日々の泡

映画や本の感想、日々の出来事について

3月に観た映画まとめ

・「彼らが本気で編むときは、」
 ★★★⭐⭐
  母が突然家を出ていった少女トモは、叔父のマキオの家に身を寄せる。そこで、彼の恋人である性転換手術を受けた女性リンコと出会い、同居生活を送ることになる。最初は元男性のリンコに戸惑うトモだったが、母の愛情に飢えていたトモをリンコは我が子のように可愛がり、叔父マキオと共に家族のようになっていく。だが戸籍が男性のままで理不尽を受ける事やトモの母になりたい気持ちから、リンコは108つの男根の編み物を終えたら、戸籍を女性に変えると決意する。
 観る前生田斗真の某コメント読んで色々不安だったけれど、映画としては良くできた映画だった。母の愛情を知らないトモにリンコが惜しみ無い愛情を与え、絆が深くなっていけばいくほど、周りの普通の人々からは異様な関係だと理不尽な迫害を受ける。その理不尽さを乗り越えるために、リンコは編み物を編み続ける…。
 生田斗真のリンコは観ているうちに女性にしか見えなくなった。というか女性らしすぎるぐらいで、大変失礼ながら「普通の女性よりも圧倒的に女性らしく」て、そっちの意味で自分は違和感を感じた。けどトランスジェンダー女性の女らしくあろうとする振舞いを、生まれつきのシスジェンダー女である自分が、女性らしすぎると言うのも何だか傲慢だし、暴力的だと思う。しかし、それでもトランスジェンダー女性の描き方はステレオタイプすぎるような気がした。
 リンコはトランス女性で、マキオとの関係も異性愛者の恋人のそれだった。トモの同級生のゲイの男の子や、トランスジェンダーへの偏見を描いてはいるけれども、この映画はセクマイの関係というよりは、血の繋がらないリンコとトモが家族になる過程がテーマの映画なのだ。なのでLGBTQ的なものを期待して観に行くと、客は多分違うと感じると思う。むしろリンコの母性愛に対する賛美や、理不尽さに立ち向かうのではなく、編むという行為を通して自分の中で堪え忍ぶことを推奨しているので、マッドマックスFR等が好きな人とかにはなかなか相性が悪い映画だと思う。マキオがリンコに惚れた理由が、母親に対する献身さというのも、女性が追わされているケア性や、そういった社会のイメージを賛美しているようにも見え、自分は違和感を感じた。
 つまり、LGBTQを登場させてはいるけれど、多様性があまり感じられない点が気になった。一見してトランスジェンダーと分かる女性や、サッカーではなくバイオリンを弾くゲイ少年。家族の形や、母性愛や、女性らしさ…色んな点がステレオタイプすぎると感じた。

・「お嬢さん」
 ★★★★⭐
 パク・チャヌク監督の『お嬢さん』観た。舞台は1939年日本統治下の韓国。詐欺師の少女スッキは、同じく詐欺師である藤原伯爵から、莫大な財産を相続した令嬢秀子を伯爵に恋させ、駆け落ちする手引きを求められ、秀子の豪邸へ侍女として侵入する…。スッキは珠子という名を貰い、侍女として献身的に秀子の世話をするうちに、その美しさと孤独さに惹かれるようになり、藤原伯爵に嫉妬を覚えながらも、彼との仲を取り持つ。やがて伯爵の計画通り、伯爵と秀子とスッキは屋敷を逃れて、日本へと渡る。しかし、それは裏切りに次ぐ裏切りの序章だった…。
 とにかく上質な官能ミステリーだった。物語は三部構成で、謎パート→回答パート→後日談となっていて、時系列が交錯し、謎が明らかになるかと思えば、更なるどんでん返しが起こる…といったように、巧みな構成で観客を惹き付ける。絢爛たる美術や衣装も見事で、耽美で頽廃的なエロスに酔えた。
 閉じ込められたお姫様を救うのは王子様ではなく女性…という点では、アナ雪や、かつての少女革命ウテナに通じるテーマを持った終わり方で、爽快だった。

・「哭声/コクソン」
 ★★★★⭐
 韓国の地方のある山村では、村人が発狂し家族を惨殺する事件が続いていた。警察官ジュングはよそ者の日本人が事件の元凶ではないかと疑い始めるが、自らの娘もおかしくなり、自分自身も巻き込まれていく。
 最初裸の國村隼さんが山奥にいる画がシュールで笑ってたのに、見終わった後はなんとも後味の悪い恐怖が残った。山奥に住む怪しげなよそ者を演じる國村隼さんが、この映画で韓国の映画賞を授賞したのが話題だけど、さすがの存在感で、観た後はあの顔がトラウマになるレベルに…。
 頭のおかしなよそ者が村全体を恐怖に陥れていくパニック系のサスペンスかと思いきや、土着的な得体の知れないものが静かにジワジワと迫ってくるホラーだった。音で恐怖を煽るハリウッド系のホラー(1月に観たドントブリーズとか)とは真逆の演出。不快な程湿度の高い、まとわりつくような恐怖を体験できた。
 冒頭、國村隼さんが裸で四つん這いで森走ってて、シュールすぎて笑ってしまったのに、それが観終わったらトラウマになりそうになるなんて…。ストーリーは謎の解決に近づいたかと思えば、二転三転し、先の読めない緊張感を持って観ることが出来た。ホラーが好きな人、民俗学的な怪談が好きな人にお薦めしたい。
 混沌とした謎のパワーを感じる映画だった。

・「アシュラ」
 ★★★★⭐
 悪い奴らばかり出てくる韓国ノワール映画『アシュラ』。病気の妻を持つ刑事ドギョンは金の為、街の再開発を計画する市長の裏方として汚職に手を染めていたが、それに目をつけた検察官は逆に彼を利用しようと近寄り、泥沼の板挟みにずぶずぶと墜ちていく。
 主人公ドギョンは市長側につけば検察に逮捕され、検察につけば金脈を失いこれまでの市長の後始末を暴かれるという、ダブルバインド状態に陥る。市長を裏切り、一方で検察の目を騙す…そしてバレれば終わり。裏切りに裏切りを重ねるうち、事態は主人公の弟分まで巻き込み、主人公自身も狂気を帯びていく。
 二重スパイものの韓国映画といえば『新しき世界』を思い浮かべるが、『アシュラ』もそれに劣らぬ傑作だった。裏切りを重ねる主人公の状況は緊張に緊張を増していき、膨らんで張りつめた風船が破裂するように、事態は混乱と崩壊へと転がる。その様相たるや、まるで恐ろしい地獄を覗き込んでいるかの心地だった…。
 観終わった時、『アシュラ』という地獄から地上へと戻ってこれたような安堵感が広がると同時に、ずしりと重い後味が喉につかえたまま取れなかった。これが本当にフィクションでよかったと思える程に、どこまでも闇が深く、飲まれてしまいそうになる。観客を地獄の淵に立たせ、その中を覗かせるかのような映画だった…。

・「SING」
 ★★★⭐⭐
 『SING/シング』吹替版で観た。廃業寸前の劇場支配人のコアラのバスターは、劇場再起をかけて賞金付歌のオーディションを企画。子育てに追われる主婦のブタや、ギャング親子のゴリラ少年や、ハリネズミのロック少女等、個性的な候補が集まってくる。
 感想としては、良くできたエンターテイメントで、楽しい映画だった。テイラー・スウィフトのShake It Outから、フランク・シナトラの名曲やデヴィッド・ボウイ+フレディ・マーキュリーのUnder Pressure等々、古今の数多くの洋楽有名曲が流れまくるので、気分がノって最後までサラッと観れた。
 ただし、同じく動物世界を描いたズートピアや、マイノリティ達を主役に描いたミュージカルgleeといった、似たテーマを描いた作品を観てしまった2017年現在の今となっては、正直なところ、「ただ楽しいだけのエンタメ」では満足出来ない自分がいた。
 オーディションに出てくるキャラクター達はマイノリティや弱者も出てくるが、各キャラクターの抱えている問題や立場やそれによる葛藤・抑圧は、実社会の社会構造を反映したズートピアほど掘り下げられていない。
 またSINGの世界では歌が各キャラクターの抑圧や呪いからの解放に繋がる装置としての役割を持つが、上に述べた通り、キャラクターの葛藤の描写が薄いため、最後の見せ場である各キャラクターのライブシーンで、解放感というか、私には物語のカタルシスが足りなかったのである。
 SINGがとびきり楽しい映画なのは間違いない。だが、もしSINGがもっとキャラクターの背景や問題を掘り下げ多様性を獲得し、歌にもっと強いメッセージ性が結び付いていたならば、ただ楽しいだけではなく、(例えばgleeのように)他の誰かの物語ではなく、私たちの物語として、心に刻み付ける、もっと強い何かを与えてくれただろうと思う。
 楽しいだけのエンタメで終って欲しくなかった。それが残念である。

・「モアナと伝説の海」
 ★★★⭐⭐
 女神テフィティの心を盗んだ英雄マウイにより世界に闇が生まれたという伝説の伝わる南の島。そこでは外洋に出ることを禁じていたが、異変が島を襲う。マウイを探して女神へ心を返しに行く為、島長の娘モアナは海へと旅立つ。
 この映画には、大きく二つのテーマがある。一つは「外の世界へ目を向けよ」。モアナの住む島では、豊富な海洋資源と自然に恵まれて暮らしていける為、珊瑚礁の向こうの外洋に行く事が禁じられている。海へと出ていきたがる彼女に対し、父である島長は、海へと冒険に出るのではなく、皆の生活を守る島長となり、島の伝統である石の塔を(まるでバベルの塔のように)積み上げよ、と言う。珊瑚礁の中に居れば安全だ、石を高く積み上げよ…という父の言葉は、昨今の先進国で台頭しつつある保守主義ナショナリズム等の情勢と大きく被る。だがモアナはそんな父の言いつけを破り、闇に飲まれつつある村を救う為、そして言われたままに島長になるのではなく、本当に自分がしたいことを見つける為に、珊瑚礁を越えて波の荒い外洋へと旅立つ。「少女よ、内に籠るのではなく、勇気を持ち、外へ旅立て…」これが、まずひとつ目の大きなテーマではないだろうか。
 二つ目のテーマは、英雄マウイというキャラクターに大きく関わる。マウイは神だが、生まれた時は普通の人間であった為、(おそらく神であった)両親から捨てられたという過去を持つ。親から愛されなかったというコンプレックス故、代わりに人間たちから崇拝される事に喜びを覚えるようになる。それゆえマウイは、人々から賞賛されるため、海から釣り針で陸を引き揚げて島を作り、太陽を引き寄せ、ついには世界を生んだ女神テフィティから彼女の心を盗み、世界から闇を作ってしまう。モアナはマウイにテフィティの心を返させるため会いに行くが、釣り針を失った彼は、単なる調子の良い小心者でしかなく、モアナを洞窟に閉じ込める等の卑怯な振舞いさえ見せる。また、戦いで釣り針が傷つくや否や、彼は臆病にも逃げ出す…。このような彼の振舞いから、彼が真の英雄ではなく、実は単なる自己肯定感の低い一人の男でしかない事が、物語の後半露呈されていく。
 しかしその一方、モアナはマウイとの交流を通じて、自ら船を動かす術を身に付け、マウイに頼るのではなく、自らの力で障害に立ち向かおうとする。そしてそんな彼女を見て、マウイは人々から賞賛されたいが為ではなく、友人である彼女を救う為に、初めて自らの意思で自らの限界を越えて戦おうとするのだ。一方、モアナ自身も旅とマウイとの交流によって変わっていく。ただ言われるがまま島長になろうとしていた受け身の彼女が、勇気を持って珊瑚礁を越えて、マウイの力に頼らずに自ら障害に挑もうとするまでに成長していく。
 自らを見つめ、自らの力でなすべきことをなせ…。これが、このえいがの持つ、二つ目の大きなテーマであるように思う。
 少女よ、外に目を向けよ。自らを見つめ、自らの力でなすべきことをなせ。モアナと伝説の海は、そんなメッセージ性が詰まった映画だった。
 ただ一点、個人的にどうしてもこの映画を好きになれない部分がある。それはモアナとマウイの序盤の関係性である。モアナが主人公であるにもかかわらず、無力なモアナは男性のマウイの前だと徹底的にケアワークに徹するしかないという構図。勿論最後にこれは変化するのだが、自己肯定感の低い男の為に、ひたすらケア役に回る女性主人公というのは、昨今のディズニー作品にしてはずいぶん古い価値観に思えた。マッドマックスFRのオマージュを入れるくらいなのだから、その辺りのジェンダー観もアップデートしてほしかった。

・『ムーンライト』
 ★★★★⭐
 観終わったとき思い出したのは、ウォン・カーウァイ監督の名作『華様年華』だった。それはこの作品が華様年華と似た構成や音楽の使い方や証明や撮り方で(おそらく実際意図的に)制作された事のみならず、両作品とも描かれているのが「時を経て変わっていく人と愛の形」だったからだ。
 この作品は三部構成となっている。育児放棄気味の母親に育てられ、学校ではいじめに遭う中、売人フアンと知りあい、ケヴィンとの友情が芽生え始める幼少期「リトル」、自分のセクシャリティとケヴィンへの想いに気づく少年期「シャロン」、そして故郷を離れ大人になった成年期を描く「ブラック」。物語は「リトル」→「シャロン」→「ブラック」の順に、シャロンの幼少期から成年期にかけた、最悪の境遇と、その中で得た切ない愛と人との絆、そして彼自身の半生を描く。
 主人公シャロン貧困層の黒人であり同時にゲイという二重、三重のマイノリティであり、それが幼少期から成年期に至るまで彼を常に孤独に追い詰める要因となっている。そんな永遠とも思える孤独の中で、彼が得たかけがえのない人の絆が、幼少期では麻薬売人のファンとその妻テレサの擬似親子的親愛であり、フアンの死後は、親友ケヴィンとの友情、そして彼への密かな想いである。
 何重ものマイノリティであるシャロンの将来にはそもそも選択肢が少なく、彼は否応なしに恩人フアンが「自分のようになってほしくない」と願った類いの人物へと成長していく。そんな大人になっても手放す事ができずにいたのが、ケヴィンへの想いであり、幼少期から育んだ彼との絆であった。
 そして物語の後半、大人になったシャロンは思わぬ形で、胸にしまっていたはずのケヴィンへの想いに再び対峙することになる…。
 最悪の境遇の中で得た、最愛のものたち。それはシャロンという一人の人間の中で時間を経て、成熟し、暗闇の中で彼を照らす月の光のように、儚くも冴えた光を放ち続ける…。
 この映画は、シャロンという人間の半生を通じて、孤独、絶望、そしてそんな最悪の境遇の彼の中で育っていく愛のかたちを教えてくれる。私たちは必ずしも、彼のように何重もの重荷を背負ってはいない。だが、誰もがシャロンのように孤独で、けれど心の中に美しい月の光を持っている。それを優しく語りかけてくれる映画だった…。