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日々の泡

ついったでは書ききれない感想など

原作を読んだ人が映画『虐殺器官』を観に行って大変混乱した話(感想ネタバレ有)

 先日、映画『虐殺器官』を観て来ました。そして感想はというと……観終えた時、正直ものすごく混乱しました。

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 自分自身は、伊藤計劃ファンという程ではないけれども、主な著作は大体読んだことあるよ……という程度の読者。(ちなみに『屍者の帝国』も『ハーモニー』も原作は読んでますがアニメは観てません)
 「映画観てみよっかなー」と軽い気持ちで思った時、数年前に読んだ『虐殺器官』の細部について忘れている部分が多かったので、一時間ほどサラッと原作を読み直し、記憶を蘇らせて、映画を観賞しました。
 映画自体の出来について言えば、あの原作から上手く映像化したな、という印象。具体的には、アニメとして作画が素晴らしいクオリティですし、ミリタリーSF的要素については丁寧に忠実に映像化されていたり*1、また声優さん達の演技も良く、きっちり誠実に制作された作品でした。お金を払って観る価値はある映画作品だと感じました。
 ……が、繰り返しになりますが、原作を直前に読み返していた自分は、原作を読んでいた故、細部細部で混乱し、映画に没頭できない瞬間が多かったのも、また事実でした。

 伊藤計劃という作家の魅力は、読者によって色々あるかと思います。その中で、あくまで自分にとっての伊藤計劃の魅力を語るならば、彼の「思想性」と一人称で語られる「物語性」を挙げたいと思います。
 しかし、原作からアニメ映画化にあたり――おそらくは映画の尺の都合によって――原作のある部分が大幅に削られ、新たな部分を加えられ、あるいは変更され……結果、自分が没頭していた『虐殺器官』の世界から大きく外れてしまった点がいくつかあり、それによって自分が抱いていた原作の世界観から、映画版が大きく乖離してしまった印象を受けました。これは「ぼくの物語」じゃなかった、という風に。
 なぜそのような印象を受けたのか、細かい点について、自分用の備忘録的にこのブログに記しておこうと思います。映画のストーリー順。(ちなみに思いっきりネタバレしています)

 

1.アレックスの死因についての変更

◇原作
 アレックスの死因が原作では自殺だったのに対し、映画では最初作戦中のPTSD(パニック障害)発症によりクラヴィスによる殺害に変わっている点。
 原作では、冒頭の*2暗殺作戦後、アレックスは車の中でガス自殺をします。彼が自殺に向かう兆候は、作戦中のアレックスの言葉にヒントがあります。


「地獄はここにあります。頭のなか、脳みそのなかに。(中略)ぼくらはアメリカに帰って普通の生活に戻る。だけど地獄からは逃れられない。だって、それはこの頭のなかにあるんですから」

 カトリックであるアレックスは地獄の存在を信じており、それは頭のなかにある、と言います。主人公たちは彼の言葉を聞き流しますが、彼の自殺後、後にクラヴィスはこの言葉の意味を思い知ることになります。
 主人公たち特殊部隊は戦闘の際、相手がたとえ幼い子供であっても躊躇いなく殺せるように、また作戦という名の殺戮を行った後普通の生活に戻るために、戦闘適応感情調整によって殺人による心的ストレスを感じないよう「調整」されています。その為クラヴィスら特殊部隊隊員は「人を殺す」ことに躊躇も罪悪感もなく、任務という名の下で殺人を行うことが出来ます。
 遺書など残さず死んだアレックスについて、クラヴィスは「地獄から逃れられなかった」ためにアレックスは亡くなったのだと推測します。それは、感情調整を受けた軍人であれば本来背負わなくてもよい筈の「殺人の罪」に、耐え切れなかったが故の死であると。そして自分にはまだ「地獄」がやって来ないこと、人々を殺した罪の意識がやって来ない事をクラヴィスは実感するのです。
◇映画
 映画ではアレックスは自殺ではなく、クラヴィスによって殺害されます。
 冒頭のグルジアでの作戦中、クラヴィスが作戦対象である元准尉を捕えている場所にやって来たアレックスは、戦闘適応感情調整されていたにも関わらず、動揺し、PTSDの発作を起こし、元准尉を銃殺します。そこで危険を感じたのか、クラヴィスはアレックスを射殺するのです。
 まず、ここで自分は、いきなりアレックスに発砲するクラヴィスに驚きました。虐殺器官という作品では人の命の軽さを強調する描写が多々ありますが、それでもいきなり同国の、しかも同僚の兵士に銃を向けて殺すというのは、自分はかなり突飛な変更に感じました。原作では感情調整を受けても地獄から逃げられない故に死を選んだアレックスが、映画では感情調整に失敗したゆえに殺されてしまうことになっている……。
 そしてこの変更により、クラヴィスが「これまで仕事で行ってきた殺人への罪の意識の所在に対する疑問」という原作の一つのテーマが薄まることになります。
 ちなみに映画ではここはまだほんの冒頭部分。映画の最初の段階でこの変更に対する強烈な違和感を感じてしまった私は、そこからこの映画がどこでこの変更に対する辻褄合わせをしてくるのか、見守る気分で鑑賞する姿勢にならざるを得なくなりました。

2.クラヴィスとウィリアムズが観ていた番組内容の変更

 最初の作戦後にウィリアムズがクラヴィスの家を訪れ、一緒に宅配ピザを食べながら観るTV番組が変更されている点。原作では「プライベート・ライアン」の冒頭15分であったのに対し、映画ではアメフトの試合中継になっていること。
 原作で二人が観ていた番組は「プライベート・ライアン」の冒頭15分でした。この映画を観たことがある人は御存じのとおり、「プライベート・ライアン」の冒頭15分といえば、史上最大規模の上陸作戦であるノルマンディー上陸作戦の、もっとも苛烈な上陸場面の部分にあたります*3。陸に上がった兵士達が銃弾の雨にどんどん倒れていき、爆撃で手足は吹っ飛び、海は血の色に染まり、屍の上に屍が築かれていく……。そんな残虐な戦闘場面を、ウィリアムズとクラヴィスはピザを食べながら平気で観る。戦場のリアリティから切り離されて、ドミノピザの普遍性を享受するアメリカ人である二人(自らも軍人であるにも関わらず)。この構図を描くことで、二人は戦争という物騒な状態から切り離された平和な状態で、ドミノ・ピザに食らいつく普通のアメリカ人である事が強調されます。
 対して映画では、二人が観ている番組はアメフト(NFL?)の中継番組となっています。ここで二人はアメフトの選手を観ながら「過保護なルールだ(うろ覚え)」みたいなことをと呟きます。自らも過保護に手厚く守られた軍人であることを、自嘲するような言葉。普通のアメリカ人の日常風景……といった感じの何気ない日常シーンに、映画ではなっています。
 この場面における「日常性」「生活の普遍性」の原作と映画との強調の仕方の違いによって、受ける印象が随分と変わっている気がしました。
(ちなみに原作ではここでアレックスの死についての話も入る)

3.ユージーン&クルップス社の描写の省略

 原作ではウィリアムズと共にクラヴィスペンタゴンに召集されるシーンで、ユージーン&クルップス社のエリカ・セイルズ女史がプレゼンするシーンがあるが、映画では実はジョン・ポールの協力者である上院議員(院内総務)とエリカの挨拶のシーンのみになっている点。
 原作ではユージーン&クルップス社という戦争代行業者の存在をしっかりと描写しているため、アメリカ国外の戦争により回っている経済があること、そしてその利権を握っていたのが上院議員であることが分かりやすくなっています。
 しかし、映画では眼鏡をかけたエリカ・セイルズ女史は一瞬登場しますが、ユージーン&クルップス社の詳細な業務説明などが無いため、ジョン・ポールの背後で動いていた上院議員らの利害関係者の理解が難しくなっています。

4.クラヴィスの母や家族の描写の大幅な削除(重要)

 原作では冒頭から最後までクラヴィスを苦悩させる母の死や家族に対する部分が、映画では全て省かれている。これが原作が持つ「物語性」を薄くしている最大の点。
 原作では、最初からクラヴィスは母の死と「死者の国」の悪夢に悩まされます。これまでクラヴィスは仕事として何人も殺してきた。しかしそれは彼にとって「仕事の為に」「命じられ」「感情を調整され」て実行してきた殺人であり、リアリティの無い死でしかなかった*4
 しかし、母の死だけは違った。交通事故で酷く損傷を受け、生命維持装置で命を繋ぎ止めている状態になったクラヴィスの母。彼女の生命維持装置を止める決断をしたのはクラヴィス自身であり、母の死だけは「自分が犯した罪」であるという意識を、彼は持ち続けます。また、父の死により二人家族となり、母の視線の息苦しさを感じて生きてきた彼は、どこかで母を疎ましく思っていたのではないかと、母の死後に自責することになります。
 一方映画版では大胆にも――おそらく映画の尺的な制約で――クラヴィスの家族の描写は一切削除されています。これにより、下記に述べるとおり、クラヴィスのルツィアに対する執着の理由付けや、最後にクラヴィスがエピローグでとった行動の理由が薄くなり、原作が持っていた一人称の濃い物語性が薄くなった印象を受けました。 

5.クラヴィスのルツィアに対する執着の理由付け

 上記4の通り、映画ではクラヴィスの母の死に関する描写が省かれている為、クラヴィスがルツィアに執着する理由付けが弱くなっている点。
 原作では、ルーシャスの店でルツィアは自分の罪、つまりサラエボで核爆弾が爆発し、ジョン・ポールの妻子が亡くなった時、不倫関係であるジョンと寝ていた最中であったという赤裸々な過去を話した(ここまでは映画も同じ)後、今度はクラヴィスが母の死についてルツィアに打ち明けます。それはルツィアが自分と同じ「取り返しのつかない」不可逆な罪(つまりクラヴィスが母の生命維持装置を止めたこと)を持っているという点に、共感を覚え、彼女に惹かれたから。そして母の死を選択した過去を告白したクラヴィスに対し、ルツィアはその行為を肯定します。クラヴィスは、ルツィアとの会話の中で、母の死の責任を自ら背負った事を自覚し、救いを見出します。それにより、更にクラヴィスはルツィアに自分が喋ってはいない他の罪(仕事で多くの人を殺して来たこと)についても話し、彼女に裁かれたいという強い欲求を持つようになります。これが、原作でクラヴィスがルツィアに執着し、追い求める大きな理由でした。
 しかし映画では、クラヴィスの母の死についてのエピソードは省かれているため、なぜ罪を告白したルツィアにクラヴィスが惹かれるようになったのかが、分かりにくくなっています。ウィリアムズはクラヴィスにルツィアについて「あの女はファム・ファタール(運命の女)だ」みたいな事を言うので、クラヴィスがルツィアに惹かれる理由が、ファム・ファタールと出会って恋に落ちた……ような、ありふれたロマンティック理由に見えてしまい、やはり原作よりも理由付けが弱くなっている印象を受けました。確かにアニメのルツィアはかなり魅力的な女性に描かれてはいるのですが……。
 ちなみにアニメのルツィアのキャラクターデザインは、大きな憂いのある瞳の女性という、原作で自分が抱いていたイメージに近く、この点は凄く良かったと思っています。(少しセクシーすぎるような気もしつつ)

6.ジョン・ポールの死の変更と、エピローグの曖昧さ(重要)

 原作では他の兵士にあっけなく殺されたジョン・ポールですが、映画ではクラヴィスがジョンを殺害します。これは個人的には良い改変だったと思います。映画ではその他の点でも、クラヴィスとジョンは対極的な存在であることがたびたび強調されている印象を受けますが、物語の終盤、ルツィアという一人の愛した女性を失った事で、彼女の死を媒介に、クラヴィスとポールは初めて同じ方向に結びつきが出来ます*5。そこでクラヴィスは、自分の写し身ともいえる存在となったジョンを自らの手で殺害する事で、ジョンの遺志を受け継ぐ決意を感じさせる演出となっています。

 ……と、ここまでは良いのですか、しかし映画では、この後の場面(原作のエピローグにあたる場面)で、このクラヴィスの決意によって起こす行動の描写は、ずいぶんと曖昧な形で表現されています。
 原作のラストのエピローグでは、クラヴィスが議会公聴会の後に軍を辞め、ジョン・ポールの虐殺の文法の生成エディタを手に入れ、アメリカ国内で虐殺を引き起こそうとします。つまり、ジョンがアメリカを守るため他国で引き起こしてきた虐殺を、クラヴィスはアメリカ以外の世界を守るために、虐殺の文法を英語という覇権言語で使用するという選択をし、実際に実行するという、衝撃的な結末を原作では迎えます。
 一方映画では、議会公聴会で軍の機密事項を喋り告発される場面までは明確に描かれているがものの、その後のクラヴィスが起こした行為についての描写が曖昧*6で、何をしているのか原作を読んでいない人は分かりにくくなっています。
 また、原作ではクラヴィスがこの行動を起こすに至るもう一つの強い要因があります。それは、母の遺品から息子である自分への執着を見出せなかったことに対する虚無感から、自分が見ていた世界の覚束なさを感じたということ。しかし映画では描写の曖昧さに加えて、この母の遺品エピソードも無いため、最後にクラヴィスの起こした行動の経緯が非常に分かりにくくなっている印象を受けました。

 

7.おわりに

 (他にも変更点は挙げられるのですが)主に上記のような理由から、原作を読んで行った自分は細部細部の、しかし大きな違いについ意識が行ってしまい、混乱し、アニメ映画単体として入り込みきれなかった……。
 そもそもあの原作の思想性、物語性をすべて映像化するのは困難なのは自分も予想していた通りで、アニメ映画化にあたり、ミリタリーSF的な部分と、思想的な描写部分を虐殺文法周辺に絞って映像化したのは、きっと良い選択なのだろうと思います。しかし、良い選択であるがゆえに、自分は映画では描かれなかった原作のエッセンスについて、考えざるをえなくなりました……。

 なので個人的には、もういっそ原作を知らない状態で観たかった。あるいは映画ではなく、1クールのTVアニメとして放映してほしかったなあ……と思ったりしています。
 原作を全く知らずに映画を見た人、原作を読んで観たほかの方の感想を、もっと知りたいなあ……などと思いながら、この記事を認めたのでしたん。

 

◼追記

 そういえば、関西では今週末に映画『ハーモニー』が放映するので、そちらも観てみようと思います。 観逃していた「アイ・イン・ザ・スカイ」も、観たくなりました。

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*1:人工筋肉やシーウィードやオルタナ等のガジェットとか

*2:映画ではグルジアでの

*3:正確には映画では冒頭から約20分間続く

*4:父の自殺でさえも

*5:この結び付き方って、凄くホモソーシャル的で、伊藤計劃らしくは無いんですが

*6:付箋で単語をボードに貼り付けるような形で、虐殺文法エディタを利用している風の描写はあるにしても……