。
 真白が七海にとってかけがえの無い存在となったある日、たまたま通り掛かったウェディングドレスの店で、真白と七海はウェディングドレスを買う。花嫁になった二人の女の子は、まるで本当の結婚式を挙げるかのごとく幸せな一日を過ごす。だが、その時、実はおとぎ話の終わりが近づいてきていた…。

 七海の不器用さとピュアさを体現した黒木華、どこまで素か演技か分からない危うさを演じたCoccoの、二人の演技が素晴らしいのは勿論のこと、安室役の綾野剛の得体の知れなさも凄かった。おとぎ話に出てくる魔法使いの如く、物語におけるトリックスターとしての役割をしっかり果たしていた。

 タイトルの基となった『リップ・ヴァン・ウィンクル』(Rip van Winkle)とは、1820年に発表されたワシントン・アーヴィングによる、アメリカ版「浦島太郎」的ストーリーの短編小説だという。
 その名の通り、この映画は、一人の女の子が竜宮城のごとき豪邸で夢の生活を送り、最後には現実へと戻ってくる話だった。
 だが、浦島太郎とは違い、最後に主人公の七海の元には、真白と送った日々の証拠が手元にきちんと残っていた。真白の存在は彼女の中で永遠となって、七海を前へと進ませようとする。映画のクライマックスは、いつもと同じ日常が戻って来たようで、だが七海のなかには確実に変わった何かがあることを示唆する。そんな希望に満ちた終わり方だった。

■余談。生まれついてオタクの私は、実は重度のサブカルオシャクソアレルギーを持っているため、公開時、岩井俊二監督作品というだけでこの作品を避けていた。その為観るまでに一年もかかってしまった。鑑賞中にじんましんが出たらどうしようととか、余計な心配しながら観たのだけど、結果として観れて良かった。鑑賞後、食わず嫌いは良くないなと思い、このレビュを認めたのでした。

【映画】『LION ライオン 25年目のただいま』感想

◼評価
 ★★★★⭐(3.7/5.0点)

◼感想
 当たり前すぎて普段私達は意識しないが、人のアイデンティティというものは、往々にして、その人の過去の経験や、帰属意識から生まれ、形作られるものだ。
 では、もし自分の中に欠けた過去があったとしたら?自分が何者かが分からなくなってしまい、きっと混乱するだろう。そして、自分の中の欠けたピースを探そうと、必死に足掻くのではないか?
 この映画は、まさにそんな人間の姿を描いた作品だった。

 物語は大きく二部構成となっている。
 前半は、主人公サルーの幼少期を描く。インドの地方の村で、貧しいながらも母の愛情を受け暮らすサルーは、ある夜兄の出稼ぎについていき、そこで誤ってカルカッタに向かう電車に乗ってしまった事から、家族と引き離されてしまう。大都会カルカッタでなんとか生き延びているうちに、たまたま出会った人の善意でサルーは孤児院へと送られ、そこからオーストラリアへ養子に出される事となる。
 後半は、養父母のもとで育ったサルーが、インドの家族を探そうとする姿を描く。大人になったサルーは、あることをきっかけに、迷子になっていた過去の記憶を鮮明に思い出す。現在の幸せな暮らしの裏で、子を失って悲しむ母ら家族がいる事実を思い、胸を痛める。そして彼は、自らの失った過去を取り戻そうとするかのように、Googleアースを使い、自分の生まれ故郷を見つける作業に没頭する……。

 前半のサルーの生まれ故郷の光景は、実に印象的。黄金色の陽の光の中で、無数に舞う蝶の群れ、母の仕事場である岩山、兄と遊んだ大きな川、身を寄せあって暮らす集落の様子……。そしてこの景色こそが、大人になったサルーにとっては、忘れ得ぬ心の原風景であり、彼が取り戻そうとしたものだった。
 そして実際にサルーは、何十日(何百日?)にも渡るGoogleアースを使った捜索により、自分の生まれ故郷を特定することになる……。
 部屋に閉じ籠って話してくれない息子のサルーを案じていた養母(ニコール・キッドマン)が、実はGoogleアースを使って自分の生まれ故郷を探していたのを知った時、彼女は「旅をしていたのね」と呟く。まさしくその通り、サルーはGoogleアースというツールを通じて、自分の欠けた過去を探す旅に出ていたのだ。

 物語自体は予想通りの展開で、至ってシンプルなヒューマンドラマだった。しかし、この映画の魅力はそこではなく、主人公サルーと共に、彼の失われた過去を探す旅を追体験することができる点にある。
 おそらくこの映画の観客の殆どは、幼少期に親と引き離された事などなく、外国に養子に出された事も無い人達だろう。だが、私は主人公サルーに自らを投影し、鑑賞することができた。

 人は誰しも、自分が何者かが分からず、立ち止まってしまう瞬間が、人生に一度はあるのではないだろうか。そんな迷子になってしまったとき、欠けてしまった過去や、自分の心の原風景を見つめ直すことが、必要だったりする。
 今の自分が前へ進むためには、自らの記憶や心の風景を辿る旅へ出なければならない時がある。
 その意味では、この映画が描いたテーマは、誰にとっても普遍的なものであるように思う。
 もし私がこれからの人生で「迷子」になってしまったら、この映画のことを思い出すような、そんな気がする。

【映画】「しゃぼん玉」感想

◼評価
 ★★★⭐(3.5/ 5.0)

◼感想

 最初、ひねくれ者の私は「これってよくある、すれた都会の若者が田舎に癒されて、人生を見直す話でしょ?」と、思い切り高を括って鑑賞に臨んだ。
 そして実際、ストーリーの大筋はその通りだった。だが観終えた後、予想外にも胸にこみ上げる温かいものに包まれ、私は幸せな映画体験を得ることができた。
 それは実際、舞台の宮崎の山間部の自然の風景や、スマを始めとする田舎の人々、この映画が映す様々な要素が美しく温かで、実に魅力的だったからだ。主人公ではなくても、こんな環境に身を置くことになったら、きっと心を解き放ちたくなるに違いない……そんな風に思わせられる程、この映画が映す景色と人には、説得力があるのだ。

映画『しゃぼん玉』


 あらすじは、女性や老人ばかりを狙った通り魔やひったくりを繰り返す青年・伊豆見(林遣都)が、逃亡の末に宮崎県の山深い村にたどり着くことから始まる。山中を彷徨ううちに、怪我をした老婆スマ(市原悦子)を発見し、彼女の家に世話になることになる。最初は金を奪い逃げるつもりだった伊豆見だが、スマら村人たちと交流するうちに、人間らしさを取り戻していき、自ら犯してきた罪の数々を後悔するようになっていく……というもの。

 第一に、宮崎の山間部の村の風景が素晴らしい。山裾に広がる段々畑と、それを見下ろすスマが住む古い一軒家。早朝、藍色の空気の中で、山間を埋め尽くすように広がる雲海。温かな陽射しに映える木々の色を見ていると、緑の空気が肺に広がる心地さえしてくる。
 次に、なんといっても、そこに住む人々が温かい。ほっこりとした宮崎弁を喋るスマ(市原悦子)は、本当にその地で長年過ごしてきたような、リアルな存在感がある。誰にも信じられず孤独に生きてきた伊豆見を「坊」とスマは呼び、包み込むような優しさで接する。実際の孫のように扱われるうちに、伊豆見自身がスマに心を開いていく過程に、鑑賞中なんどもニッコリとしてしまった。
 脇役の存在感も素晴らしい。厳しいが面倒見のよいシゲ爺や、スマの友人である明るい老婆たち。傷を抱えてきて都会から戻って来た美知など、役者がのどかな風景にピタリとはまり込んでいる。
 市原悦子の自然な空気感をまとった演技は流石だが、主演の林遣都も良かった。少年性を残した彼の顔立ちが、見捨てられた子供から大人になりきれない主人公像にピッタリ。どこか幼さを残した彼だからこそ、スマが孫の様に愛情を注ぐのが分かる。

 そして、ひたすら癒しに満ちたまま話が終わるのかと思いきや、そうはならない所に、この作品の奥深さがある。
 物語の後半、人間性を取り戻していった伊豆見は、ある事件をきっかけに、ただのお人好しの婆さんと思っていたスマの過去、彼女の孤独と後悔を知ることになる。明るく優しいスマが、取り返しのつかない過去を抱えていると知った時、伊豆見は自ら犯してきた罪の加害性に向き合う決心をすることになるのだ……。

 きっと、こんな理想郷のような田舎は存在しないのだろう。ファンタジーなのは、よく分かっている。田舎には都会とはまた別の息苦しさ、田舎の生き辛さがあるはずで、それはこの映画では描かれない。
 しかしそれでも、こんな田舎ファンタジーが、たまにはあっても良いじゃないか。そんな風に思える、温かで優しい映画だった。